「ゼロのリアリズム」

―赤岩栄と椎名麟三が目指したもの

水野吉治

 椎名麟三と赤岩栄は、一九四八年(昭和二三年)に、「ドストエフスキー研究」(「個性」(思索社)六〜八月号)という座談会で、はじめて出会います。
椎名三六歳、赤岩四四歳でした。
その前年は、椎名が「深夜の酒宴」を発表した年です。

 その頃、赤岩は、日本基督教団代々木上原教会牧師として、キリスト教会が外国の援助に頼らず、教派を超えて、自立と連帯の方向に進むよう、熱心に活動していました。
一九四八年には、赤岩は、日本基督教団が社会的実践に積極的に関わるべきだと提唱して、日本共産党を支持する発言をしたため、教団の指導者層と衝突します。
ちなみに、同年赤岩は「ドストエフスキー復興」という論文を「思潮」(昭森社)八月号に書いています。

 こうして、赤岩と椎名は、ドストエフスキーと社会主義という二つの流れを共有することになります。
しかし、実はそれ以前から、二人は同じ方向に向かって歩み始めていたのです。

 赤岩は、椎名と同じように、若くして社会主義の洗礼をうけ、二八歳で、「マルクス主義と基督教」という論文を、「福音と現代」(長崎書店)という雑誌に連載しています。
一方、椎名は、二〇歳で日本共産党青年同盟員になります。
そして、赤岩四四歳のとき、上記の「ドストエフスキー研究」という座談会で、三六歳の椎名に出会うのです。

 二人の共通点は、思想の点だけではなく、気質の面でも共通するものがありました。
 
赤岩は、はげしい気性の持ち主でした。
好川貫一によれば、赤岩の父は広島県三次(みよし)教会の牧師でしたが、ある日曜日、礼拝説教をしていた最中に事件が起こりました。
当時一七、八歳の赤岩が、突然会衆席から立ち上がり、説教している父の方へ突進して、
「お父さん! 
あなたは偽善者だ! 
あなたが今話したことはウソじゃないか。
あなたの今の言葉は、あなたが家庭でいつも言っていることと全然違う。
あなたはそんなところからみんなに説教する資格はない。
降りろ!」
と叫んで、父の腕をつかんで、講壇から引きずり降ろしたというのです。
(「若き日の赤岩栄」赤岩栄著作集(教文館)月報6)

 赤岩は、自分と違う考え方をする相手を絶対許すことができず、そのために場所柄もわきまえないで、無用の騒動を引き起こしがちでした。

 椎名も、赤岩に劣らず、人に突っかかることがよくありました。

 北森嘉蔵(かぞう)(四六歳ごろ)が椎名(五一歳ごろ)と同席したとき、椎名に
「文学は、まず面白くなけりゃあ駄目だね」
と言ったところ、椎名が
「先生、『面白さ』ってなんですか」
と聞いてきました。
当時北森は、東京神学大学教授で、千歳船橋(ちとせふなばし)教会牧師もしていたので、椎名が『先生』と呼んだのです。
北森が、
「『面白さ』というのは、黒沢明の『椿三十郎』のようなものですね」
と言うと、椎名は色をなして怒り出し、立ち上がると、その部屋で三々五々しゃべっていた人たちに向かって、北森を指差しながら、
「おおい、みんな来い。
ここに『椿三十郎』に無条件降伏したヤツがいるから、顔を見てくれ。
おれは、これまで北森先生を大先生として尊敬していたけれども、今日からやめた。
『椿三十郎』に無条件降伏した人間を尊敬するわけにはいかん」
と言ったそうです。
(北森嘉蔵「神を訴訟する―椎名麟三」(講談社)《「愁(うれ)いなき神」所収》)

 これらの逸話からわかるように、赤岩も椎名も、相手の見解が許せないとなると、もはや自分を抑えることができなくなります。
そして、相手が権威の座にある場合には、そこから相手を引きずりおろさずにいられなくなるのです。
 
さらにもう一つ、両者に共通する点をあげるならば、母に対するコンプレックス(意識下に抑圧された感情)があります。

 椎名の母は、ヒステリックな性格の人で、椎名に対して、しばしばカッと腹を立て、竹箒(ぼうき)を振り上げて椎名を追い掛け回したことが、作品に描かれています。
その母に対しては、母から逃げたいという感情と同時に、
「母のいない世界なんか、生きて行くことはできない」
という愛情も感じていました。
(「猫背の散歩」(椎名麟三作品集七《講談社》)
「母の像」(河出書房)では、母に対する愛憎の感情を冷静に描こうとしていますが、それでも、「自由の彼方で」を書くに際して自らの過去に対して取ったユーモアの視点を取り得ず、「母の像」では、すでに自殺した母を、
「戸籍の上で生きつづけさせることに決めていたのだった」
という表現でわずかに「復活」を暗示させながら、母と自分との間の距離を確保しつつも、なお母が椎名を支配し続けていることを告白しているように見えます。
ここでは「自由の彼方で」ほどの完璧な復活の視点は感じられません。
つまり、母に対するコンプレックスは解消されていなかったのではないでしょうか。

 赤岩の場合は、先述のような、父に対する攻撃的な態度とは正反対に、母に対しては同情的で、母のことを「マザー」と呼ぶような、母に対する屈折した愛情の照れ隠しが感じられます。
好川貫一によれば、あるとき赤岩は、
「おやじは、やはり田舎伝道師なんだが、これ(父)はどうでもいいんだ。
おやじと別居して、ひとり広島で伝道しているマザーが気の毒でね。
ぼくに神学校へ入学してくれと、泣いて頼むんだ。
抵抗できないよ」
と述懐したそうです。
(「若き日の赤岩栄A」赤岩栄著作集(教文館)月報3)
そのときの複雑な想いを、赤岩は次のように表現しています。
「『いやです。』
ただひと言、私は母に答える外なかった。
(中略)
母は、私の拒否にあって、女が恋人に意中をうちあけて、それを拒まれた時よりも、もっと動揺したように見えた。
真っ暗な洞窟の中に、まだ一条の光がさし込んで来ていたのに、ついに、この一条の光さえ、消えてしまったのだ。
その一条の光は、母にとって私であった。
(中略)
私は、痩せて薄い母の体を抱きしめようと思った。」
(「神をたず探ねて」《前出赤岩栄著作集第三巻》)

結局赤岩は神学校に入ります。
母に対するコンプレックスがそうさせたのでしょう。

 赤岩の場合も椎名の場合も、父の存在は表舞台から影を潜め、母の存在が「演出家」としての役割を果たしているような印象を受けます。
エディプス・コンプレックス(父に対する反抗、母に対する愛着)とはこのことを言うのでしょう。

女性が「反赤岩」の演出家の役割を果たした場面は、代々木上原教会の分裂という事件に現れています。

赤岩が、日本共産党へ入党すると宣言したあと、それに批判的な教会員のうち、二〇数名の女性会員が、教会を脱退して新しく千歳船橋教会をつくり、北森嘉蔵を牧師として迎えました。
一九五〇年(昭和二五年)五月のことです。
(前述の椎名と北森とのやりとりは、一九六三年(昭和三八年)ごろです。)
それ以前にその女性会員たちの目に映っていた赤岩は、
「可愛い坊やみたいな我がままなところや、世間知らずのどこか初心(うぶ)なところ」
があり、
「自分の奥さんには頭が上がらなかった」
すがたでした。
一方、北森は、
「母親と叔母に大事にされて、三五歳の今日まで独身で通している」
「清らかな感じ」

「中性的」

「清潔な」
人柄で女性たちを惹きつけていたようです。
北森と赤岩は、性格的に共通点を有しながら、赤岩が女性に対して、厳しく、軽蔑的な態度であったのに対して、北森は穏やかで、女性たちを優しく扱ったようです。
(竹本哲子「私の出エジプト」《日本之薔薇出版社》)
おそらく、赤岩はコンプレックスが生み出す緊張のため、女性の心理が見えなくなり、女性を敵に回してしまったのではないでしょうか。

 さて、いよいよ本題に入らねばなりません。

 赤岩は、椎名に洗礼を授け、自分の教会に会員として受け入れた後、一九五〇年(昭和二五年)十二月、「指」という雑誌を創刊します。
椎名は赤岩に協力して、それ以後一九六四年(昭和三九年)四月まで十四年間、一度も休むことなく、「指」への執筆を続けます。
椎名との「蜜月」を象徴する次のような赤岩の言葉があります。

「復活において、死から解放された人間として、この死を極限とする厳しい世界とともにあり、それとともに生きることによって成立する厳しさとゆるめの中に、意識と世界との並存の可能性はあり、また真の芸術の条件であるユーモアが成り立つのである。
こうした文学の道を見出したのは世界にただひとり、椎名麟三ではないであろうか。」
(「新しい人間誕生―これからのキリスト者」(前出赤岩栄著作集第七巻)一九五五年《昭和三〇年》)

まさに恋人にささげる最大級の賛辞であり、愛の告白ではないでしょうか。

しかし、この十四年の蜜月も、椎名の執筆中止通告によって、終わりを告げることになります。

 椎名が、赤岩の思想について行けなくなったのは、「非神話化」という問題をめぐってでした。

 そこで、まず、赤岩の「ブルトマンの非神話化の問題をめぐって」(山本和編「アジアにおけるキリスト教」(創文社)所収・一九五五年)を参考にして、非神話化とは何かということを考えてみたいと思います。

 聖書は、すべて古代的世界観の枠組みの中で語られています。
神・天使・悪魔・陰府(よみ)・天国・地獄などの概念を使って、物語られる内容は、神話と呼ばれます。
それは、自然科学的世界観とは、とうてい相容(あいい)れないものであって、現代人が、聖書の真理に近づこうとする時の大きな障害です。
その障害を取り除こうとする試みが、非神話化と呼ばれる作業です。

では、そもそも神話とは何でしょうか。

私たちは日常「お日様が東から昇って、西に沈む」と言います。
そして、自分の言っていることが、どこかおかしいとか、何か間違ったことを言っている、というふうには思いません。
他の人も、私たちが、天動説をとなえているとも、非科学的だとも言わないでしょう。
たしかに、地球の自転の結果、日が昇ったり沈んだりするように見えるだけです。
そこで、「日が昇った」ということを、あえて「科学的」に言おうとして、
「私が乗っかっている地球が一回りした。
そのため、私が地球上に立っている地点を基準点とすると、太陽が、「東」という相対的な方向から昇っているように見えるが、実は私の立っている地点が、「東」という相対的な方向へ向かって回転しているのだ」
と言ったとすると、聞いている人は、
「この男はアタマがおかしいんじゃないのか」
と思うでしょう。
「日の出」や「日没」と言うような表現を使わないで、地動説的に説明しようと必死になればなるほど、周りの人は、私たちが何を言っているのか、ますますわからなくなってしまうでしょう。

「東」と言っても、「西」と言っても、「昇る」と言っても、「沈む」と言っても、すべて相対的な表現なのです。
わたしたちが生きている世界は「相対」の世界なので、そこには、「絶対的な東」も、「絶対的な西」もありません。
「上」と言っても、「下」と言っても、何かを基準として、「その上」、「その下」と言えるだけで、「絶対的な上」もなければ、「絶対的な下」もないのです。

私たちが、日常使っている言葉は、すべて、相対世界の言葉であって、絶対的なものを表現しようとすれば、「神話」という形式を使わざるを得ないのです。

地動説も、天動説も、天体の動きを理解し、表現するための「お話」に過ぎません。
「お話」は、「道具」であって、絶対的な真理ではないのです。
それらは、いわば「科学的」という包装紙で格好をつけているだけで、どれも中身は「神話」なのです。
地動説が「科学的」であって、天動説は「非科学的」であり、「迷信」であると決め付けたりするのは、自分の立場が「絶対」であり、「不動」であるとする態度であって、それこそまさに「天動説的」態度と言わねばなりません。
本来「科学」とは、あらゆる常識を疑ってかかるところから始まるのです。
「科学」が「常識」となってしまっている場合には、その「常識」を疑ってゆかなければ、本当の「科学的態度」とは言えません。

たしかに、現代では、地動説が「通説」となっています。
「通説」に異を唱えるのは、よほど非常識な人間か、自信のある人間でしょう。
なぜなら、「通説」は、たいてい「自称科学者」のお墨付きで権威付けられていると思われているからです。
でも、いったい何人の人が、自分で「通説」を検証したのでしょうか。
「みんながそういうから、そうなんだ」
で済ませているというのが実情ではないでしょうか。
地球が太陽の周りをグルグル回っているのを見た人があるでしょうか。
宇宙飛行士でも、自分の乗っている宇宙船を基準にして、地球と太陽の動きを見ているだけで、見えない部分は仮説で補っているので、全体を見ているような気がするだけではないでしょうか。
そもそも人間は、宇宙全体をひと目で見ることはできないのです。
「宇宙全体」という「神話」をでっち上げているにすぎません。

自分の神話が絶対正しいという立場を、原理主義といいます。
赤岩は、原理主義に対する強い拒絶反応を持っていました。
その結果、「非神話化」に始まって、「非教会化」、「非キリスト教化」、「非宗教化」へと突っ走りました。
教会から、講壇を取り払い、赤岩は会衆席と同じ平面に立って話をしました。
従来の讃美歌はなくなり、赤岩の作った讃美歌が歌われました。
オルガンが売り払われ、代わりにピアノで伴奏されました。
献金がなくなりました。
「日曜学校」も廃止されました。
すべて「非神話化運動」の行き着いたところでした。

椎名は、この有り様に反発しました。
そして、赤岩が、聖書の非神話化を推し進めて、一九六四年(昭和三九年)「キリスト教脱出記」(前出赤岩栄著作集第九巻)を公刊するに至って、とうとう決定的な決裂を見ることになります。

一九六六年(昭和四一年)、椎名は、代々木上原教会を去って、三鷹教会(石島三郎牧師)に転会します。
続いて「上原集団脱出記」(「兄弟」《基督教学徒兄弟団》)、「善魔」(「文学界」)を発表し、積極的に、半ば感情的とも取れる赤岩批判を展開します。
ただし、椎名の赤岩批判は、一九五六年(昭和三一年)からすでに始まっていました(「信じられないということ」《「指」七一号》)。

一方赤岩は、相次ぐ椎名の攻撃に対して沈黙を守りました。
赤岩の健康状態がすこぶる悪化していたからでもありましたが、かつて椎名の「三つの訴訟状」(「展望」一九四八年《昭和二三年》)に対して、「文学と神学―椎名麟三「三つの訴訟状」に」(「人間」(鎌倉文庫)同年)で反撃したような、高飛車な反論はしませんでした。
赤岩の死後発表された「椎名さんの作品」(筑摩現代文学大系第六六巻「椎名麟三集」月報二八)には、
「文学的方法論が、意識的に確立した場合、椎名さんにとって、それは作品創作の方法論というよりも、一つの獲得された《神学論》となってしまい、作品を産み出す上で、むしろマイナスではないかと私は憂えるのである。」
と書いていますが、「椎名麟三集月報」という制限を意識しているせいもあって、何か弱弱しい批判という印象をぬぐえません。
かつての盟友、というより昔の恋人をいたわるかのような、遠慮がちな語り口は何を意味するのでしょうか。

 赤岩は、最後まで、キリストの復活を自分の根拠にすえていました。
一九六六年(昭和四一年)十一月に胆道癌で亡くなる直前の六月、「曲り角に立つキリスト教」(前出赤岩栄著作集第九巻)という講演をしていますが、その中で次のように言っています。

「私が今、イエスと私との関係を持ちうるということ、それが復活信仰にほかならぬという人がもしあるなら、私は決してこの復活信仰を否定しようとは思わない。」

 その復活信仰こそ、赤岩と椎名を結びつけるものなのですが、椎名は、赤岩が、非神話化によって復活信仰を否定していると誤解したのです。
椎名にとっては、復活は、自分の文学の根拠であり、自分の生きる意味そのものなのです。
赤岩が非神話化を言い出したときには、自分の聖域を侵されるような危険を感じたのでしょう。

 椎名が、復活信仰を「聖域」と思い込んだのに対して、赤岩は、いくらキリスト教全体を否定しても、なお残るものが復活信仰だと信じていました。
実は、椎名も、一九五六年(昭和三一年)八月の代々木上原教会夏期集会での「信じられないこと」という講演の中で、

「信じる者も、信じられない者も、その両者を超えて、救われてあるのだ」

ということを語っています(前出「指」七一号)。
否定しても否定しても、なお人間を生かし続けているもの、それこそ復活なのです。

 否定しなければならないものは、自分が後生大事に抱え込んでいる神話とか聖域ではないでしょうか。
赤岩にとっては、自然科学的世界観が神話であり、椎名にとっては、聖書の復活の「記事」が聖域でした。
神話や聖域は、それにとらわれている者にとっては、「とらわれている」ということさえ気づきません。
「あなたはとらわれている」と、人から指摘されると、たちまち逆上し、激昂してしまいます。

 もともと、復活信仰や復活体験は、この時間と空間の相対世界の中では、「見えないもの」、「表現できないもの」、つまり、ゼロなのです。
赤岩は、いみじくも、自分の帰着点、自分の出発点を「ぜろ零」と表現しています(「指」一九六三年四月号)。
ゼロは決して他と衝突しません。
原理主義が紛争を引き起こすのは、ゼロではないからです。
復活が「空虚な墓」に象徴されるということは、復活がゼロだということです。

新約聖書ルカによる福音書二四章には、十字架にかかって死んだイエスを葬った墓に向かって、女たちが遺体に香料を塗るために行ったところが遺体はなく、輝く衣を着た二人の天使がいて、

「なぜ、生きておられる方を死者の中にさが捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」

と言ったと記されています。

 復活は蘇生ではありません。
蘇生なら、またいつかは死なねばなりません。
復活は死を超えていますから、もはや決して死ぬことはないのです。
復活はあくまで「見えないもの」、「表現できないもの」であり、それをあえて表現しようとすると、「天国」とか「霊魂不滅」というような神話という形を取らざるを得ません。
復活は、どこまでも、ゼロなのです。
「無」なのです。
それを「有」として理解し、つかもうとすると、その手をスルリと抜けてしまって、手の中には何も残らないということなります。
何も残らないと分かった時の「悪足掻(わるあが)き」が原理主義なのです。

 椎名は復活のイエスを「美しい女」(「中央公論」一九五五年・昭和三〇年)というイメージで表現しようとしました。
赤岩が、非神話化という方法で目指したことを、椎名は、「美しい女」というイメージを使って、文学上で実践したのではないでしょうか。
復活を、直接表現しようとすれば、椎名の排斥した自然主義リアリズムに堕してしまうでしょう。
自然主義リアリズムでも社会主義リアリズムでもない、第三のリアリズムとしての「復活のリアリズム」こそ、椎名も赤岩も目指したところではないでしょうか。
それは、いわば「ゼロを視点とするリアリズム」、「ゼロのリアリズム」なのです。
(二○○八年三月二十九日)