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終末について
死について  水野吉治 2009/01/27

死を体験したことのある人はいるでしょうか。

この問いは、たいへんバカげていると思われるでしょう。
なぜなら、人間を含めて、死を体験しない生き物はいないからです。

次に、バカげていると思われる第2の理由は、「私は死を体験した」と言う人がいたとしたら、その人は大うそつきか、頭のおかしい人だということになるからです。

死んだ人は、死んでしまっているのですから、そのような発言をすることはできないのです。
「臨死体験」というのは、息を吹き返した人の話であって、死んでしまった人の話ではありません。
「臨死体験」をした人が、死を体験したと言うなら、それは、「臨死」ではなく、「死」そのものでなくてはなりません。
人間は絶対に「私は死を体験した」と、過去形で言うことはできないのです。

「霊魂不滅」とか「輪廻転生」とかいう、神話的仮説も、本当の「死」を語るものではありません。
「不滅」の霊魂がなくなるのが、本当の「死」であり、転生する「次の生」が「もうない」というのが、本当の「死」だからです。

にもかかわらず、「人間は必ず死ぬ」という事実を否定することもできません。

では、人間は、体験したこともない「死」を、本当に知っているのでしょうか。

人間が知っている「死」は、「他人の死」であって、「自分の死」ではありません。
人間はだれでも、自分が知らない「自分の死」を、なんとかして知りたいと思うのです。
でも本当は、それを知るのはこわいのです。
そして、「自分の死」を考えないようにして、生活しています。
しかし、いやでも生活の中で、毎日、「死」を見聞きします。
「明日は我が身」です。

そこで、また考えます。
「『この私が死ぬ』って、どういうことだろうか」と。
いくら考えても、「死」そのものは見えてきません。
見えるのは「死」ではなくて、「死の恐怖」だけです。

どういう恐怖なのでしょう。

それは、ちょうど、とても高いところを、自分の手でつかまるものが何もないままで、歩くときの恐怖に似ています。
「落ちたらどうしよう」という恐怖です。
でも、落ちていません。
しかし、想像力が働いて、落ちて行く自分の姿が目に浮かぶのです。
落ちて、地面にたたきつけられて、ペシャンコになった自分の死体まで、頭の中に、あざやかに描かれます。
要するに、私たちは、自ら描く「死」の「想像」によって、おびえているのです。

さて、そこで、聖書は、私たちにどういう解決を与えてくれるのでしょうか。

1.まず「明日のことを思い悩むな」というメッセージです。
  「『今神によって生かされている』という事実の、圧倒的な重さを、今、実感せよ」というのです。

2.次に「イエスの復活によって、『死』は滅ぼされた」というメッセージです。
  「イエスの復活において、もはや『死』はなくなった」
  「死んでも命がある」ようになったということです。

3.いいかえれば、「『死』も神の御手の中にある」ということです。
  神の許しがなければ、雀1羽も死ぬことはないのです。
  「陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなた(神)はそこにいます(いらっしゃる)」と旧約聖書詩編139にある通りです。

4.「死を経た生」が「復活」ですから、
  「今、『死』を体験しようと思ったら、『復活』を体験せよ」というのが聖書のメッセージです。

ただし、「自殺」は「『死』によって、楽になりたい、自分の思いを果たしたい」という「欲」から死ぬことですから、「楽になる」「思いを果たす」ということを「体験できる」と思う、とんでもない誤解です。

5.「『死』について想像することをやめよ」というのが聖書のメッセージです。
  「死」について想像することから、神話的仮説に頼らざるを得なくなり、そこから多くの矛盾が生まれてきます。
  新約聖書マタイによる福音書22章、新約聖書マルコによる福音書12章、新約聖書ルカによる福音書20章などにある「復活についての問答」を見て下さい。
  「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とイエス様は言っておられます。
  

まだまだ言い足りないことがいっぱいあるような気がしますが、長くなりすぎるので、これだけにしておきます。
皆さんの疑問をお聞かせ下さい。

旧約聖書詩編139篇抜粋と講解 水野吉治 2008/12/01

「主よ、あなたはわたしを究(きわ)め
 わたしを知っておられる。」(1節)

 人間は自分自身のことをどれほど知っているでしょうか。自分の体のことでさえ、ほとんど何も知りません。医者や自然科学者が、人間について何もかも知っていると思うのは、傲慢(ごうまん)もはなはだしいです。

「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
 主よ、あなたはすべてを知っておられる。」(4節)

 言葉で表現し、理解することで、すべてが分かったと思いがちですが、「分かった」と思い込んでいるだけです。「分かった」というのは、とんでもない誤解なのです。言葉も、表現も、理解も届かないところに、真理はあるのです。

「前からも後ろからもわたしを囲み
 御(み)手をわたしの上に置いていてくださる。」(5節)

 神の力は、わたしの見えないところ、気づかないところに働いています。「見えないから存在しない」のではありません。どんな強力な存在も、見える存在である限りは、いつかは消えて行きます。見えないからこそ、永遠に働き続けて行くのです。

「その驚くべき知識はわたしを超(こ)え
 あまりにも高くて到達できない。」(6節)

 神の力は、認識を超え、感覚を超えています。所詮(しょせん)有限は、無限を容(い)れる器(うつわ)ではあり得(え)ません。有限は、無限を認識することはできないのです。

「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。
 どこに逃(のが)れれば、御(み)顔を避けることができよう。」(7節)

 神の支配の届かない場所は、この宇宙に存在しません。

「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
 陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。」(8節)

 地獄に堕(お)ちても、そこも神の支配するところです。

「わたしは言う。
 『闇(やみ)の中でも主はわたしを見ておられる。
  夜も光がわたしを照らし出す。』」(11節)

 人工的な光をいくら煌々(こうこう)と照らしても、それで闇が消えるわけではありません。

「闇もあなたに比(くら)べれば闇とは言えない。
 夜も昼もともに光を放(はな)ち
 闇も、光も、変わるところがない。」(12節)

 神の支配の光は、この世の光と闇を超えた、根源的・絶対的な光です。

「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
 わたしの日々はあなたの書(しょ)にすべて記(しる)されている。
 まだその一日も造(つく)られないうちから。」(16節)

 宇宙が存在する前から、すでに神の支配は始まっています。

「あなたの御計(おんはか)らいは
   わたしにとっていかに貴(とうと)いことか。
 神よ、いかにそれは数(かず)多いことか。
 数えようとしても、砂の粒より多く、
 その果(は)てを極(きわ)めたと思っても、
   わたしはなお、あなたの中にいる。」(17、18節)

 どこまで行っても、神の支配の中です。人間は、神の支配の外に出ることはできません。出たと思っても、まだ神の支配の中にいます。『神の中に生き、動き、存在する』のが人間です(新約聖書使徒言行録17章28節)。知っても、知らなくても、信じても、信じなくても、絶対的に、根源的に、神の支配の中にいるのが人間なのです。

2008年7月19日 新老人の会阪神北地区交流会 2008/10/02

   「生きる意味」

          華厳(けごん)の滝からのメッセージ

         水 野 吉 治

人間としてこの世に生を受けた者は、誕生の瞬間から、一人の例外もなく、死に向かって、確実に歩み続けています。その死が、いつやって来るのかもわかりません。では、死に到達するまでは、平穏無事なのでしょうか。そうではありません。病気に遭(あ)い、人間関係に傷つき、生きる意味を見失い、老いに悩み、満身創痍(まんしんそうい)となって、息も絶え絶えに、死にたどり着くのです。つかの間の幸福感や充実感はあっても、それは、砂漠の蜃気楼のように、追えば追うほど遠ざかり、追う者はやがて疲れ果てて、命を失
うにいたります。そのような人生に、どんな意味があるのでしょうか。

一 巌頭(がんとう)の感

一九〇三年(明治三十六年)五月二十二日、満十六歳十か月の藤村操(みさお)という第一高等学校(旧制一高)の生徒が、栃木県日光山中の華厳の滝で、高さ九十七メートルの断崖から飛び降り自殺をしました。断崖(だんがい)に生(は)えていたミズナラの大木(たいぼく)の幹(みき)には、木肌(きはだ)をけずって、次のような辞世(じせい)が書き残されていました。

「巌頭(がんとう)の感」

悠々(ゆうゆう)たる哉(かな)天壌(てんじょう)、
遼々(りょうりょう)たる哉(かな)古今(ここん)、
五尺(ごしゃく)の小躯(しょうく)を以(もっ)て此(この)大(だい)をはからんとす。
ホレーショの哲学、竟(つい)に何(なん)等(ら)のオーソリチーを価(あたい)するものぞ。
万有(ばんゆう)の真相(しんそう)はただ一言(いちごん)にして悉(つく)す、
いわく「不可解。」
我(われ)この恨(うらみ)を懐(いだ)いて煩悶(はんもん)
終(つい)に死を決(けっ)するに至る。
既(すで)に巌頭(がんとう)に立つに及(およ)んで、胸中(きょうちゅう)何等(なんら)の不安あるなし。
始めて知る、大(だい)なる悲観(ひかん)は大(だい)なる楽観(らっかん)に一致するを


(水野私訳)
「岩の上に立って感じること」

無限の空間
無限の時間
ちっぽけな体でその無限が測(はか)れようか
世間の常識など何の役にも立たない
世界や人生の意味はただ一言(ひとこと)に尽(つ)きる
「わからない」のだ
自分はその無意味さに耐(た)えられず苦しんで
結局死ぬ以外にないと決めた
今岩の上に立って心に恐怖はない
絶対的な絶望は、絶対的な希望と同じことであることが始めてわかった

 絶対的な「絶望」とは、「ゼロ」として言い表されます。絶対的な「希望」とは、「無限大」として言い表されます。これはきわめて論理的な詩です。しかしその論理的な詩の中央に「不可解」とあるのはどうしてでしょうか。論理をもってしては届かない、したがって表現できないものがあるということを言おうとしているのでしょう。これについては、後ほど詳しく見てゆきます。差し当たっては、華厳の滝について知っておきたいと思います。

 日光には四十八滝といわれるくらい滝が多いそうが、最も有名なのが華厳ノ滝です。高さ九十七メートルをほぼ一気に落下する豪快さと、自然が作り出す華麗な造形美の両方をあわせ持つからでしょう。和歌山県の那智ノ滝、茨城県の袋田(ふくろだ)ノ滝とともに「日本の三大名瀑(めいばく)」とも呼ばれています。
 お釈迦様は、一、華厳(けごん) 二、阿含(あごん) 三、法等(ほうどう) 四、般若(はんにゃ) 五、法華(ほっけ)涅槃(ねはん)というふうに、五段階に分けて、次第に深い教えを説かれたとされます。日光の滝の中の五つの名前は、その順序に名づけられ、華厳の滝が一番目となっています。
 さて、その華厳の滝で、なぜ藤村操が自殺したのでしょうか。
 まず、一高での藤村操について見ておきましょう。

二 漱石と藤村操

夏目漱石は、一高で英語を教えていました。その頃の一年生のクラスには、安倍能成(あべよししげ)、中勘助(なかかんすけ)、野上豊一郎、藤村操、前田多門(たもん)などがいました。のちに、藤村の妹、恭子(きょうこ)は、安倍能成(よししげ)と結婚します。
五月中旬のある日、漱石は、藤村操に訳読をあてました。すると、藤村は妙に高(たか)ぶった態度で、「やって来ませんでした」と答えました。漱石が、「なぜやって来ない」と聞くと、「やりたくなかったから、やって来ませんでした」と言うのです。漱石は、ムッとしましたが、怒りをおさえて、「次の時までにやって来るように」と言いつけました。しかし、次の時間に藤村にあてると、この時も、やって来ていませんでした。漱石は、癇癪(かんしゃく)を起こして、「勉強をしたくないなら、もう教室に出てこないでもよい」と、激しく叱責(しっせき)しました。
藤村が華厳の滝に身を投げた五月二十二日は、漱石の叱責の二日後と、秦郁彦(はたいくひこ)は推測しています。(秦郁彦「旧制高校物語」)
漱石が藤村の自殺を知ったのは、五月二十六日の朝でした。那珂通世(なかみちよ)の追悼文が新聞に載ったのです。たまたま第一時間目に藤村の在籍していたクラスに出講した漱石は、教壇に上るなり最前列の生徒にたずねました。「君、藤村はどうして死んだのだい?」。その生徒は、「先生、心配ありません。大丈夫です」と答えました。「心配ないことがあるものか。だって、死んじまったじゃないか」と言いました。明らかに、漱石は、自分が叱責したために、藤村が死んだのではないかと気にしていたのです。
では新聞に載った那珂通世(なかみちよ)の追悼文を見てみましょう。

三 那珂(なか)通世(みちよ)の追悼文

藤村操の父、藤村胖(ゆたか)は北海道屯田(とんでん)銀行頭取(とうどり)でした。藤村胖(ゆたか)の弟藤村通世(みちよ)は、藩儒(はんじゅ)(藩主に仕える儒者)那珂梧楼(なかごろう)(五郎)の養子となり、那珂通世(みちよ)と改名します。後に第一高等学校や東京高等師範学校の教授となり、東京帝国大学の講師も兼ね、その間にも日本・朝鮮・中国の歴史について実証的な研究を多く発表しました。また、研究のために当時珍しかった自転車を使って国内外を旅行したために「自転車博士(はくし)」という異名が付いたといわれます。
五月二十六日の朝、新聞「万朝報(よろずちょうほう)」に次のような記事が出ました。

「那珂(なか)博士(はくし)の甥(おい)、華厳の瀑(たき)に死す」という見出しに続き記事が記(しる)されていました。
「自転車博士の異名(いみょう)あるばかり斯道(しどう)に嗜(たしな)み深き高等師範(しはん)学校教授那珂通世(なかみちよ)文学博士の甥(おい)に方(あた)る藤村操(十八歳)というは、第一高等学校の生徒にて、同学中(どうがくちゅう)俊秀(しゅんしゅう)の聞こえある青年なりしが、去る二十日家出をなし、終(つい)に日光は華厳の滝壺(たきつぼ)に身を投じて悲酸(ひさん)なる最期(さいご)を遂(と)げたり。右につき、叔父(おじ)那珂(なか)博士は、わが社に宛(あ)て、左(さ)の如(ごと)き悲痛の文を送られたり。其(その)青年の平生(へいぜい)・死因等明らかに記(しる)されたれば、其(その)全文を掲(かか)ぐる事(こと)となせり。

『嗚呼(ああ)哀(かな)しいかな、痛(いたま)しいかな。余(よ)が兄の子藤村操、幼(よう)にして大志(たいし)あり、哲学を講究(こうきゅう)して、宇宙の真理を発明し、衆生(しゅじょう)の迷夢(めいむ)を醒(さ)まさんと欲(ほっ)し、昨年より第一高等学校に入り、哲学の予備の学を修(おさ)め居(い)たれども、学校の科目は、力を用(もち)いるほどの事に非(あら)ずとて、専(もっぱ)ら哲学・宗教・文学・美術等の書(しょ)を研究して居(い)たりしが、去る二十日の夜、二弟(にてい)一妹(いちまい)と唱歌(しょうか)を謡(うた)い、相撲(すもう)を取り、一家愉快(ゆかい)に遊び楽しみ、翌二十一日の朝、学校に行くとて出(い)でたるまま、二十二日になりても帰らず、母、大いに憂(うれ)いて、机の引き出しを明けて見たるに、杉の小箱の裏に「この蓋(ふた)あけよ」と大書(たいしょ)しあり。開いて見れば、七枚の半紙(はんし)に、二弟(にてい)一妹(いちまい)と近親五名と親友四名とに配賦(はいふ)すべき記念品と、学校その外(ほか)友人十余(よ)名に返すべき借用(しゃくよう)書籍の名とを、委(くわ)しく列記せり。「こは死を決したる家出なり」とて、急に大噪(おおさわ)ぎとなり、親戚(しんせき)朋友(ほうゆう)の家へ電話・電報にて問合せたれども、何(いず)れも「来たらず」と云(い)う。午後八時に至(いた)り、「日光小西旅店寓(りょてんぐう)」として、郵書(ゆうしょ)達(たっ)し、
「不孝の罪は、御情(おなさけ)の涙と共に流し賜(たま)いてよ。十八年間愛育の鴻恩(こうおん)は、寸時(すんじ)も忘れざれども、世界に益(えき)なき身の生きてかいなきを悟(さと)りたれば、華厳の瀑(たき)に投(とう)じて、身を果(は)たす」
との趣旨をくわしく告げこせり。余、これを聞き、徹夜(てつや)輪行(りんこう)(夜を徹し自転車で行く)して日光に至(いた)らんと思い駆け出(い)だしたるが、栗橋(くりばし)の渡しの、夜渡さぬことにこころづき、残念ながら下谷(したや)より引き返し、今朝(こんちょう)(=二十三日)一番汽車にて、操(みさお)の従兄弟(いとこ)、高須(たかす)正太郎(しょうたろう)とともに日光に至り、巡査(じゅんさ)、車夫(しゃふ)と力を合わせて、華厳の瀑(たき)の上下(じょうげ)をくまなくさがしたれば、瀑(たき)の落ち口の上なる巨巌(きょがん)の上に、こうもり傘を植(た)てるあり、近寄りて見れば、大樹(たいじゅ)を削りて、左(さ)の文を記(しる)せり。
(ここに「巖頭の感」全文が入る)
樹(き)のかたわらには、傘のほかに、大(おお)いなる硯(すずり)と墨(すみ)と、太き唐筆(とうひつ)と、大いなるナイフとあり。これらの器具は、家を出(い)ずる時、あらかじめ用意したりと見ゆ。その運筆(うんぴつ)の優美なるを見れば、巖頭に立てる時、心中(しんちゅう)の、従容(しょうよう)として安泰(あんたい)なることは、察するに余りあり。ああ、余(よ)がごとき楽天主義の俗人の甥(おい)に、いかなれば、かかる極端の厭世家(えんせいか)を生(しょう)じたるか、思えば思えば、不可思議なり。巖角(いわかど)を攀(よ)じて見下ろせば、六十丈(じょう)の懸泉(けんせん)は、巖石(がんせき)を砕(くだ)いて雷(いかずち)のごとくにとどろき、滝壷は、暴風雨のごとき飛沫(ひまつ)におおわれて、見えず。かくて身の丈(たけ)五尺(しゃく)五寸(すん)余(よ)、眉目(びもく)清秀(せいしゅう)にして、頬(ほお)に微紅(びこう)を帯(お)び、平生(へいぜい)、孝友(こうゆう)(=親に孝をつくし兄弟の仲のよいこと)にして、一家の幸福の中心と思われし、未来多望(たぼう)の好(こう)少年は、去(さ)って返らず、消えて痕(あと)なし。ああ、哀(かな)しいかな。
 明治三十六年五月二十三日の夜、中禅寺湖畔の旅館、蔦屋(つたや)にて、
     叔父(おじ)、那珂(なか)通世(みちよ)、痛哭(つうこく)して記(しる)す。』

ちなみに、藤村操の父胖(ゆたか)の再婚に際しては、那珂(なか)通世(みちよ)が仲立ちをして、蘆野晴(あしのはる)をすすめたそうです。操の実母は晴(はる)です。再婚当時、操の上には先妻の子が二人いたようですが、同居していません。先妻は死別か生別か分かりません。父胖(ゆたか)は、一八九九年(明治三十二年)に五十六歳で死んでいます。自殺とも癌による病死とも言われます。操は、父の死の四年後に自殺したことになります。

三 ホレーショの哲学

ホレーショというのは、シェイクスピアの「ハムレット」に出てくる、ハムレットの友人ですが、哲学者ではありません。「ハムレット」という劇の狂言回し・舞台回しの役をしている登場人物です。では、ホレーショの哲学とは何でしょうか。私見ですが、説明しがたい、語り得ない真実を、あえて説明し、語ろうとするときの舞台設定のことではないでしょうか。ホレーショの科白(せりふ)に、「何も知らない世間に一部(いちぶ)始終(しじゅう)をお話しするのが、自分の役目」というのがあります。ホレーショは、説明しがたい、語り得ない真実を語りつくしてしまおうとするのです。しかし、これは無理な話であるだけではなく、真実のもっている深さをおおいかくし、真実の重さを軽くしてしまう、危険な行為になってしまいます。
真実とは、位置だけあって、面積のない、幾何学的な点、「無の一点」なのです。人生のなぞに対する答は、理解しようとしても理解できず、表現しようとしても表現できない「無の一点」です。ハムレットの「在(あ)るべきか、在らざるべきか。それが問題じゃ(To be, or not to be: that is the question.)」という科白(せりふ)に対し、ホレーショの哲学は、何も答えられません。あえて答えようとすれば、「不可解」なのです。生か死か、存在か非存在か、というような、人生の究極的・根源的な意味にかかわる問いに対して、ホレーショの次元からは、何も答えられないのです。ホレーショは、「何も知らない世間に一部始終をお話しするのが、自分の役目」と言っている通り、「世間」を相手にして、何かを表現するのが、ホレーショの役回りなのです。だから、ホレーショの言葉は、「世間語(せけんご)」です。根源的な問いと、根源的な答えは、「世間語」を通せば、深みを失ってしまいます。だから、「ホレーショの哲学ついに何等のオーソリチー(権威)を価(あたい)するものぞ」と言わざるを得ないのです。

ところで、藤村操の死後、さまざまのうわさが世間に流れました。そのうちの主なものは、藤村操の失恋説と、藤村操の生存説です。どちらも荒唐無稽と言ってもいい風説ですが、一応取り上げてみます。
一九〇四年(明治三十七年)二月九日、夏目漱石は寺田寅彦あてのはがきに次の詩を書いています。
  「水底(みなそこ)の感」             藤村操女子
  水の底、水の底。住まば水の底。
 深き契(ちぎ)り、深く沈めて、永く住まん、君と我。
 黒髪(くろかみ)の長き乱れ。藻屑(もくず)もつれて、ゆるく漾(ただよ)う。
 夢ならぬ夢の命か。暗からぬ暗きあたり。
 うれし水底(みなそこ)。清き吾(われ)等(ら)に、譏(そし)り遠く憂(うれい)透(とお)らず。
 有耶無耶(うやむや)の心ゆらぎて、愛の影(すがた)ほの見ゆ。

巷間に流布していた風説を背景に、漱石が創作したロマンスの詩と言えるでしょう。漱石が失恋説を信じていたとは思われませんが、失恋説の背後には、「斯(か)くあってほしい」という世間の願望があったことは確かです。人生に対する藤村操の根源的な問いを理解できないのが世間だからです。
安倍能成(よししげ)は、一高で藤村操と机を並べて漱石の授業を受けましたが、後に操の妹恭子(きょうこ)と結婚します。安倍は、最初失恋説を否定していましたが、一九四九年(昭和二十四年)九月、「『巌頭の感』をめぐって」の中で、
「彼の死の原因が失恋だということは、当時からも様々の風説から伝説までも生んだが、私は近頃になって彼から求愛された婦人のあることを耳にした。こういうことが彼の死の一つの原因だろうことも十分に考えられる」
と言い、また、一九六六年(昭和四十一年)十一月には、「我が生い立ち」の中で、
「藤村の死後様々の伝説が生じ、藤村の死を失恋に帰する議論も多かったが、私はそれを否定しようとも思わない。藤村が失恋によって死んだとしても、それは藤村の名誉でも不名誉でもないと思う私は、むしろその背後にこれがあったとさえ思うのである」
と述べています。

次に藤村操の生存説ですが、これも失恋説に劣らず世間の井戸端会議でにぎわう噂話(うわさばなし)に過ぎません。
藤村操の遺体は、投身後四十日以上たった一九〇三年(明治三十六年)七月三日に発見されました。そのときの様子について、安倍能成(よししげ)は、「我(わが)友を想う」の中に、
「已(すで)にして、君がなきがらは、あらこもに包まれて、徐(おもむろ)に滝壺よりかき上げられぬ。堪(た)うべからざる異臭は先ず烈(はげ)しく我が鼻をつきたり。ああこれ君が肉より放(はな)つの臭(におい)なりき。君が四肢(しし)五躰(ごたい)なお悉(ことごと)く欠けざれど、膚(はだ)は一面に灰色を帯(お)びたり。胸のあたり少しく紅(くれない)を潮(さ)せしは、岩かどにうたれしにや。頭髪皆脱(ぬ)けて、顔はかたちをそこなえり。何(いずれ)の所にか、おだやかに鋭かりし君が眼(まな)ざしと、ゆたかなる笑(えみ)を湛(たた)えし紅(くれない)の頬(ほお)を求めん」
と記しています。
 一九〇三年(明治三十六年)七月六日付け新聞「万朝報(よろずちょうほう)」は遺体の様子を、
「全体灰白色(かいはくしょく)にて胸部は殊(こと)に白く、背部(はいぶ)に黒味を帯び、右胸部に長(ながさ)四寸幅一寸の傷あり、肋骨一本挫折し居(お)るは巌頭より落下の際崖に触れたる為(た)めなる可(べ)し」と報じています。これらの記述からは、その遺体が藤村操であったことを証拠付けるものは見出せません。後追い自殺をした青年のうちの一人であった可能性は否定できません。当然のごとく、藤村操が自殺に失敗して、どこかで生存していたという風説が流れることになりました。
 しかし、生存説にしても、失恋説にしても、世間の好奇心から出た「下種(げす)の勘(かん)ぐり」であり、ホレーショのレベルに過ぎません。

四 人生不可解

藤村操投身の年に、華厳(けごん)の滝に飛び込んで死んだ青年は十一名、未遂(みすい)に終わったものは十五名でした。明らかに、人生不可解・人生無意味の思想に影響されての自殺でした。一九〇三年に、第一高等学校で、藤村操(みさお)を教えた夏目漱石(そうせき)は、「行人(こうじん)」(一九一二〜一九一三年)のなかで、「死ぬか、気が違うか、それでなければ、宗教に入るか、ぼくの前途には、この三つのものしかない」と、登場人物に語らせています。「こころ」(一九一四年)では、明治天皇の死、乃木(のぎ)大将の殉死(じゅんし)、「k」と「先生」の自殺、などを描(えが)きつつ、死の背後にある「罪意識」の問題に近づこうとしています。
罪と死については、稿を改めて述べなければならない問題ですが、今は、藤村操(みさお)との関連において、華厳(けごん)の滝に飛び込んだ青年たちや、漱石のことを考えると、彼らは、藤村操(みさお)の死から、何か強烈なメッセージを聞き取っていたにちがいありません。「ホレーショの哲学」、すなわち、「世間の常識」の中にどっぷりつかりこんでしまって、人生の真相が見えなくなった「常識人」たちを、痛烈に批判しているのが、「巌頭(がんとう)の感」なのです。
「おまえは何のために生きているのか」。「人生の意味は何か」。これらの問いに対して、どう答えようと、しょせん、本当のところはわからないまま、「知ったかぶり」で「利(き)いた風(ふう)な」答えしか答えられません。いくらえらそうなことを言っても、どうせ、人から聞いたり、本で読んだりした「単なる知識」にすぎないのです。本当の答えは、「不可解」です。しかし、「不可解」では、答えになりません。では、答えのない人生なら、死ぬ以外にないのでしょうか。
漱石は、一九一六年、五十歳で病死しましたが、死の前年に、「私は、『死んで初めて絶対の道に入(はい)る』と申したいのです」と言っています。死んで初めて、人生の意味がわかる、というのです。しかし、漱石は、死のまぎわになって、「今死んだら困る」と言い出します。たしかに、死んでしまっては、人生の意味は、わかりません。かと言って、生きていたのでは、人生の中に埋(う)もれてゆくだけです。人生から脱出しながら、生きることができれば、その生き方それ自体で、生きる意味を体現することができます。言い換えれば、「死んで、生きる」、「生きながら、死ぬ」ことができればいいのです。そんなことができるでしょうか。

五 生きる姿勢を求めて―私の場合

 一九五〇年(昭和二五年)九月、大阪桜橋の朝日会館で、フランス映画「情婦マノン」を観ながら、睡眠薬自殺をした十九歳の青年がいました。名前を荒賀(あらが)直一郎といい、高校では私の二年上級で、新聞部の部長でした。私は部員でした。
 荒賀は共産主義者で、文学青年でしたが、「キリストが神の子であるということを一度も疑ったことはない」と言っていました。私は、荒賀から思想的な影響を強く受けていました。荒賀は高校卒業後浪人生活をしていましたが、その彼が自殺をしたという知らせを受けたショックで、私の内にくすぶっていた人生への疑問が一気に噴き出しました。
 「人間は何のために生きているのだろうか」
 「人生の目的・意味は何だろうか」
 しかし、それは答えのない問いでした。二枚の鏡を、合わせ鏡に向き合わせて、問いを映せば、問いは問いを生じ、生じ続けてとどまることを知りません。問いのみあって、答えは見つからないのです。
 なぜでしょうか。
 人生の目的は何かということを追求して、その目的に達したら、あとの人生は目的を失ってしまいます。また新たな目的を発見しても、そこに到達したら、また無意味・無目的な虚無が立ちはだかっています。次から次へと目的を立てて、はてしなくさまよう姿こそ、私たち人間すべての姿なのではないでしょうか。
 人間は、
「山のあなたの空遠く、『さいわい』住むと人のいう。
ああ、われ人ととめゆきて、涙さしぐみ、かえりきぬ。
山のあなたになお遠く、『さいわい』住むと人のいう。」
                   (カール・ブッセ)
のように、追っても追っても逃げてゆく蜃気楼を追い求め続けて、ついには疲れ果てて砂漠の中で死んで行かねばならないのでしょうか。荒賀が死ぬ間際に観た映画「情婦マノン」の最後は、二人の愛人たちが、砂漠の中で、自ら掘った砂の穴の中で死んでゆく場面でした。

 当時高校生だった私は「情婦マノン」を見ておりましたが、生きる意味について解決がつかないまま悩みぬいて、このままで行けば荒賀と同じ道をたどることになるのではないかという不安にとらわれました。
 その結果、理性を黙らせ、目をつぶって、まるで飛び込み自殺でもするような気持ちで、キリスト教会で洗礼を受けました。しかし、期待したような奇跡的な解決は得られませんでした。
 大学進学に当たっては、神学部以外は目に入りませんでした。
 それを口にしたとき、当然、両親は猛反対でした。親類はもちろん、近隣の知人まで巻き込んで、私を思いとどまらせようとしました。
「彼は失恋したので神学部へ行くらしい」
といううわさまで流れました。
 私に迷いが生じました。
「まず、文学部教育学科へ進んで、それから神学部へ行っても遅くはないのではないか。」
 担任の先生は熱心なキリスト者でした。私の家まで来て、私を神学部に行かせてくれるよう、両親の説得に当たってくれました。
 紆余曲折のはて、結局私は神学部に入りました。
 そんなにまでして入った神学部は、修道院のようなところかと想像していたのですが、信仰の修練はほとんどありませんでした。神学も私の疑問に答えてはくれませんでした。教授の中には、他人の学説を紹介するだけの講義で済ませたり、出世の手段として、読書感想文のような稚拙な論文をせっせと書いている教授もいました。彼らは、人生についての根源的な問いを持つこともなく、ただひたすら名誉と地位を求めることに汲々としているようでした。彼らから得たものは、ヘブライ語、ギリシア語、ドイツ語など、語学だけでした。

 唯一の例外は神学部の松村克己先生と文学部教育学科の三井浩(こう)先生でした。両先生から、私は、本当の学問とは何かということを学びました。
 私は、両先生の影響が色濃く見られる「旧約聖書正典論序説」という修士論文を書きました。その結果、神学修士というレッテルを貼ってもらいましたが、それは私の求めている解決とは何の関係もありませんでした。
 卒業後一年間、教会の伝道師として働きましたが、自分の中で、人生の問題が、依然としてくすぶり続けているのを感じていました。

 そのころ、NHKの「僻地に光を」というキャンペーンを知って、「僻地に行こう」という思いが湧き、宝塚市の山間部の公立中学の教師になりました。
 同時に、かねてから関心を持っていた仏教を、徹底して学んでみたいと思い、京都の安泰寺という禅寺に坐禅に通うようになりました。そこで、私は、坐禅を通して、「今」という無の一点に返ることを学びました。そして、初めて、坐禅が、キリスト教の十字架と復活の体験と一致することに気がついたのです。
 そして、坐禅の光でキリスト教を照らせば、キリスト教の福音が、よりはっきりと理解できました。またキリスト教の光のもとで坐禅をすれば、坐禅のねらいが、より正確にさだまりました。
 今や、私にとって、坐禅とキリスト教は、二つの方向から人生の意味に光を投じて、それを立体的に浮かび上がらせる働きをするようになっているのです。

 人生の意味を考えようとすると、どうしても、人生の意味を、自分の外に求めようとしてしまいます。人生を生きる根拠・意味を、自分の外に見出そうとするのです。その態度で考える限り、絶対に答は見つかりません。
人生問題の答が得られないからと言って、自殺して行った人は、答を外に求めて必死に追求し、ついに力尽きてしまったのです。
 人間の眼は、外を見るようにつくられていますから、人生の意味を外に求めざるを得ません。それは人間の背負っている宿命です。したがって、人生の「根拠喪失」・「意味喪失」は、人間の宿命なのです。
 では、そもそも人生は無意味・無目的なのでしょうか。
 そうではありません。外を見る目を内に向ければいいのです。外に求めないで、「今」という無の一点に返りさえすればいいのです。
 私たちが目前にしている死は、そのことを私たちに告げています。死が指し示すものは、内と外の二つ・生と死の二つを超えた、かなたの次元・「復活のいのち」です。自分の外に答えを見出すことが解決なのではなく、「今、ここ」の無の一点が解決なのです。
 自分の外に答えを見出せないということは、人生の究極的解決のありかへと、私たちの眼を向けさせます。今自分が生きている生の前に、徹底的な死がなければなりません。死を経ない生は、動物的な生存にすぎません。
断絶を経て、はじめて、生も死も超えたほんとうのいのち、「復活のいのち」が、私のものになるのです。それこそが、私が求め続けてついに答えが得られなかった人生のほんとうの意味なのです。無の一点のいのちに目覚めれば、今この一瞬が「完結」となります。死が完結なのではありません。生きる一瞬一瞬が完結となるのです。と同時に死の一瞬も完結となります。無の一点はゼロですが、それは同時に無限大です。藤村操が死の直前に悟ったのは、ここのところだったのではないでしょうか。
 その一点は、「復活」の一点なのです。復活は、蘇生ではありません。蘇生であれば、その生は、いつかまた死ななければなりません。復活は、決して死ぬことのない生です。永遠の生命と言うときの「永遠」は、「いつまでも続く」とか、「終わりがない」とかいう意味ではありません。時間が、無限に延長するという意味ではありません。時間を超えているので、「永遠」と言うしかないのです。この世を超えているので、「永遠」と言うのです。この世の次に来る「あの世」ではありません。「世を超えている」ので、「神の国」としか言われません。復活は、「不死」ではありません。死を含み、死を超えて、「死を生きている」のが、復活です。一人の例外もなしに、すべての人間が、この復活のいのちに生かされているというようなことは、この世の常識や約束事を超えた事柄です。それこそが、藤村操が「大なる悲観は大なる楽観に一致する」と言ったところなのです。

無の一点 2008/05/13

[1162-1] 一つということ 水野吉治 2006/06/15(木)08:22

「自分と他人が二つに分かれた状態」は、自分のエゴが、つくり出した、「自分」対「他人」という、図式です。
本当は「自分」も「他人」も、実在ではなくて、仮説なのです。

「死」とか、「病気」とか、「事故」とかいう、極限状況に立たされたとき、「助けてくれ!」という叫びが、心の底から起こってきます。
「自分」と「他人」が、別々の存在だとしたら、他人に向かって「助けてくれ」と言っても、相手に通じるはずがありません。
「自分の苦しみを分かってくれ」と言っても、分かってもらえるはずがありません。
それでも、「助けてくれ」という叫びが出てくるのは、「自分」と「他人」が、深いところで、通じているからではないでしょうか。
「助けてくれ」と、誰に向かって言っているのでしょう。
「他人という自分」に向かって言っているのです。

まだ目の見えない赤ん坊が、お乳をほしがって、泣くとき、「お母さん」という「対象」に向かって泣くのではなく、「ただ」泣いているのです。
それに対して、お母さんの乳房は、「張ってくる」という反応を起こします。
それも、「ただ」張ってくるのです。
それは、お母さんと赤ん坊が、一つだからです。
赤ん坊は、「お母さんという自分」に向かって、泣いているのであり、お母さんは、「赤ん坊という自分」の泣き声を聞いているのです。

本当は、この世界に、「他人」は、一人もいません。
すべて「自分」ばかりなのです。

しかし、肉体を持って、「個」として生き始めたとき、
「エゴ」が生まれ、「自他」の距離が出来てしまいました。

赤ちゃんも、もの心がつくと、「自分」を意識し、お母さんとの確執に苦しむようになります。
これが、不幸の始まりです。

人間関係の葛藤や不和は、私の中に「エゴ」があるということを、気づかせてくれるメッセージです。
「エゴ」は、実体のない「仮説」ですから、気づいた瞬間に、「影」のように消えてゆきます。
でも、消えたと思った次の瞬間に、またすぐ姿を現します。
「気づき」、「消え」、「気づき」、「消え」を、繰り返して、人間は、「愛」に、成長してゆくのではないでしょうか。

その「愛」から、純粋な「智慧」が生まれ、無私の「工夫(くふう)」が生まれ、本当の「交わり」が生まれてくるのだと思います。
「エゴ」をにぎらず、手放して、「愛」に覚めることを、めざして、日々、精進してゆきましょう。

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[1162-2] 「今」の中に永遠がある。 水野吉治 2006/06/15(木)08:26

「今」の中に、永遠があるのです。
「今」から逃げて、いったい、どこへ行こうというのでしょうか。
どこへも行けるはずがありません。

旧約聖書詩編38編を味わってください。
苦しみと、絶望の果てに、歌いだされた詩編です。
これが、本当の祈りです。

また、詩編139編も、何度も、声に出して、魂に刻み付けるべき詩編です。
「どこに行けば、あなたの霊から、離れることができよう。
どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」
これは、ほんの一部です。
絶対、全体を暗誦するまで、読み込む必要があります。

「今」以外は、すべて、蜃気楼だということを、しっかり、心に、銘記したいと思います。

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[1162-3] 明日はあるのか 水野吉治 2006/06/15(木)08:30

かつて、吉本興業が「明日があるさ」を映画化しましたね。
「♪明日がある♪明日がある♪」というノリで、現実の閉塞感や不安に目をつぶりたい気持ちは分かりますが、でもほんとに明日ってあるんでしょうか。
「本気で信じたい。でも信じられない」というのが本当ではないでしょうか。
ホームレスの人にそれを信じろと言ったって、無理なだけではなく、逆に怒られて、石でもぶっつけられるのがオチではないでしょうか。
末期癌の人に「明日がある」と言う勇気がありますか。

「明日がある」というのは、キリスト教的な本当の「希望」ではないはずです。
キリスト教でいう「希望」は、外なる光ではなく、内なる光だからです。
外なる灯台ではなく、内なる羅針盤です。
外に求めるものでなく、内から人に与えるものです。
未来ではなく、現在です。
「愛」です。「復活」です。

「明日のことを思い悩むな」がキリストの福音です。
「♪明日はない♪明日はない♪明日はないさ♪」というリフレインの讃美歌を誰か作って下さいませんか。-

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[1162-4] 輪廻転生とは 水野吉治 2006/06/15(木)08:32

インド古来の考え方に、「輪廻(りんね)」とか、「輪廻転生(りんねてんしょう)」という思想があります。
これは、人間が、迷いの世界の中で、生まれ変わり、死に変わりして、まるで車輪が回るように、止まることなく、はてしなく回り、さまよう様子を言い表しています。

その考えを受け継いだ仏教では、生まれ変わり、死に変わる世界を、細かく分類しました。

まず、世界を三つに分けて、「三界(さんがい)」としました。
三界は、1.欲界<性欲・食欲の世界> 2.色界<性欲・食欲を離れた世界> 3.無色界<物質を離れた世界>に分けられます。

次に、その中の欲界を六つに分けます。
すなわち、1.地獄 2.餓鬼(がき) 3.畜生(ちくしょう)<動物の世界> 4.修羅(しゅら)<対立抗争の世界> 5.人間 6.天上 の「六道(ろくどう)」<六つの世界>です。

人間は、この三界・六道を、永遠に、グルグル回り続けて、そこから抜け出すことができない、というのです。
人間が、このグルグル回りの夢から、目覚めて、本当の自分に気がつくのが、救いなのです。
でも、気がついても、またすぐ、グルグル回りの中に、おちいってしまいます。
ですから、たえず、覚め、覚め、しなければなりません。
覚めたその瞬間を展開すれば、光の世界です。

人間は、本当は、その光の世界の中に、いつもいるのですが、
肉体を持って生きているかぎり、自分の中に、1.地獄のレベル 2.餓鬼(がき)のレベル 3.畜生(ちくしょう)のレベル 4.修羅(しゅら)のレベル 5.人間のレベル 6.天上のレベル、があって、
一日のうちに、何度も、各レベルを行き来しています。
つまり、輪廻転生は、死んでから、起きることではなく、現在、私の中に起こっていることなのです。
しかも、目にもとまらぬ速さで、起こっていることです。
それを、スピードを落として、分かりやすく、説明しようとしたのが、輪廻転生という「神話」です。

神様は、その「神話」を利用して、人間を救ってくださろうとしているのです。
「神話」の背後にある神様の「愛」に気づくことが大切です。

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[1162-5] 死は通過点か 水野吉治 2006/06/15(木)08:33

「通過点」を過ぎると、どこへ行くのでしょうか。
行くところがあるのでしょうか。
行くところがある「通過点」なら、
それは、あってもなくても、
結局、どこかへ行けるのですから、
大して意味のない「点」ではないでしょうか。

また、「通過点」の先に、何もなければ、
それは、「通過」点とは言えませんね。

「死」が、通過点であるという意味が、
「死の先に、何かがある」という意味ならば、
その「死」は「本当の死」ではなく、
「仮死」ですね。

本当の「死」は、
「もう、先には、何もない」
ということではないでしょうか。
だから「本当の死」は通過点ではありません。

その「本当の死」を、
キリストは、死なれたのです。
「先のない」断絶を、
自らに、引き受けられたのです。
「自分」というものが、
まったく、無くなってしまう十字架に、
つかれたのです。

私たちも、
キリストとともに、
十字架につけられ、
キリストとともに、
「先のない」断絶を経てこそ、
キリストとともに、
復活することができるのです。

キリストとともに、
「自分」が、まったく無くなり、
「先が無く」、
「今しかない」という状況が、
復活です。

「自分」が無くなって見れば、
見渡す限り、
「自分」ばかりです。
実は、この「自分」こそ、
「本当の自分」なのです。

「先」が無くなって見れば、
見渡す限り、
「今」ばかりです。
実は、この「今」こそ、
「本当の今」なのです。

それが「復活」です。
「復活」は、
「本当の自分」、「本当の今」を、
生きることです。

死んでから、復活するのではありません。
死んでから、復活するのなら、
その「死」は「通過点」です。

「通過点」でない、「本当の死」を、
「今」、
キリストとともに、死ねばこそ、
「今」、
キリストとともに、
「本当のいのち」に、
生きることができるのです。

キリストにあって、
「死」も「いのち」も、
「今」起こっていることなのです。

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[1162-6] 還元主義という迷信 水野吉治 2006/06/15(木)08:35

アタマの雑駁(ざっぱく)な人間ほど、ある一つの理論を覚えたら、鬼の首を取ったように有頂天になってしまい、その理論で、すべてを説明できると、思い込んでしまいます。

かく言う私も、身に覚えがあります。
その懺悔話は、いずれ、するつもりです。

覚えこんだ理論に、すべての現象を当てはめ、どんな複雑な問題も、一つの説明に還元できると信じる態度を「還元主義」と言います。

こんなお粗末な「迷信」に引っかかってしまうのが、「学校秀才」と言われる人たちです。

小さいときから、「頭がいい」と言われ続けていると、すっかりのぼせ上がり、「俺は秀才なのだ」という幻想にとり付かれてしまいます。
しかし、実は、学校の外では通用しない「頭のよさ」だということに、本人はまったく気づいていません。
だから「学校秀才」と言うのです。

もともと、雑駁なアタマですので、物事を、根源までつきつめて考えることはできません。
そこで、お手軽な「還元主義」に頼り切ることになります。

周囲も雑駁なアタマばかりですので、「学校秀才」の言うことなら、何でも信じてしまいます。
そこで、「雑駁教団」が出来上がり、「還元主義迷信」の伝道に血道をあげることになります。

「還元主義迷信」の一つが、「遺伝子迷信」です。
「物事は、すべて、遺伝子で説明がつく」という、子供っぽい思い込みです。

「雑駁学者」も「雑駁学会」も、「迷信学説」に乗り遅れては大変と、先を争って、「遺伝子」「遺伝子」と騒ぎまわります。
マスコミも、視聴率を上げるために、雑駁な視聴者の喜ぶ、原始的な「遺伝子迷信」を取り上げます。

世を挙げて、「遺伝子教」を祭り上げ、「遺伝子教」を信じない者は、「異端者」「非国民」と見なされるのです。

今や、日本は、「雑駁大人」「幼児大人」の天国と化しています。
この幼児化した日本は、いつか、お粗末な迷信を脱して、本当の「大人」になれるのでしょうか。

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[1162-7] 告白(cofession)と信条(creed) 水野吉治 2006/06/15(木)08:37

「私は信じます」と「私たちは信じます」で始まる「信条」と「信仰告白」の異同について、かねて関心を持っていました。

前者は、誰に向かって「信じます」と言っているのでしょうか。
自分自身に向かって言っているのでしょうか。
それとも、神様に向かって言っているのでしょうか。

後者は、信仰を同じくする同志に向かって言っているのでしょうか。
または、信仰を異(こと)にする他者に向かって言っているのでしょうか。

考えてみると、とても面白い問題を含んでいます。

今、私の頭にうかんでいる例は、前者が「使徒信条」で、後者が「日本基督教団信仰告白」なのです。

前者は、詩的讃美であるのに対して、後者は論争的宣言であるような感じがします。

前者に対しては、誰もが、「本当にそうです(アーメン)」という唱和に誘われますが、
後者に対しては、「異議なし!」か「ナンセンス!」しかありません。

どちらが「伝道的」でしょうか。
どちらが「排他的」でしょうか。

「対話」と「共感」に導かれるのは、どちらでしょうか。
「異端審問」「魔女裁判」そして「切り捨てごめん」「問答無用」に通じるのは、どちらでしょうか。

ここで、この書き込みの表題を御覧ください。

言うまでもなく、告白(cofession)は、「日本基督教団信仰告白」になりますし、信条(creed)は、「使徒信条」にあたります。
しかし、意味する内容が、すっかり入れ替わっていますね。

とても面白い現象です。

皆さんのご感想をお寄せください。

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[1162-8] 親不孝 水野吉治 2006/06/15(木)08:39

ちょっと次の詩を読んでみて下さい。

これは、生まれてすぐ脳性小児麻痺にかかり重度の障害者になった町田知子という人が、床に寝そべったまま体全体を使って必死に書いた作品です。

   親不孝

こんな子、生まれてよかったんですか、お母さん。

こんな子でも愛してくれますか、お父さん。

あなたがたの夢をこわした私。
心の中で泣いているでしょうね。
ごめんなさい。

私は今あかるく生きています。
それが親孝行だと思ってもいいですか、お父さん、お母さん。
それ以外何もできません。

ゆるして下さい。

これを読んで、どう思われたか、皆さんの感想を聞かせて下さい。
お願いします。
------------------------------------------------- この詩を読んで何故だか分からないけど涙が出ました。「かわいそうな子」とかそう言うんじゃないのは確かなんですけど・・・。親になった今だからわかるけど、生まれて、生きてくれてる事だけでお父さん、お母さんは嬉しいと私は思う。日々の生活の中での小さな小さな出来事がすごく嬉しいと思う。それが楽しみだとも私は思う。
-------------------------------------------------
「私たちに代わって謝っている町田さん」


町田知子さんのこの詩に感動しない人はないでしょう。

私は、わが子が生まれた時の、体験を思い出します。

産室の外で待っている父親が、産声(うぶごえ)が聞こえた瞬間、まず思うことは、「母親は無事だろうか」ということです。
それから、「生まれた赤ん坊は、無事だろうか」と思うのです。
その次に、「赤ん坊に、ちゃんと指がそろっているだろうか」「五体満足であってほしい」と思います。
やがて、赤ん坊が大きくなるにつれて、「美人であってほしい」「男前であってほしい」「健康であってほしい」「頭のいい子であってほしい」と、次から次へと、期待がふくらんでゆきます。

生まれた瞬間、「ただ、生きてさえいてくれたらいい」と思っていたことなど、すっかり忘れて、勝手な期待をふくらませてゆくのです。

町田知子さんの詩は、そういう私たちの頭に、冷水を浴びせかけます。

なぜ、町田さんは、謝らなければならないのでしょう。
どんな悪いことをしたというのでしょう。

謝らなければならないのは、親のほうなのです。
親が、勝手に生んで、勝手に期待しているのです。

町田さんは、世のすべての子供たちを代表して、親のエゴイズムに向き合ってくれているのです。

しかも、親のエゴイズムを批判するのではなく、「親に謝る」という形で、私たちに、何かを訴え、何か重要なメッセージを発しているのだと、思いますが、いかがでしょうか。

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[1162-9] パワーズ「あしあと」 水野吉治 2006/06/15(木)08:42

「あしあと」
    マーガレット・フィッシュバック・パワーズ

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生のつい最近の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心に引っかかっていたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」

主は、静かに言われた。
 「わたしの大切な子よ。
 わたしは、おまえを愛している。
 おまえを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試練の時に、
 絶対にそんなことはしない。
 あしあとがひとつしかなかったのは、
 わたしがおまえを背負って歩いていたからなのだ。」
        (1964年10月10日)

この詩をご存知の方は、多いと思います。
でも、この詩がこうむった苦難の歴史は、あまり知られていないのではないでしょうか。
パワーズさんが、作ったこの詩は、いつのまにか、彼女の知らない間に、盗作され、改ざんされ、余計な物語の尾ひれまでつけられて、さまざまの他人の名前で出版され、時には「作者不明」として、アメリカ、カナダ全土で発売されました。
もちろん、パワーズさんには、どこからも、出版の許可を求めてきたことはありません。
まして、パワーズさんにお金が支払われたこともありません。

もう一つ、この詩がこうむった被害があります。
この詩でうたわれている、「わたしを背負って、歩いてくださるキリスト」の話が、まったく別の話と、しばしば混同されてきたのです。
その、別の話とは、「大男レプロボスの一生」(きりしとほろ上人伝)です。
「幼児キリストを背負った大男レプロボス」と、「わたしを背負って、歩いてくださるキリスト」の姿とが、ゴッチャにされてしまったのです。
両方を読み比べれば、根本的に違った内容であることは、一目瞭然です。
「大男レプロボス」は、自分で気がつかないうちに、幼児キリストを背負うことによって、キリストの背負った、全世界の罪の重さを実感しました。
「あしあと」のほうは、自分で気がつかないうちに、キリストに背負われていたことによって、キリストの愛の大きさを実感したという内容です。
「あしあと」も「大男レプロボスの一生」も、等しく、人を感動させる力を持っています。
そのために、いつのまにか、人々の頭の中で混同され、一つの話として、作り変えられてしまったのです。

「あしあと」のたどった被害と誤解の歴史は、まさに、この詩のすばらしさのゆえに、歩まなければならなかった、受難のイバラの道なのでしょうか。

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[1162-10] 想像力について 水野吉治 2006/06/15(木)08:44

想像力は、他の動物にはないだろうと思います。
人間だけに与えられた特殊な能力ですね。
でも、その想像力のせいで、人間は苦しみ、自分だけでなく、他の人まで巻き込んで、大騒ぎを引き起こすのです。
今晩寝るところが保証されない、食べるものもない、という状況になれば、人間はうろたえ、自ら死を選ぶかも知れません。
野良猫が子を産んで、子猫が何匹もゾロゾロと親の後をついて歩くのを見かけますが、親猫は、今晩どこに寝ようかとか、この子らに食べさせるものをどうしようかとか、心配したりしているとは思われません。
人間の母親がそういう状況に置かれたら、気が狂いそうになって、子供を道連れに心中しているでしょう。
想像力というものをもっているために、いわゆる「マイナス思考」に陥ってしまうのです。
「明日のことを思い悩むな」というキリストの言葉は、「マイナス」対「プラス」という図式を捨てて、根源的いのちに目覚めよ、というメッセージですね。

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[1162-11] 戦争犯罪ということ 水野吉治 2006/06/15(木)08:46

B29爆撃機に乗って、原爆投下のボタンを押したアメリカ人は、
「この爆弾によって、どんなに残虐な、阿鼻叫喚地獄が現出するか」
というようなことを、想像したでしょうか。
「このボタンを押せば、罪もない、無力な、非戦闘員を、何十万と、虐殺するのだ」
ということを自覚したでしょうか。
その中に、自分の妻や子がいるとすれば、ボタンを押すことができたでしょうか。

広島・長崎は、高空から見れば、ゲームの中の標的に過ぎなかったでしょう。
一瞬光った閃光も、立ち上るきのこ雲も、映画の一シーンを見るようで、現実感はなかったのかもしれません。
「かわいそう」
という感情すら、湧かなかったでしょう。

「今、相手を殺さなかったら、自分が殺される」
というような、差し迫った状況に置かれているならまだしも、まったく、無抵抗の、一般市民に対して、大量破壊爆弾を投げ込む必要が、どこにあったのでしょうか。

しかも、当時の日本は、追い詰められて、無条件降伏を考えていたのです。
どう見ても、アメリカが、当時のロシアなどに対して、優位に立つために、ただそのことだけのために、原爆を使ったのだとしか考えられません。
これは、正当性のない、無差別殺戮という、立派な戦争犯罪ではないでしょうか。

ブッシュも、金正日も、なまなましい殺戮現場からは、遠い所で、戦争に関する判断をするでしょう。
その限りは、原爆投下のボタンを押した、あのアメリカ人と同じく、無造作に、無差別殺戮の決定をするに違いありません。
権力の中枢にいる人間は、悪魔に魅入られる危険性を、常に持っているのだということを、深く、胸に刻み付けなければならないと思います。

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[1162-12] 無関心に支えられた快適な生活 水野吉治 2006/06/15(木)08:48

スーパーに並んでいる、牛肉、豚肉などは、きれいに切りそろえられ、加工され、調理されて、食欲をそそるように整えられています。
牛や、豚が、無残に殺された気配などは、みじんも、痕跡をとどめていません。
牛や豚の死に対して、いちいち「かわいそう」とか「苦しかっただろう」などと考える人は、何人いるでしょうか。
動物たちの死に対して、無関心でなければ、肉や魚は食べられません。
無関心であること、それが、私たちの生活を、快適にしているのです。

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[1162-13] 随神(かんながら)と十字架 水野吉治 2006/06/15(木)08:50

自爆テロの実行者は、自爆を「殉教」と考え、「殉教して死ねば、天国に行ける」と信じていると言われますね。

「天国に行ける」というエサにつられて死ぬのなら、勝手に、自分ひとりだけで死んだらいいでしょう。
ところが、何の罪もない一般市民を、道連れにして死ぬのですから、ほんとうに「殉教」と言えるでしょうか。
むしろ、自分の魂の救いのために、平気で他を犠牲にするのは、「殉教」ではなく、「エゴイズム」と言うべきではないでしょうか。
本当に「殉教」する気なら、敵の銃口の前に、無防備で立てばいいのです。
自分だけが死ねばいいのです。
他の人を殺す必要はありません。

本当の「殉教」とは、神のために、「自分を捨てること」です。
自分の救いを望まないで、神の意志に従うことです。

自分を捨てて、神の意志に従うことを、随神(かんながら)と言います。
本当の宗教は、随神(かんながら)を、本質とします。

靖国神社は、この随神(かんながら)をまつるところではないでしょうか。

日本の特攻は、自爆テロとは、決定的に違います。
特攻隊員が、爆弾を抱いて、敵艦に体当たりをしたのは、決して、自分が天国へ行くためではありませんでした。
彼らは、「自分を捨てて」死んで行ったのです。
まさに、随神(かんながら)を実行したのです。

キリストは、自分の死の意味を、「自分を捨てて、神の意志に従うため」として、弟子たちに示されました。
十字架が、その象徴です。

ちまたで、得意げに、十字架のペンダントをぶら下げて歩いている人たちを見かけますが、その人たちが、十字架の意味を知ってほしいと、切に願います。
クリスマス・シーズンになると、イルミネーションをピカピカ光らせる家の人たちに、キリストが、この世に来られた本当の意味を、知ってほしいと思うのです。

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[1162-14] 「御心のままに。」 水野吉治 2006/06/15(木)08:51

随神(かんながら)とは、結局、「無私」ということです。
人間は、自分の意志や、努力で、「無私」になることは出来ません。
「無私」になったと思っても、そう「思う」こと自体が、すでに、「無私」ではありません。
「無私」も「有私」も超えたところから働く力によって、はじめて「随神(かんながら)」になることが出来るのです。
「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
(新約聖書マタイによる福音書20章39節、マルコによる福音書14章36節、ルカによる福音書22章42節)
という、イエス様の祈りにおいて、「随神(かんながら)」になることが、どんなことであるかが、示されています。

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[1162-15] 重荷をおろして 水野吉治 2006/06/15(木)08:53

人生って、しんどいところですね。
何でも許され、誰でも、いつでも入れるようなところがあれば、そこで、ほっとしたいです。
重荷をおろして、ゆっくり休みたいです。
インドって、とことんゆっくりできる、そういう国なのでしょうか。
教会もそういうところでありたいです。
イエス様も「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)とおっしゃっています。
「重荷」とは何でしょうか。
「エゴ」のことではないかと思います。
「エゴ」を、イエス様の足元に、どさっとおろして、ゆっくり休みたいですね。

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[1162-16] 「アタマノいいバカ」 水野吉治 2006/06/15(木)08:55

「アタマノいいキチガイ」と同様に始末の悪いのは、「アタマノいいバカ」です。

何しろ、「アタマガいい」ということは、この世で、最高価値だと思っているのが、「アタマノいいバカ」なのです。

どうせ、「アタマ」なんて、いつかは、体と一緒に死んでしまうのです。
死ぬ前には、その、いい「アタマ」が、完全にボケきって、みじめな姿をさらさなければなりません。

その点、自分がバカであることを自覚しているバカは、謙虚であり、人を見下すようなまねはしませんから、まことにサワヤカなバカなのです。

それに反し、悪臭ふんぷんたる「アタマノいいバカ」は、公害を撒き散らす、鼻持ちならぬ、正真正銘のバカであり、極めつけの、「まるまるのバカ」であり、名実ともに「天下御免」、頭のてっぺんから足の先まで、「どこを切っても」バカ以外に何もないという、天下一品の大バカであることは、保証いたします。

「そんなバカは、どこにいるのか」ですって?
「おおい。
秀才たちは集まれ!」
と、ひと声かければ、たちまち、ぞろぞろと、シッポをふって、集まってきますよ。

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[1162-17] 成熟ということ 水野吉治 2006/06/15(木)08:57

小中高10年間を通じて、勉強を面白いと感じたことは、一度もありませんでした。
大学に入って、すばらしい先生に出会い、初めて、学問の面白さを味わうことができました。

やはり、物事の本当の味が分かるには、自分が、そこまで成熟しないとだめなようです。
人間は、死ぬまで、日々、成熟し続けて、人生を、より深く、味わい続けるのでしょうね。

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[1162-18] 私の内なる魔女 水野吉治 2006/06/15(木)08:59

現在、あなたが、中世末期のヨーロッパに、生きていると仮定します。
以下は、そのあなたに、突然ふりかかってくる災難の話です。

ある日、突然、警官が、あなたのところにやってきて、
「おまえは、魔女(魔男)だといううわさがあるので、これから裁判にかける」
と言って、あなたを逮捕し、裁判所に連行します。
そこで、あなたは、さまざまな拷問にかけられます。
その拷問は、あなたが、「私は魔女(魔男)です」と言うまで、無限に繰り返されます。
その苦しさに耐えられず、「自白」してしまえば、即刻、あなたは、火あぶりの刑に処せられるのです。

あなたと同じような目にあって、処刑された人が、当時、約10万人いたと言われます。
そのうち、男性は、約1万人だったそうです。

では、魔女(魔男)とは、何でしょうか。

当時、人々は、ペストの大流行や、異常気象、戦争などの、社会不安によって、ある幻想を抱き始めていました。
それは、なにか、えたいの知れない力が働いて、この世に災厄をもたらすのだ、という幻想です。
その力の、手先となって、災厄をまき散らす魔物を、人々は、魔女(魔男)と呼び、魔女(魔男)を、根絶やしにすることによって、平和と幸福がもたらされると、信じたのです。

しかし、これは、中世の人々の話ではなく、現代の私たちにもあてはまる話ではないでしょうか。

私たちは、伝染病、テロ、戦争の影に、おびえています。
そして、「魔女(魔男)」という言葉こそ使いませんが、ある人にとっては、ビンラーディンや、フセインが魔女(魔男)的存在であったり、また、他の人にとっては、ブッシュがそうであったりします。
かつての日本では、あるときは、キリシタンが、また、あるときは、共産党員が、魔女(魔男)と見なされていました。

現在でも、日常生活の中で、私たち自身が、私たちの身の回りにいるだれかを、魔女(魔男)と、ひそかに思っていはしないでしょうか。
「あの人さえいなければ」という思いを、だれかに対して抱いておれば、私たちは、その人を、魔女(魔男)と見なしているのです。

そう思っている私たち自身が、人から、魔女(魔男)だと思われているかもしれません。

人を魔女(魔男)と見る思いが、すでに魔女(魔男)の働きなのではないでしょうか。

日々、私たちが、私たち自身を、魔女裁判にかけ、私たちの中の魔女を火あぶりにしなければならないと思います。
今日も、明日も、あさっても、そして、時々刻々、私たち自身の中の魔女を根絶やしにし続けたいと、願うものです。

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[1162-19] デカルトの動物機械論 水野吉治 2006/06/15(木)09:05

フランスの哲学者デカルト(1596〜1650)は、その著「方法叙説」の第四部で、「われ思う、故にわれあり」という命題を発表し、第五部で、動物と人間の差異について述べています。即ち、自然を、単なる機械と見なし、「動物は、無感覚で、非理性的な機械である」と主張します。そして、「動物は、時計のように動くが、痛みを感じることが出来ない」ので、人間は、動物を、道具として利用することが出来る、としています。このデカルトの考え方は、動物だけにとどまらず、自然全体におよびました。デカルトの路線を走る現代社会は、科学技術で世界を私物化し、利用し、収奪し、破壊しつくすまでにいたっています。
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環境破壊とデカルト

現代の環境破壊その他の病根は、旧約聖書の創造神話に原因があるとする人がありますが、それは、間違っています。
デカルトに始まる、二元論的世界像が、元凶なのです。
これについては、ゆっくり検証するつもりです。

------------------------------------------------- 二元論の問題

デカルトは、人間を含め、すべての生物は、「機械」であると言いました。
ただ、人間は、精神(霊魂)を持っており、その点で、他の生物とは違う、と言ったのです。
精神(霊魂)以外は、物質です。
精神(霊魂)と物質との、二元論が、ここから始まります。
精神(霊魂)が、相対世界のなかで、物質と対立するするとすれば、精神(霊魂)自体も、物質と、同一平面にあるものとなります。
精神(霊魂)は、本来、形を持たず、したがって、物質のように、認識できないものなのです。
デカルトは、脳にある「松果腺」が、精神(霊魂)と物質をつなぐ器官である、としました。
ここで、精神(霊魂)は、物質の次元に属するものとなりました。
結局、二元論は、二元の双方を、相対化し、同じレベルに置いてしまうのです。
色々興味ある問題が、浮かんできます。
これについて、更に考えてゆきたいと思います。

------------------------------------------------- 人間の宿命

人間は、しょせん、二元論的思考から、逃れることが出来ないようです。
ちょうど、地動説という仮説が、よく分かっていても、「太陽は、東から昇り、西に沈む」としか、考えられないのと同じです。
これを、少し、突っ込んで考えてみたと思います。

------------------------------------------------- 「直観形式」と「神話」

カントは、時間と空間を、「直観形式」と呼んでいます。
「直観形式」は、感覚を超えたものを、人間の感覚にも分かるようにする「舞台装置」です。
その「舞台装置」に、「永遠」とか、「無限」とかをかければ、人間の感覚にもよく分かるようになります。
その分かるようになった状態を、「神話」と言います。
「神話」には、生まれた土壌があります。
その土壌は、他の土壌と同様、ローカルなものです。
これが、矛盾や紛争を生むのです。
このことを、十分、検証してみたいと思います。

------------------------------------------------- 霊魂は不死か

デカルトは、「方法序説(叙説)」第5部の末尾に、「人間の精神は、不死である」と言っています。
即ち、「霊魂は不死である」ということです。
これについての疑問を、詳しく、考えてみたいと思います。

------------------------------------------------- 復活のいのち

霊魂(精神)は、肉体に属するものです。
したがって、肉体が死ねば、霊魂もなくなります。
しかし、神の支配の及ばぬ所のない、この世界で、「復活」ということが起きるのです。
「復活」したものは、地上の、どんな表象をもってしても、理解することも、表すことも出来ない存在になっています。
しかも、「復活」は、死んだあとに起こるのではなく、「今」私の中で起こっているのです。
「個」としての、肉体や霊魂は、なくなり、新しい「復活」のいのちに生きる存在―それこそが、本当の「私」なのです。

------------------------------------------------- 「復活のいのち」の世界から

人間も、動物も、「いのち」であることにかわりはありません。
したがって、復活において、「一ついのち」という存在になるのです。
そこでは、人間も、動物も、差別なく、「一つ」になります。
「今復活しているいのち」の世界から見れば、動物を殺してもいい、という考えは出てきません。

------------------------------------------------- 復活についての問答

「今復活しているいのち」の世界は、地上の相対的な表象によっては、理解することも、表すこともできません。
イエス様が、サドカイ派の人々に対して、復活について、答えた言葉があります。
「復活の時には、めとることも、とつぐこともなく、天使のようになるのだ。」
(新約聖書マタイによる福音書22章23節〜33節、マルコによる福音書12章18節〜27節、ルカによる福音書20章27節〜40節)

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[1162-20] 「アーメン」という唱和 水野吉治 2006/06/15(木)09:08

「信仰告白」は、みんなに、「アーメン」と唱和してもらえるような内容であらねばならないし、一人でも、唱和してもらえないようであれば、その告白のどこかが間違っているのではないでしょうか。
そうでなければ、「公同の」信仰告白にならないと思うのですが、いかがでしょうか。

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[1162-21] 祈りの公同性 水野吉治 2006/06/15(木)10:43

祈りが、個人的な感想を述べたり、自分の属するグループのことばかり祈ったりする場合、それは、「公同の」祈りとは言えません。
個人や、グループや、集団や、国家等のために祈る場合、その祈りは、特殊性を免れません。
その場合、利害の反する、他の個人や集団との、衝突が起こります。
「公同の」祈りは、敵対する個人や集団も、「アーメン」と唱和できるものでなければならないのです。

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[1162-22] 本当の祈り 水野吉治 2006/06/15(木)20:53

祈りとは、本来、「無私」からするものです。
みじんも「私心」があってはなりません。
祈る時は、神と一つであり、神が、聖霊において、祈りたもうのです。
「わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」が、本当の祈りなのです。
それを、「随神(かんながら)」と言います。

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[1162-23] 祈りと妄想 水野吉治 2006/06/16(金)11:39

祈っている時に、妄想が起こって、祈りに集中できない、という悩みを聞きました。

妄想は、本を読んでいても、音楽を聴いていても、仕事をしていても、起こってきます。
妄想は、アタマが分泌する「分泌液」だという人があります。
妄想をなくそうとすれば、アタマ自体をなくしてしまわないとダメだ、という事になります。
アタマがある限り、妄想はなくならないからです。

では、妄想をなくすためには、どうすればいいのでしょうか。
そもそも、妄想をなくそうとすること自体が、すでに、「妄想」なのです。
「なくそう、なくそう」とすればするほど、ますます、妄想は、はげしくなってきます。
妄想を、「払いのけよう」「なくそう」とすれば、更に、妄想は、しつこく、まとわりついてきます。
まず、「払いのけよう」「なくそう」としないことが大切です。
まして、妄想を、「追いかけたり」、妄想を「楽しんだり」してはなりません。
妄想を、「追わず」「払わず」、ただ、妄想を相手にしないことです。

妄想を相手にしないと、その瞬間は、妄想がなくなっています。
しかし、次の瞬間には、また、妄想が、ムクムクと起こってきます。
そうすれば、また、すぐ、「妄想を相手にしない」という姿勢に帰ります。
そして、また、妄想が起こる。
また、相手にしない。
これを、繰り返し繰り返し、行うことが、「祈り」なのです。

イエス様は、
「目を覚まして、祈っていなさい」
(新約聖書マタイによる福音書26章41節、マルコによる福音書14章31節、ルカによる福音書22章46節)
と言われました。
私の努力ではなく、「イエス様の、み名による」、「イエス様の、救いの力による」祈りを、安心して、祈りましょう。

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[1162-24] 地獄も、神の支配の中 水野吉治 2006/06/16(金)13:06

「親猫が、子猫をくわえるようにして、神様は、人間を、しっかり、とらえていてくださるので、人間は、安心して、お任せしていればいい」
という話に対して、
「自分は、神様によって、くわえてもらっていると思っている間に、いつのまにか、神様の救いから、落ちているのではないだろうか」
という不安をもらされたかたがありました。

しかし、神様の救いは、「くわえてもらっていると思える時も、思えない時も」、たえず、変わりなく、働いているのです。

かりに、神様の「くわえ」から、落ちたとしても、落ちた所が、また、神様の救いの場所なのです。

「陰府(よみ)に身を横たえようとも、見よ、あなた(神)は、そこにいます。」
(旧約聖書詩編139篇8節)
と、うたわれているように、神様の支配の届かない場所はありません。
地獄であっても、神様の支配の中にあるのです。
どこに行っても、そこは、神の支配の中なのです。

神の支配は、言い換えれば、神の愛です。
神の救いです。
人間は、神の愛から、神の救いから、こぼれ落ちることは、絶対にありません。

「わたしは確信しています。
死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他(た)のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
(新約聖書ローマの信徒への手紙8章38,39節)
と、パウロも、宣言しています。

わたしたちは、地獄に落ちても、キリストが、地獄にいらっしゃるので、安心していいのです。
不安があるまま、そのままで、わたしたちは、救われているのです。

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[1162-25] 救うは、神 水野吉治 2006/06/16(金)13:21

「落ちる(堕ちる)のは、わが役目。
救うのは、神の役目。」

これは、もとは、仏教から出た言葉ですが、キリスト教の「福音」を、もっともよく言い表している言葉です。
何度も、繰り返して、味わいたいものです。

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[1162-26] 「思い悩み」を投げ出して 水野吉治 2006/06/16(金)15:08

現在の苦境を、何とかしたい、救われたい、と思うのは、人間の自然ですが、そう思ったとしても、思っただけでは、救われるわけがありません。
結局、思っても、思わなくても、人間の側での事態は、変わりません。
事態を変えるのは、人間の思いを超えたところで、働く神の力です。
結局は、そこに任せるより仕方がないのです。
思い悩むことは、何も生み出しません。
「思い悩み」を投げ出して、空っぽになって、神の支配の中に飛び込む以外にありません。
飛び込んだと思って、気がつけば、飛び込む前から、神の支配の中にいたのだ、ということが分かります。

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[1162-27] ただ、御心のままに。 水野吉治 2006/06/16(金)20:32

祈りとは、神と一つになることです。
「御心のままに。」
というのが、祈りのすべてです。

人間が、いちいち、祈らなければ、神は、人間の苦しみや悩みが分からないだろう、などと考えるのは、とんでもない考え違いです。
神は、人間のすべてを知っておられます。
くどくどと祈る必要はないのです。
ただ、「御心のままに。」で十分です。

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[1162-28] 「すべての人はキリスト者」 水野吉治 2006/06/17(土)12:39

赤岩栄著作集第8巻「人間への省察・ほか」に、「すべての人はキリスト者」という論文が、収められています。
これは、雑誌「指」の、1957年3月号に載せられた論文です。
その前年の1956年に、椎名麟三は「信じられないということ」という講演をして、赤岩に対して、
「信じられない人間をも、信じている人間と同等に認めてほしい」
という、一種の抗議をしています。
このころは、両者の間で、何かがくすぶり始めていました。
これについて、次回は、更に詳しく考えてゆきます。

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[1162-30] 宇宙的救い 水野吉治 2006/06/17(土)14:55

赤岩栄は、論文「すべての人はキリスト者」の冒頭に、詩編139篇7節〜12節を掲げています。
これは、すべての人が、一人の例外もなく、神の救いに入れられているということをうたっている詩編です。

全人類が、キリスト者であれば、わざわざ、「キリスト者」という名前で呼ばなくてもいいわけです。
救いは、キリスト者の専売特許ではありません。
イスラム教徒も、仏教徒も、無神論者も、赤ん坊も、お年寄りも、古今東西を問わず、人間はすべて、救われているのですから、「キリスト者」と限定すべきではありません。
人間だけでなく、動物も、植物も、神の壮大な救いの網の中に、すっぽりと、とらえられているのです。
この宇宙が、丸ごと、神の支配の中に、置かれているのです。

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[1162-31] 偶然はない 水野吉治 2006/06/17(土)17:39

この世界に、偶然というものは、存在しません。
すべては、神の支配の中で、起こっていることですから、神の愛と救いを指し示す「しるし」なのです。
それを読み解いて、神を讃美し、感謝すべきです。

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[1162-32] 内なる光 水野吉治 2006/06/17(土)18:41

クエーカー派では、すべての人のうちに常に働く神の力(=内なる光)を信仰の根拠としています。
そして、教会組織、制度、信条、聖礼典、牧師制度などに重きを置きません。

それに対し、現在の教会の牧師や信徒が、外面的な形式、たとえば、建築物としての教会堂や、牧師のガウンなどに目を奪われて、キリスト教にとって、何が本質的なのか、ということを追求せず、ただ、礼拝の出席人数の多い少ないばかりを問題にしている現状は、嘆かわしい限りです。

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[1162-33] 無教会主義 水野吉治 2006/06/17(土)22:44

無教会主義は、内村鑑三によって提唱された、キリスト者の集まりです。
教会組織、会堂、牧師を持たないで、平信徒が、個人の責任において、集会を主宰します。
洗礼、聖餐などを廃し、聖書を、現実の生活の中で、解釈しようとしています。
ルターに始まった宗教改革の路線を、更に徹底させようとする運動です。
現在のプロテスタントは、初心を忘れて、カトリック的伝統にあこがれ、牧師のガウンや、礼拝の荘厳さを重視しようとしています。
プロテスタントは堕落しつつあるのではないでしょうか。

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[1162-34] 天地創造の前から 水野吉治 2006/06/18(日)16:34

この世の出来事は、すべて、神の支配と愛と救いの中にある、ということを忘れてしまいがちになりますが、ふと、気がつくと、神の不思議な導きの中に、自分があるのです。
気がついても、つかなくても、神の不思議な導きの中に、自分は、天地創造の前から、置かれているのです。
道で、ばったり、思いがけない人に出会うということも、天地創造の前から、神の予定の中に、決められていたのです。
この世に、何も心配することはありません。
思い悩みをやめて、すべてを、神の支配にゆだねればいいのです。

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[1162-35] 時間を超えている 水野吉治 2006/06/18(日)20:07

「天地創造の前から」ということは、時間を超えている、ということです。
永遠ということです。
過去も、未来も、現在もない、ただ、神の創造があるのみ、ということです。

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[1162-36] 満ち足り、あふれている 水野吉治 2006/06/19(月)10:28

現在、自分が、神の創造のただ中にいるということは、言い換えれば、たえず新たに、たえず赦され、たえず救われているということです。

これ以外に、何を望み、何を必要とするでしょうか。
これで、全く完結しています。
すべて満ち足り、あふれています。

こんなすばらしいことがあるでしょうか。

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[1162-37] 神の先行(先手) 水野吉治 2006/06/19(月)11:02

聖書に、「たえず、祈れ」と命じられていますが、感謝すべきことには、わたしたちが、たえず祈る前に、すでに、神が、たえず赦し、たえず救って下さっているという事実が、先行しているのです。

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[1162-38] 隠れたところ 水野吉治 2006/06/19(月)13:07

祈祷会で祈られる祈りは、「人に聞かせる祈り」になります。
時には、祈りが、「説教」になってしまいます。
聞いている人を意識する祈りは、いつも、このような危険をはらんでいます。
礼拝の中で、牧師が祈る時には、その危険が、もっとも大きいといわねばなりません。
イエス様は、
「祈る時には、戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」
    (新約聖書マタイによる福音書6章6節)
と言われました。

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[1162-39] 「隠れたところ」とは何か 水野吉治 2006/06/19(月)18:01

「隠れたところ」とは何でしょうか。
「見えない」「つかめない」「感覚を超えた」ところです。
あえて言えば、「無の一点」です。
本当の祈りも、礼拝も、「隠れて」なされてこそ、「み心のままに」という姿勢が保たれるのです。

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[1162-41] 「随神(かんながら)」 水野吉治 2006/06/19(月)20:35

「み心のままに」がどうして、「隠れたところ」なのでしょうか。
それは、「随神(かんながら)」だからです。

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[1162-42] エゴがないこと 水野吉治 2006/06/19(月)20:41

「随神(かんながら)」は、「見えない」「つかめない」「感覚を超えた」ところなのです。
そこには、エゴがないのです。

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[1162-43] 宗教の堕落 水野吉治 2006/06/20(火)10:42

「目立つこと」を求める、今の教会や寺院は、「随神(かんながら)」になっていません。
エゴを肯定し、自分を前面に押し出しています。
宗教の堕落です。

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[1162-44] 「目立つこと」をやめる 水野吉治 2006/06/20(火)11:20

キリストや、釈迦は、「目立つこと」を求めたでしょうか。

キリストは、彼を、王にしようとする群集を避けて、山に逃れ、ひとり祈りました。

修道院や、昔からの寺院は、人里はなれたところに、建てられました。

「人に知られず」、
「戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」
というキリストの言葉に従って、「目立つこと」を、やめたいものです。

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[1162-45] 祈りの結果も隠されている 水野吉治 2006/06/20(火)13:02

「祈りは聞かれるのか」という問題について、
「戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。」
ということから、考えてみたいと思います。

祈りが聞かれた場合、それは、どのようにして分かるのでしょうか。
神が、隠れたところにおられる以上、そして、祈りも、隠れたところで祈られる以上、祈りの結果も、隠されていて、「見えない」「つかめない」「感覚を超えている」のです。

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[1162-46] 祈りは聞かれる・聞かれない 水野吉治 2006/06/20(火)13:31

たとえば、病気の人が、
「病気を治してください」
と祈ったとします。

祈りの、本質は、「無我」「無私」であることです。
神と一つになることです。
「御心のままに。」
というのが、祈りのすべてです。
病気であることが、御心であるなら、
「病気を治してください」
という祈りは聞かれません。

では、祈りは、空しい行為なのでしょうか。
決してそうではありません。
祈っているうちに、
「御心のままに。」
という祈りにまで、導かれ、ついに、神と一つになるのです。
祈る前に、すでに、神と一つになっているのですが、気付かないだけです。
それに気付かせてもらえるのが、祈りです。
気付くことが、祈りが聞かれたことなのです。

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[1162-47] 祈りは聞かれる 水野吉治 2006/06/20(火)17:57

人間が、自分の欲望の夢から覚めて、神の愛に目覚めることが、祈りが聞かれたということなのです。

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[1162-48] 隠れたところにおられるあなたの父 水野吉治 2006/06/20(火)20:56

「隠れたところにおられるあなたの父」とは、人間の感覚にはとらえられないのが、神である、ということです。

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[1162-49] プロテスタントの「懐古」「復古」傾向 水野吉治 2006/06/21(水)11:33

出エジプトのあと、イスラエルの民は、荒れ野の旅の苦しさと、先の見えない不安から、
「我々は、エジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。
あのときは、肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。」
と、モーセとアロンに向かって、不平を述べ立てました。
プロテスタントも、カトリックから飛び出しておきながら、またぞろ、「懐古」「復古」に向かおうとしているようです。
プロテスタントの牧師が、カトリックの神父のようなかっこうにあこがれて、ローマン・カラー(ラウンド・カラー)をし、ガウンを着込んで、芝居じみた説教や、聖礼典を、とくとくと演じているさまは、こっけいでもあり、情けないかぎりでもあります。

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[1162-50] 猿芝居 水野吉治 2006/06/21(水)12:52

プロテスタントの牧師が、カトリック的形式や、権威にあこがれるのは、自分が、プロテスタントであることに対する裏切りであり、放棄であると思います。
プロテスタントの牧師は、結婚式のアルバイトや、その他、世間に認めてもらうのに都合のいい肩書きや衣装を身にまとう事に憂き身をやつしています。

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[1162-51] 神話と演技 水野吉治 2006/06/21(水)13:41

神話と演技とは、古来、密接に結びついています。
牧師が、礼拝での演技に憂き身をやつすのは、自らの信仰が、全く、神話に基づき、神話を再生産しているのだ、ということに気付くべきです。

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[1162-52] 神話の再生産 水野吉治 2006/06/21(水)14:25

キリスト教会の牧師の説教が、神話の再生産をするだけで、人間の根源的な問いに答えていないとすれば、何のための教会であり、何のための牧師か、ということになります。

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[1162-53] 生き方を変える福音 水野吉治 2006/06/21(水)17:21

福音というものは、語る者も、聞く者も、二つながら、生き方を変えてしまう威力を持っています。
まず、語るものが、自分の生き方を、福音によって、変えられるのでなければ、どうして、聞く者の生き方を、変えることが出来るでしょうか。

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[1162-54] 奇跡物語 水野吉治 2006/06/21(水)21:35

奇跡とは何でしょうか。
それは、自分の外部に起こった、超自然的な出来事ではありません。
自分の内部で、この自分自身に起こった「超自然的」出来事なのです。
「超自然的」とは、感覚でとらえられない、まさに「無の一点」です。
それを、なんとか説明しようとして、つむぎだされたのが、奇跡物語です。
奇跡物語を、合理的に説明しようとすれば、「無の一点」なる、神の支配、神の愛、神の赦しから、目をおおう事になります。

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[1162-55] 聖書と教会の使命 水野吉治 2006/06/22(木)10:39

肉体を使って、肉体を超えた世界を表現する、
時間と空間という舞台装置を使って、時空を超えた真理を表現する、
神話を使って、永遠の救い、復活を表現する、
これが、聖書の世界であり、教会の使命なのです。

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[1162-56] 坊主丸もうけ 水野吉治 2006/06/22(木)12:20

仏教の坊主にも、色々ありますが、修行と布教(伝道)のため、乞食坊主として、ホームレス寸前の生活をしている人もあります。
その逆に、檀家からのお金(献金)と、拝観料、葬式、その他のアルバイトからの収入で、豊な生活をしていて、車に乗り回したりして、贅沢な生活を楽しんでいる人もあるのです。
光熱費、家賃、本代、等はすべて、檀家の負担であり、税金は免除されています。
「坊主、丸もうけ」といわれるゆえんです。

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[1162-57] 他山の石 水野吉治 2006/06/22(木)12:32

寺院の一部が、「葬式仏教」と批判されるまでに、堕落してしまったことは、「他人事」ではありません。

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[1162-58] 宗教のいのち 水野吉治 2006/06/22(木)12:57

宗教が、いのちを失っているかどうか、ということは、部外者からは、よく見えるのですが、当の宗教自身には、見えないのです。

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[1162-59] すべての宗教のテーマ 水野吉治 2006/06/22(木)16:00

このスレッドのテーマは、「一つということ」ですが、これは、すべての宗教のテーマでもあります。
キリストも、十字架にかかる前夜の祈りに、
「すべての人を、一つにしてください」
「彼らが、完全に、一つになるためです」
と言っておられます。
(新約聖書ヨハネによる福音書17章21,23節)

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[1162-60] 宗教の使命 水野吉治 2006/06/22(木)18:04

「一つ」とは、相対を超えているということです。
「いい」と「悪い」、「生」と「死」、その他、相対、二元の、分離、対立が、限りなく展開されているこの地上世界に、「一つ」の福音をもたらす使命が、すべての宗教に与えられているのです。

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[1162-61] 「生」と「死」の問題 水野吉治 2006/06/22(木)18:41

72歳のわたしにとって、「生」と「死」の問題は、差し迫っています。
二元、相対の世界では、絶対に解決できない「生」と「死」の問題は、宗教でこそ、解決への光が与えられるはずです。
それを与えることができないとすれば、宗教としての存在の意味がないことになります。

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[1162-62] 復活 水野吉治 2006/06/22(木)18:48

「生」と「死」の問題は、「復活」において、はじめて、解決されるのです。

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[1162-63] 「生」と「死」が一つになった「いのち」 水野吉治 2006/06/22(木)20:55

「復活」とは、「生」と「死」を超え、「生」と「死」が一つになった「いのち」です。

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[1162-64] 復活のいのち 水野吉治 2006/06/23(金)08:33

「復活のいのち」は、「生き返ったいのち」ではありません。
「生き返ったいのち」であれば、いつか、かならず死ぬいのちです。
「復活のいのち」は、死を含み、死を超えています。
死を含み、死を超えている、ということは、死が、絶対的なものでなくなっているということです。
それは、また、生も、絶対的なものでなくなっているということです。

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[1162-65] 死の恐怖 水野吉治 2006/06/23(金)10:26

「復活のいのち」において、「死」の恐怖はなくなるのでしょうか。
なくならないかもしれません。
しかし、「死」の恐怖はあっても、「復活のいのち」は、それを、はるかに超えています。
しかも、「復活のいのち」は、「無の一点」として、面積がありません。
ですから、「死」の恐怖と、同じ地平で、たたかう必要はないのです。

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[1162-66] 「復活のいのち」の絶対的安心 水野吉治 2006/06/23(金)11:54

「死」の恐怖はあっても、「復活のいのち」は、それを、はるかに超えているのですから、「安心して」恐怖を味わったらいいのです。

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[1162-67] 無の一点 水野吉治 2006/06/23(金)12:51

要するに、「復活のいのち」は、神の救い、神の愛、神の力ですから、人間の相対世界では、目に見えない「無の一点」です。

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[1162-68] 神話 水野吉治 2006/06/23(金)14:50

「無の一点」を、目に見える形、すなわち、「有の一点」にしようとすれば、それは、「神話」という形を取らざるを得ません。

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[1162-69] 恐怖も神話 水野吉治 2006/06/23(金)17:40

「死の恐怖」というのも、目に見えないものが、目に見える形を取ったものなのです。
したがって、それも「神話」であって、実体はないのです。
「恐怖」というものは、想像が作り出したものに対して、おびえることです。
自分が作り出したものに、自分でおびえているのです。
おびえるのをやめれば、恐怖は消えます。
自分で作り出したものですから、自分で、消せるのです。

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[1162-70] 「生活の不安」という神話 水野吉治 2006/06/23(金)18:07

「生活の不安」というのも、自分で作り出したものに、自分でおびえていることです。
やめれば、なくなるものです。

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[1162-71] 「自分」という神話 水野吉治 2006/06/23(金)18:45

「自分がある」と思うのも、「神話」です。
「自分」などという実体はありません。
肉体が死ねば、土に帰るのと同じく、死ねば、「自分」もなくなるのです。
もともとない「自分」に、しがみつくのも、「しがみついている」と思い込んでいるに過ぎません。
まして、自分の地位とか、名誉とか、生活とかは、実体のない、「神話」なのです。
そんなものにしがみつくほど、おろかなことはありません。

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[1162-72] デカルトの「神話」 水野吉治 2006/06/23(金)18:51

デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」
というのも、「われ神話」を定式化したものです。
「われ」という実体があると、思い込んでしまったのは、デカルト最大の失敗でした。

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[1162-73] 「われ信ず」という神話 水野吉治 2006/06/23(金)21:08

「われ信ず」というのも、神話です。
「信ず」に対して、「信ぜず」という、相対が成り立つことが、神話である証拠です。

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[1162-74] 相対的なこと 水野吉治 2006/06/24(土)09:12

「自分がある」と思うのは、「他人がある」ということでもあります。
「信じる」ということは、「信じない」という相対の地平での話です。
すべて、その反対が考えられることは、相対的なことです。

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[1162-75] 無視すれば、消える 水野吉治 2006/06/24(土)09:38

相対的なことには、実体はありません。
妄想です。
幽霊です。

実体のないものに対して、恐れたり、不安を感じる必要はありません。
無視すれば、消えてしまうものばかりです。

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[1162-76] 二元論との決別 水野吉治 2006/06/24(土)13:20

二元論というものは、それ自体の中に、矛盾を含んでいますので、原理的に、哲学理論としては成り立ちません。
かならず、破綻するからです。
根源的なものへの探求には、全く不向きな仮説に過ぎません。
思考を助ける、図式に過ぎないのです。
「仮に」善と悪を設定して、論を進めるためには、一時的に使うことはあっても、いざ、根源的探求の領域に達したとたん、二元論は、有害な足かせになります。
早く、二元論に別れを告げて、本来の作業に返らなければならないのです。

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[1162-77] 暫定的仮説としての二元論 水野吉治 2006/06/24(土)14:22

善と悪の二つの原理を立てて、世界を説明しようとすると、最後には、善か悪かのいずれかが、勝利をおさめなければなりません。
勝利をおさめたほうの原理が、究極的原理となります。
結局、一元論になるのです。
弁証法的に発展してゆくとしても、発展の先は、一元です。
二元論は、一元論にいたるまでの、暫定的仮説であり、根源的なものの追求に耐えない、未熟で、脆弱(ぜいじゃく)な論理なのです。

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[1162-78] 生と死 水野吉治 2006/06/24(土)18:06

生と死も、やはり、二元論的図式の産物です。
したがって、実体はありません。
本当の生は、復活の生であり、本当の死は、十字架の死です。
本当の生と死について、述べようとすると、やはり、神話的図式を採用せざるを得ないのです、

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[1162-79] 相対世界の宿命 水野吉治 2006/06/24(土)20:49

しょせん、この地上の相対世界で、言葉を使う限り、神話的・二元論的枠組みを使わざるを得ません。

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[1162-80] 死は仮説 水野吉治 2006/06/25(日)09:00

死は、体験できません。
体験する主体がなくなるのが、死だからです。
その意味で、死は、実体のない仮説なのです。

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[1162-81] 生は「無の一点」 水野吉治 2006/06/25(日)09:12

生きている、ということは、「無の一点」であって、その理解と表現は、二元論的仮説を使わなければなりません。

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[1162-82] 生と死は同じこと 水野吉治 2006/06/25(日)15:30

生きているということが、「無の一点」であればこそ、生と死が、「同じこと」と言えるのです。

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[1162-83] 慈悲は無の一点 水野吉治 2006/06/25(日)19:49

慈悲(じひ)という心は、すでに、宇宙大に広がり、同時に、地球の深部にまで届いています。
「横超(おうちょう)」とは、この慈悲の働きをいうのでしょうか。

「只管打坐(しかんたざ)」の「只管(しかん)」は、「位置だけあって、面積のない」幾何学的「点」のようなもので、「無の一点」です。

(「無の一点」は内山興正老師の造語です。師は「過去と未来に挟まれた現在」を「無の一点」と表現されました。私は、それに、勝手な意味をつけて、使わせていただいています。)

「無の一点」なればこそ、自在に、「自(じ)」にもなれば、「他」(た)にもなり、また、「有(う)」にも、「無」(む)にもなれます。
「慈悲」は、まさに、「無の一点」ではないでしょうか。

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[1162-84] 現代の社会と世界の問題と無の一点 水野吉治 2006/06/26(月)08:27

現代の社会と世界の複雑な問題に対しては、「無の一点」をもってしなければなりません。
そうでないと、問題を、ますます、紛糾させる結果になるでしょう。

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[1162-85] 党派を作らない 水野吉治 2006/06/26(月)15:58

「無の一点」とは、
「党派」を作らない、
「対抗」しない、
「主張」しない、
ということです。

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[1162-86] 「われ」信仰、「われ」礼拝 水野吉治 2006/06/26(月)16:39

デカルトが、「われあり」の「われ」を、実体だと思ったのは、最大の失敗でした。
現代人は、デカルトにしたがって、「われ」という実体があると思い込み、「われ」を世界の中心にすえ、「われ」信仰、「われ」礼拝を始めてしまったのです。

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[1162-87] 「われ」と「他」を超えた復活のいのち 水野吉治 2006/06/26(月)17:19

「われ」を、世界の中心に置き、「われ」を、世界の支配者とする考え方は、デカルトに起源を持っています。
しかし、本当の「われ」は、復活のいのちであり、「われ」と「他」を超えています。

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[1162-88] 相対世界の宿命 水野吉治 2006/06/26(月)20:47

この相対世界で、言葉を使って語ろうとすれば、どうしても、二元論的世界観の枠組みの中で、神話的表象を使って語らざるを得ません。

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[1162-89] 「即」の意味 水野吉治 2006/06/27(火)10:48

「煩悩即菩提」の「即」とは、どう意味でしょうか。
煩悩が、そのまま、菩提であるという意味ではありません。
もし、そうなら、「煩悩を持ったままでいい」ということになります。
そのような「煩悩を肯定する」のが、「煩悩即菩提」ではありません。

悟ってみれば、煩悩も菩提も無いのです。
「無の一点」なのです。
煩悩も菩提も、「無の一点」を表現するものであって、実体は無いということです。

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[1162-90] 妄想の諸相 水野吉治 2006/06/27(火)15:24

妄想について

1. 精神医学的意味。(「もうそう」と読む場合)
   @ 定義
    非合理的、かつ、訂正不能な「思い込み」のこと。
    妄想を持った本人には、その考えが妄想であるとは思えない。
    A 原因
     統合失調症。躁うつ病。うつ病。せん妄(外界に対する意識がにごり、錯覚多く、談話まとまらず、ついに麻痺に陥る病気)。てんかん。薬物中毒。
    B 種類
     被害妄想。関係妄想(周囲に起こっている現実を自分に結び付けて考える)。誇大妄想(「自分は天才だ」「自分は大金持ちだ」などと思い込む)。罪業妄想(「自分は非常に悪い存在だ」、「みんなに迷惑をかけている」と思い込む)。心気妄想(「自分は悪い病気にかかっている」と思い込む)。貧困妄想(「借金をかかえてしまった」などと思い込む)。
2. 仏教的意味。(「もうぞう」と読む場合)
    @ 定義
     実体がないものを、「ある」と思うこと。
    A 原因
     物事を、善悪、損得で分別し、それにとらわれ、握りしめる。
    B 種類
     雑念(一つのことに集中できない)。
     連想(頭に、思いが湧くと、それを追いかけ、次々と、思いを発展させる)。
     仮想(自分を中心にした世界を作り上げる)。
     妄念(自分というものが「ある」と思い込む)。
3. キリスト教的意味。(「もうそう」と読む場合)
    @ 定義
     自分の力に頼って、思い悩むこと。
    A 原因
     神の支配に身をゆだねず、神の国にある自分を認めない。
    B 種類
     不安(生活の不安)。
     恐怖(死の恐怖)。
     憎しみ(相手を受けいれられないねたみ、許せない憎しみ)。
     貪欲(金でも、物でも、いくらあっても、まだ足りないという思い)。

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[1162-91] 菩提(救い)も、「無の一点」 水野吉治 2006/06/27(火)20:46

キリスト教の救いも、仏教の菩提(救い)も、「無の一点」ですから、神話的表象を使わないと、理解も表現も出来ません。

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[1162-92] いちばん大事なもの 水野吉治 2006/06/28(水)09:07

今の日本人にとって、「生活の不安」ということが、すべてを決定する要素になっているようです。
「金」こそ、最高、最善、最強の王者というわけです。
今、「あなたにとって、いちばん大事なものは、何ですか」という問いが、日本人に突きつけられています。

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[1162-93] 人間は神か 水野吉治 2006/06/28(水)18:37

今の日本人は、「子どもを生むか、生まないか」とか、「生むとしても、何人生むか」などという問題を、自分が、勝手に決めてしまえる、と思い込んでいます。
人間に、子どもの生命を左右する権利が、与えられている、と思い込んでいます。
自分を、神の位置に、祭り上げているのです。

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[1162-94] 最大の傲慢 水野吉治 2006/06/29(木)08:29

人間が、生命の誕生を、操作できると思い込むことほど、傲慢な罪はありません。

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[1162-95] 宗教生活の姿勢 水野吉治 2006/06/29(木)12:25

内山興正老師は、沢木老師に、25年間、付き従い、京都安泰寺では、十数年、たった一人で、坐禅を続けてこられました。
沢木老師がなくなられたあと、一人で、接心をはじめられたところ、人が集まりだして、ついに、60人前後になったそうです。
しかし、
「人数の多い少ないが問題ではなく、「自己が、自己になる」という、その一事のためにこそ、坐禅し抜く、という姿勢が大事だ」
と語られていました。

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[1162-96] 相対界の事柄 水野吉治 2006/06/29(木)16:33

人数の多い少ないは、しょせん、相対界の事柄です。
人数が、多いからといって、自分の救いにはなりません。

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[1162-97] 相対世界から、どのくらい離れているか 水野吉治 2006/06/29(木)16:42

相対世界から、どのくらい離れているか、また、離れていられるか、ということを、常に反省していたいと思います。

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[1162-98] 相対界のレベル 水野吉治 2006/06/29(木)16:52

わたしを、相対界につなぎとめようとする働きは、神話的に言えば、悪魔の働きです。
ただし、これは、神話的な表現です。
わたしの中に、相対界のレベルが存在しているのです。

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[1162-99] 相対界の超脱 水野吉治 2006/06/29(木)19:30

相対界を超脱しない限り、救いはありません。

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[1162-100] 坐禅による超脱 水野吉治 2006/06/29(木)21:20

相対界の超脱は、どうすれば可能か。
坐禅による以外にありません。

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[1162-101] 思いをやめる 水野吉治 2006/06/30(金)06:20

坐禅の中で、思いが浮かんだら、やめ、やめ、してゆくのです。
思いというのは、人を、相対界につなぎとめようとする悪魔(神話的表象で、実体は無い)の働きです。

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[1162-102] 「思い」と「言葉」 水野吉治 2006/06/30(金)08:38

「思い」は、「言葉」と同様、相対化の道具です。
無の一点は、「思い」と「言葉」によって、分かりやすくなりますが、同時に、「神話化」され、真実は、覆い隠されてしまいます。

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[1162-103] 「分かった」が危ない 水野吉治 2006/06/30(金)13:37

「思い」と「言葉」で、「分かった」と思ってしまうことが、いちばん、危険です。

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[1162-104] 「祈り」の姿勢 水野吉治 2006/06/30(金)13:54

「分かった」(アーメン)が、「祈り」の姿勢にならなければなりません。

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[1162-105] 「アーメン」は、「神とともに」 水野吉治 2006/06/30(金)15:06

「アーメン」は、「神とともに」です。
したがって、「人間、わたし」が分かったのではありません。

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[1162-106] 神の真実 水野吉治 2006/06/30(金)15:18

「アーメン」(真実)は、人間わたしの真実ではありません。
神の真実です。

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[1162-107] 人間を超える 水野吉治 2006/06/30(金)20:18

人間を超えないと、救いはありません。

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[1162-108] 「業(ごう)」と「こころみ」 水野吉治 2006/07/01(土)14:26

わたしたちが、今、当面している問題や、病気や、困難は、すべて、偶然ではなく、何かのメッセージを担って、出現したものだということを、宗教的に言い表すと、「業(ごう)」であるとか、「こころみ」であるとか言えます。
「業(ごう)」とか、「こころみ」とかいうふうに受け取ることによって、「愚痴(ぐち=わからずや)」におちいることを避けることができます。
問題や、病気や、困難は、すべて、わたしたちが、「無の一点」にかえって、「み心のままに」という姿勢に導かれるよう、神が与えたもうた道しるべなのです。
その場合、「業(ごう)」や「こころみ」は、あくまで、神話的表象であって、実体は無いのだ、ということを忘れてはなりません。
「業(ごう)」や「こころみ」から、目を上げて、わたしたちの、霊的修行に、それらを利用すればいいのです。

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[1162-109] この世の生活 水野吉治 2006/07/01(土)14:32

この世の生活を、霊的修行の場にするために、神は、あの手この手で、わたしたちを、導いておられます。

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[1162-110] 宗教用語 水野吉治 2006/07/01(土)14:56

宗教用語を、いくら覚えて、使えるようになっても、それで、その言葉が、神からのメッセージになったのではありません。

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[1162-111] 赤岩牧師の福音理解 水野吉治 2006/07/01(土)20:34

赤岩牧師の福音理解に、まだ、完全に「非神話化」されていない部分があって、そのために、不幸な分裂があったのではないかと思います。

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[1162-112] 相手にしない 水野吉治 2006/07/02(日)10:14

坐禅をしていると、「思い」の起滅するのが、よく分かります。
「業(ごう)」や「こころみ」は、「思い」の起滅です。
それを、追ったり、それから、逃げたり、しようとすればするほど、「思い」は、ますます、面白がって、しつこくつきまといます。
相手にしない、ということに、徹しなければなりません。

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[1162-113] 明日のことまで思い悩むな 水野吉治 2006/07/02(日)15:08

わたしたちが、今、当面している問題や、病気や、困難は、何かの使命を帯びて、わたしたちのところにやってきたのです。
その使命が終われば、霧が晴れるように、消えてゆきます。
わたしたちは、当面している問題や、病気や、困難から、メッセージを聞き取れば、それで、彼らの使命は終わりますから、さっさと消えてゆくのです。
「だから、明日のことまで、思い悩むな。明日のことは、明日自らが、思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
(新約聖書マタイによる福音書6章34節)
と言われるのです。

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[1162-114] にぎらない 水野吉治 2006/07/02(日)17:04

問題や、病気や、困難を、実在として、「にぎってしまう」から、それに、押しつぶされそうになるのです。

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[1162-115] 相対的な「一つ」ではない 水野吉治 2006/07/02(日)19:40

このスレッドのテーマは、「一つであること」です。
「一つ」とは何か、というと、それは、「無の一点」です。
「無」ですから、他と並ぶ、相対的な「一つ」ではありません。

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[1162-116] 「一つ」にさえとらわれない 水野吉治 2006/07/03(月)09:12

本当の「一つ」なら、その「一つ」にさえ、とらわれなくなります。

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[1162-117] 多動について 水野吉治 2006/07/03(月)16:55

幼児期に発見される、発達障害の一つに、多動ということがあります。
これについて、考察してみたいと思います。

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[1162-118] 妄想と多動 水野吉治 2006/07/03(月)19:40

妄想と多動は、互いに関係しあっています。

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[1162-119] 妄想をやめる 水野吉治 2006/07/03(月)21:07

妄想をやめるしかありません。

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[1162-120] 坐禅と「み心のままに」 水野吉治 2006/07/04(火)08:52

坐禅と、「み心のままに」は同じことです。

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[1162-121] 「一つ」を行ずる 水野吉治 2006/07/04(火)11:12

「一つ」を行ずればいいのです。

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[1162-122] 椎名の赤岩批判 水野吉治 2006/07/04(火)11:56

椎名の赤岩批判については、詳しく見て行きたいと思います。

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[1162-123] 「非神話化」のあとに残るもの 水野吉治 2006/07/04(火)20:30

椎名が、赤岩に、期待していたのは、「非神話化」の果てに、何が残るのか、ということではなかったでしょうか。

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[1162-124] 神は「無の一点」 水野吉治 2006/07/05(水)10:40

「非神話化」を、徹底的に遂行すれば、何も残りません。
神は、「無の一点」だからです。

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[1162-125] 「無の一点」と文学や芸術 水野吉治 2006/07/05(水)13:26

「無の一点」を、文学や芸術で表現しようとしても、不可能です。

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[1162-126] 象徴 水野吉治 2006/07/05(水)21:16

「無の一点」に対しては、「表現」ではなく、「象徴」以外にないでしょう。

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[1162-127] 実体を取り巻く「霧」 水野吉治 2006/07/06(木)08:45

「無の一点」は、「象徴」によって、理解し、表現することができます。
「象徴」とは、実体を取り巻く「霧」のようなものです。

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[1162-128] 「非神話化」は「霧」の排除ではない 水野吉治 2006/07/06(木)09:16

「非神話化」とは、「霧」の排除、「霧」の消去ではありません。

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[1162-129] 自分が「霧」になる 水野吉治 2006/07/06(木)13:26

「非神話化」は、自分が「霧」になることです。

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[1162-130] 「無の一点」と一つになる 水野吉治 2006/07/06(木)14:01

自分が「霧」になれば、「無の一点」と一つになります。
そうすれば、「非神話化」ということすら、やらなくてもいいことになります。

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[1162-131] 神話は子守り歌 水野吉治 2006/07/06(木)22:30

神話の本質は、お母さんが、子どもを寝かしつけるために語るおとぎばなしであり、子守り歌なのです。

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[1162-132] 本当の自己実現 水野吉治 2006/07/07(金)09:47

「女性的なるもの」の本質は、霧になること、自己を主張しないこと、自己を隠すことです。
それが、本当の自己実現なのです。

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[1162-133] 男性の自己実現 水野吉治 2006/07/07(金)11:19

男性も、女性的なるものを持っています。
男性の自己実現は、自分の中にある、女性的なるものを、排除することによって、実現するのではありません。

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[1162-134] あいまいさ 水野吉治 2006/07/07(金)13:35

人間から、あいまいなものを切り捨てることはできません。
あいまいさは、人間の大切な部分です。

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[1162-135] 母性 水野吉治 2006/07/07(金)17:07

女性は、「あいまいなもの」をあいまいなままで、受け入れ、はぐくむことができます。
それが、母性です。

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[1162-136] 「あいまい」と「いい加減」 水野吉治 2006/07/08(土)14:02

「あいまい」と「いい加減」は、違います。
「あいまい」は、相手を受け入れる姿勢です。
「いい加減」は、相手を、無視、または、排除しようとする態度です。

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[1162-137] 生も死も自己の風景 水野吉治 2006/07/08(土)22:49

「あいまいさ」は、肯定も否定も、生も死も、自己の風景とする姿勢です。

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[1162-138] 変わり得るということ 水野吉治 2006/07/09(日)07:34

相手が、変わり得るということ、それは、また、自分が変わり得るということでもあります。
変わりうる余地を、期待し、信じること、それが、愛です。
母性です。

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[1162-139] 決め付け 水野吉治 2006/07/09(日)15:50

相手を、「決め付け」てしまうと、すっきりしますが、それは、エゴが、満足しているだけです。

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[1162-140] 心のカス 水野吉治 2006/07/09(日)21:26

エゴの満足は、そのときは、気持ちがよくても、心に「カス」のようなものが残って、後味が悪いのです。

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[1162-141] 常に自分で点検 水野吉治 2006/07/10(月)07:59

心に、カスが残っているように感じられるか、ということを、常に、自分で、点検しなければなりません。

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[1162-142] 実体はない 水野吉治 2006/07/10(月)12:11

もちろん、「カス」という実体があるわけではなく、心の思いが作り出したものです。

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[1162-143] 「カス」が告げるメッセージ 水野吉治 2006/07/10(月)15:16

「カス」が告げるメッセージが、大切なのです。

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[1162-144] 「初発心」 水野吉治 2006/07/10(月)15:26

「初発心」に帰れ。
これが、「カス」の告げるメッセージです。

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[1162-145] 「初発心」の百千万発 水野吉治 2006/07/10(月)21:14

「初発心」を、百千万発することが、「無の一点」を、行(ぎょう)ずる道です。

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[1162-146] 自己が自己に帰る 水野吉治 2006/07/11(火)11:08

「初発心」とは、自己が、自己に帰ろうとする運動です。

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[1162-147] 病の中での祈り 水野吉治 2006/07/11(火)20:03

主よ。
苦しみのため、祈ることが出来ず、祈りを忘れているときも、
どうか、私のために祈ってください。

主よ。
苦しみのため、何も見えず、何も聞こえないとき、
どうか、私の代わりに、希望の光を見、慰めの言葉を聞いてください。

主よ。
苦しみのため、ひたすら楽にしてほしいと願うとき
どうか、私の目から涙をぬぐい、私の呼吸を神の息吹(いぶき)で支えてください。

主よ。
苦しみのため、死を恐れ、暗黒の不安におののくとき、
どうか、私を抱き取り、私をおぶって、母の背中のような安らかさを与えてください。

主よ。
苦しみのため、主を忘れ、信仰を失うときも、
どうか、私を覚え、私のために祈ってください。

この苦しみの瞬間、私には、力も、望みもありません。
しかし、主よ、あなたが、私の力、また、望みであります。
             アーメン。

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[1162-148] 「祈れない祈り」 水野吉治 2006/07/12(水)08:35

苦しみの中で、どうすればいいか、分からなくなったとき、「祈れない祈り」を祈りましょう。

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[1162-149] 「復活の姿」 水野吉治 2006/07/12(水)11:16

「祈れない祈り」、「信仰なき信仰」、「不安の安心」。
これこそ、「復活の姿」です。

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[1162-150] 余命一時間 水野吉治 2006/07/12(水)12:51

「余命一時間」となったとき、さあ、あなたの信仰は?あなたの生き方は?あなたの意識は?
もう、「無の一点」に帰る以外にありません。

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[1162-151] あらゆることはメッセージ 水野吉治 2006/07/12(水)15:15

人生で出合うあらゆることは、「無の一点」へ帰れ、というメッセージです。

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[1162-152] 「無の一点」とは復活のいのち 水野吉治 2006/07/12(水)19:15

「無の一点」とは、復活のいのちです。

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[1162-153] 相対の地平 水野吉治 2006/07/13(木)10:46

「坐禅したら、健康によい」とか、「胆力がつく」とか、気分がすっきりする」などということは、坐禅を、相対の地平に、引きずりおろしているのです。

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[1162-154] 無の一点 水野吉治 2006/07/13(木)13:39

「無の一点」を、相対の地平に引きずりおろしたら、もやは、「無の一点」ではなくなります。

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[1162-155] 坐禅 水野吉治 2006/07/13(木)13:43

「無の一点」を、そのまま「無の一点」として受け取るのが坐禅です。

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[1162-156] すべての問題の解決 水野吉治 2006/07/13(木)15:08

「無の一点」に帰ることが、すべての問題の解決です。

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[1162-157] 祈り 水野吉治 2006/07/13(木)16:10

祈りは、「無の一点」に帰ることです。

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[1162-158] 「人格」という仮説 水野吉治 2006/07/14(金)10:40

「人格」という主体が存在するということは、思考や、議論を進めてゆく上で、必要な仮説です。

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[1162-160] 人格と相対 水野吉治 2006/08/16(水)14:30 [http://mizuno-net.jp/]

人格は、相対において成り立つものです。

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[1162-170] 「合同教会」か「教会の合同体」か 水野吉治 2006/11/24(金)13:25 [http://mizuno-net.jp/]

日本基督教団て何でしょうか。
「合同教会」だと言われますが、実は、そうではなくて、「教会の合同体」に過ぎません。
そんな「合同体」が、「信条」や「信仰告白」持つことができるのでしょうか。
「教会」なら、「信条」や「信仰告白」持つことができるでしょう。
しかし、「信条」や「信仰告白」を持つことが、「教会」の要件ではありません。
キリストを信じる者たちが集まって、聖書を学び、神を礼拝するならば、たとえ「信条」や「信仰告白」を持たなくとも、立派に「教会」の要件を満たしています。
「聖礼典」がなく、聖職者がいなくても、教会なのです。

>> スレッド[1162]に返信

[2794] 死を生きる 水野吉治 - 最新投稿 水野吉治 2006/11/27(月)20:57
[2794-1] 死を生きる 水野吉治 2006/08/14(月)11:17 [http://mizuno-net.jp/]

「死を生きる」というテーマは、日野原重明先生の「死をどう生きたか」という書名から、ヒントを得ました。
私の主宰する「芙蓉の会」は、自分自身の生と死を考えることを目指して、発足した会です。
今回、故長久幸子さんの遺志として、芙蓉の会にささげられたお金を、どのようにすれば、いちばん遺志に応えることが出来るかを考えて、まず、芙蓉の会の記念誌を発行することになりました。
その記念誌の名前を、「死を生きる」にすれば、死を、単に自分の外側の事柄とせず、自分自身の生の内側に存在する事柄として受け取る姿勢が、表されるのではないか、と思いました。
「死を生きる」を、私自身の課題として、これから、修行してゆくつもりです。

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[2794-2] 死から目をそらせない 水野吉治 2006/08/14(月)17:22 [http://mizuno-net.jp/]

死を、単に自分の外側の事柄とせず、自分自身の生の内側に存在する事柄として受け取るためには、まず第一に、自分自身の死から、目をそらせることなく、死の不安をごまかさず、はぐらかさないことです。

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[2794-3] 記念誌原稿要領 水野吉治 2006/08/15(火)13:31 [http://mizuno-net.jp/]

1.死との出合い
   肉親、友人、知人の死
2.自分の瀕死体験・臨死体験
   病気、負傷、戦争、事故、自然災害
3.死への準備
   信仰、祈り、遺書
4.死に関する疑問・生に関する疑問
   死とは何か、死後はどうなるのか、生きる意味
5.死に関すること・生きる意味に関すること何でも

以上のどれかについて(ほかのテーマでも可)。
原稿用紙、または、ワープロで、400字×2枚程度(いくら多くても可)。

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[2794-29] 明鏡止水 水野吉治 2006/11/27(月)20:57 [http://mizuno-net.jp/]

日野原重明先生が尊敬しておられるウイリアム・オスラー博士(1849〜1919)は、アメリカ医学の開拓者です。
カナダで、英国人牧師の子として生まれ、晩年は、オックスフォード大学欽定教授に招聘されました。
日野原先生が訳された「平静の心〜オスラー博士講演集」(医学書院)の「平静の心」という言葉は、ラテン語の aequanimitas です。
これは「水」というラテン語から派生しています。
中国の故事に、「止まっている水を鏡にする。止まっているものだけが物事を映し出すことができる」というところから「明鏡止水」という言葉が生まれました。
ですから、「平静の心」という訳よりは、「明鏡止水」という訳のほうがいいように思いますが、いかがでしょうか。

>> スレッド[2794]に返信

[1984] 私の出エジプト記 竹本哲子 日本之薔薇社読みました。 キングラット - 最新投稿 水野吉治 2006/11/29(水)10:44
[1984-1] 私の出エジプト記 竹本哲子 日本之薔薇社読みました。 キングラット 2006/06/28(水)20:44

ご無沙汰しています。先日銀座教文館にいくと
”私の出エジプト記” 竹本哲子 北森先生の本コーナー
へいくとその中の1冊 赤い表紙の首題の本がありました。たしか1982年発行です。買わずにその場で立ち読みしてしまったのですが赤岩栄が共産党にかたむいて
いった理由のひとつに娘さんの共産党員との結婚問題
があったということ。またその時期 教会員の婦人、
また隅谷三喜男先生との関係 北森先生がその婦人たちの願いに答えて千歳船橋教会を設立した過程が
書かれていて一気によんでしまいました。
先日ご指摘のとおり 学問のあるものには敬意をはらうが学問がないものには敬意をはらわないといったところが赤岩栄にはあったようです。
この本まだ教文館にあるはずです。

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[1984-2] 有り難うございました 水野吉治 2006/06/28(水)21:12

有り難うございました。
早速、「私の出エジプト記 竹本哲子 日本之薔薇社」を探してみます。
なお、赤岩、椎名関係の、わたしの書き込みは、「一つということ」というスレッドの中に、まだあると思います。
また、御覧下さって、ご批評くださいますよう、お願いいたします。

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[1984-3] 注文しました 水野吉治 2006/06/29(木)11:40

竹本哲子「私の出エジプト」を、教文館のHPから、注文しました。
楽しみに待っています。

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[1984-4] ご協力ください。 水野吉治 2006/06/29(木)11:46

英文の変な書き込みのため、読みにくくなっています。
それに対抗するためには、こちらが、どんどん書き込まなければなりません。
ご協力をお願いいたします。

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[1984-5] 精力的書き込みを 水野吉治 2006/06/29(木)12:29

キングラットさんの書き込みが、隠れてしまわないよう、上のほうになるように、こちらの書き込みを、精力的に、したいと思います。

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[1984-6] 下方へ行かないように 水野吉治 2006/06/29(木)12:42

キングラットさんの書き込みが、下のほうへ行ってしまって、見えなくなったら、また、書き込みをして、上のほうへ、持ってゆきたいと思います。
よろしくご協力ください。

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[1984-7] がんばりましょう 水野吉治 2006/06/29(木)13:00

わたしが書き込んだあと、1分ほどで、もう英文の書き込みがあり、ラットさんが、下に下がっていました。
がんばりましょう。

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[1984-8] 油断めさるな 水野吉治 2006/06/29(木)16:38

また、下のほうに行っていたキングラットさんの書き込みを、上のほうへ持ってきました。
少し油断すると、いつの間にか、下のほうに、押し下げられています。

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[1984-9] 竹本哲子「私の出エジプト」を待っています。 水野吉治 2006/06/29(木)16:47

椎名麟三が、上原教会を離れた事情を、知りたいと願っています。
竹本哲子「私の出エジプト」が来るのを、楽しみに待っています。

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[1984-10] 竹本哲子さんの著書 水野吉治 2006/06/29(木)17:08

竹本哲子さんについて、インターネットで検索しました。
次のような著書が分かりました。

「夢のまた夢」(万葉舎)2004年 01月発売 本体価格:1,238円(税込:1,300円)
「源氏物語(新ダイジェスト版)」(万葉舎)2004年 08月発売

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[1984-11] 「私の出エジプト」が入手できます 水野吉治 2006/06/29(木)19:28

竹本哲子「私の出エジプト」を、教文館のHPから、注文しましたら、二,三日後に届くように送ると返事がありました。
楽しみに待っています。

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[1984-12] 不幸な分裂 水野吉治 2006/06/29(木)21:18

赤岩牧師と椎名さんとの不幸な分裂を、徹底的に追及したいと思っています。

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[1984-13] 非神話化 水野吉治 2006/06/29(木)21:23

非神話化が問題を解く鍵でしょう。

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[1984-14] 「非教会化」 水野吉治 2006/06/30(金)06:23

赤岩牧師の場合、非神話化が「非教会化」になってしまったようです。
これが、妥当だったかどうかということを、検証してみたいと思います。

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[1984-15] 早まってはいけない 水野吉治 2006/06/30(金)08:44

非神話化と「非教会化」によって、真実に近づけると即断してはなりません。
真実に近づくためには、もう少し、いろんな段階を経なければなりません。

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[1984-16] 言葉とアタマの危険 水野吉治 2006/06/30(金)13:41

椎名さんも、赤岩牧師も、「言葉」で仕事をする人たちですから、「非神話化」も、言葉と、アタマで、「分かった」と思ってしまう危険が、いちばん大きいのです。

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[1984-17] 「祈り」の姿勢 水野吉治 2006/06/30(金)13:56

「分かった」が、「アーメン」となり、「祈り」の姿勢にならなければなりません。

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[1984-18] 「アーメン」は、「神とともに」 水野吉治 2006/06/30(金)15:08

「アーメン」は、「神とともに」です。
「人間、わたし」が、わかった、というのではありません。

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[1984-19] 神の真実 水野吉治 2006/06/30(金)15:20

「アーメン」(真実)は、人間わたしの真実ではありません。
神の真実なのです。

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[1984-20] 人間を超える 水野吉治 2006/06/30(金)20:22

人間を超えないと、救いはありません。

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[1984-21] 竹本哲子「私の出エジプト」 水野吉治 2006/07/01(土)14:29

そろそろ、竹本哲子「私の出エジプト」が届くころではないかと、心待ちにしています。

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[1984-22] 「出エジプト」の意味 水野吉治 2006/07/01(土)14:36

「出エジプト」は、この世を越え、人間を超えることにほかなりません。

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[1984-23] 「非神話化」 水野吉治 2006/07/01(土)14:57

「出エジプト」は、「非神話化」のことです。

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[1984-24] 有り難うございました 水野吉治 2006/07/01(土)20:46

竹本哲子「私の出エジプト」が、今日来ました。
前半の「私の出エジプト」を、一気に読みました。

上原教会と、赤岩牧師の姿を、裏側から見た、貴重な証言であると思います。
女の人の感情や思いが、教会形成にとって、いかに重要な役割を果たしているか、ということの、見事な証言でもあります。

どこの教会でも、また、宗教組織でも起こりうることが描かれていて、もって他山の石となすべき、貴重な報告です。

キングラットさん。
ご紹介くださって、有り難うございました。

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[1984-25] 男性と女性 水野吉治 2006/07/02(日)10:17

「私の出エジプト」を、読めば読むほど、女性の、ものの見方、受け取り方が、男性のそれとは、どんなに違うかが、よく分かって、勉強になりました。

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[1984-26] 情緒と論理 水野吉治 2006/07/02(日)15:12

女性は、しばしば、情緒的に、反応し、行動します。
特に、教育には、その情緒的な要素が、必要ですが、また、他の場面では、論理的な面も、必要な時があります。

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[1984-27] 論理的に見、考える 水野吉治 2006/07/02(日)17:06

情緒的反応や行動が、摩擦を引き起こすことがあります。
そうならないためには、やはり、論理的に見、考えることが大切です。

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[1984-28] 「無の一点」」へかえる 水野吉治 2006/07/02(日)19:45

情緒的に、「好き」とか「嫌い」とかで、判断するのではなく、また、「正しい」とか「間違っている」とかで、判断するのでもなく、「無の一点」」へかえる、ということに行き着くことが、すべてでなくてはなりません。

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[1984-29] 復活のいのち 水野吉治 2006/07/03(月)09:13

「無の一点」こそ、復活のいのちです。

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[1984-30] 多動ということ 水野吉治 2006/07/03(月)16:49

注意欠陥多動性障害(ADHD)

注意集中が難しい。
さまざまな情報をまとめることが苦手。
多動。落ち着きがない。
衝動的。思いついたら、行動に移してしまう。

通常7歳までに、症状が確認される。

成人においては、時間が守れない。
物の整理や、情報の管理ができない。
大切なことを忘れる。
見通しをつけることが苦手。
衝動的に行動してしまう。
注意力を持続することができない。
日常生活をきちんとこなすことができない。

劣等感から、うつ病や不安障害を生じる。

すぐれたアイディアを思いつくことができる。
興味のある対象に対しては、強い集中力や、大胆な行動力を示すこともある。

うつ病や、PTSD、アスペルガー症候群でも、似た症状を呈する場合があるので、ADHDに理解の深い医師の診断を受ける必要がある。

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[1984-31] 妄想のとりこ 水野吉治 2006/07/03(月)19:37

多動ということは、妄想のとりこになっているということです。

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[1984-32] 妄想をやめる 水野吉治 2006/07/03(月)21:06

妄想をやめるにはどうすればいいか。
坐禅しかありません。

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[1984-33] 坐禅と「み心のままに」 水野吉治 2006/07/04(火)08:51

坐禅と、「み心のままに」は、同じことです。

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[1984-34] 「一つ」の実行 水野吉治 2006/07/04(火)11:08

「み心のままに」は、「一つ」を実行することです。

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[1984-35] アタマの思いによる苦しみ 水野吉治 2006/07/04(火)20:22

人間が苦しむのは、「この苦しみが、いつまで続くのだろうか」という、アタマの思いによって、不安と恐怖にさいなまれるからです。

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[1984-36] 女性の特性 水野吉治 2006/07/05(水)10:08

女性の特性は、情緒性です。
言い換えれば、「愛」です。
だから、女性は、子どもを生み、育てることができるのです。
男性の中にも、女性の要素、または、側面があります。

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[1984-37] 情緒は霧 水野吉治 2006/07/05(水)13:23

情緒とは、「無の一点」の周囲に、立ち込める霧のようなものです。

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[1984-38] 霧の役割」 水野吉治 2006/07/05(水)21:13

霧は、潤いをもたらし、安らぎを与える、大切な役割を果たします。

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[1984-39] 理解を助ける「霧」 水野吉治 2006/07/06(木)08:38

「無の一点」は、そのままでは理解できません。
「霧」が、その理解を助けてくれます。

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[1984-40] 「霧」は「交わり」 水野吉治 2006/07/06(木)09:13

「霧」とは、「生活」であり、「交わり」なのです。

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[1984-41] 霧を排除し、消去すると 水野吉治 2006/07/06(木)13:19

「無の一点」の周囲に立ち込める霧を排除し、消去してしまうと、「無の一点」そのものも、排除され、消去されてしまうのです。

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[1984-42] 自分が霧になる 水野吉治 2006/07/06(木)13:48

霧を排除せず、自分が、霧になることが、「無の一点」に近づき、「無の一点」そのものになる道です。

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[1984-43] 私の出エジプト記 キングラット 2006/07/06(木)21:31

先日教文館にいったら上記の本なかったので水野さんがご注文されたのかなと思っていました。おやくにたてて良かったです。

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[1984-44] 女性の行動力 キングラット 2006/07/06(木)21:38

そうですよね。教団に直談判にいくくだり。とびだして北森先生に頼むあたりこの行動力は女性だからこそ
できたのかもしれませんね。

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[1984-45] 女性的なるものの「切捨て」 水野吉治 2006/07/07(金)09:40

赤岩牧師の教会形成が、結果的には、女性的なるものの、「切捨て」となってしまったような気がします。

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[1984-46] 書き込みお願い 水野吉治 2006/07/07(金)11:07

ちょっと油断すると、英文の変な書き込みが、たくさん入って、わたしたちのスレッドが、見えなくなってしまいます。
それを防ぐために、どんどん、書き込んでください。

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[1984-47] 「あいまいさ」ということ 水野吉治 2006/07/07(金)13:29

赤岩牧師は、あいまいなことがお嫌いでした。
椎名さんは、あいまいさを、愛されました。
その違いが、大きな亀裂を生むことになりました。

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[1984-48] あいまいに共存 水野吉治 2006/07/07(金)17:02

「あいまいであること」と「あいまいさをなくすこと」とが、せめぎあうことなく、「あいまいに」共存できればいいのですが。

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[1984-49] 「あいまい」と「いい加減」 水野吉治 2006/07/08(土)13:55

「あいまい」と「いい加減」は、違います。
「あいまい」は、相手を受け入れる姿勢です。
「いい加減」は、相手を、無視、または、排除しようとする態度です。

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[1984-50] 生と死を自分の中に在らしめる姿勢 水野吉治 2006/07/08(土)22:43

「あいまい」は、生と死を二つながら、自分の中に、在らしめる姿勢です。

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[1984-51] 「母性的なるもの」 水野吉治 2006/07/09(日)07:26

「女性的なるもの」を切り捨てた赤岩牧師は、同時に、「母性的なるもの」をも、切り捨ててしまったのです。

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[1984-52] 変わり得るということ 水野吉治 2006/07/09(日)07:45

相手が変わり得るということを、待ち得る、信じ得るということです。
それが、母性的なるものです。

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[1984-53] 自分も変わり得る 水野吉治 2006/07/09(日)15:53

相手が変わり得るということは、自分も変わり得るということです。

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[1984-54] ただ待つ 水野吉治 2006/07/09(日)21:29

相手も自分も、変わり得ることが分かっておれば、あせることなく、ただ、待てばいいのです。

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[1984-55] 「変わり得る」と信じる 水野吉治 2006/07/10(月)08:02

この状態が、いつまでも続く、と思うから、苦しいのです。
「変わり得る」と信じましょう。

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[1984-56] 信じられなくても 水野吉治 2006/07/10(月)12:13

もちろん、信じても、信じられなくても、変わり得るのです。

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[1984-57] 「不変の実体」はこの世に存在しない 水野吉治 2006/07/10(月)15:19

「不変の実体」などというようなものは、この世に存在しません。

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[1984-58] 苦しみを作るもの 水野吉治 2006/07/10(月)21:07

「不変の実体」がこの世にあるという思い自体が、苦しみを作るのです。

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[1984-59] 幻想を手放す 水野吉治 2006/07/11(火)11:03

「どこまで続くぬかるみぞ」と、先行き不安が、感じられたら、「ぬかるみ」とは、自分が作り出した幻想だと、気づいて、その幻想を握っている手をゆるめなければなりません。
そうすると、幻想は、たちまち、姿を消してしまうでしょう。

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[1984-60] 病の中での祈り 水野吉治 2006/07/11(火)19:59

主よ。
苦しみのため、祈ることが出来ず、祈りを忘れているときも、
どうか、私のために祈ってください。

主よ。
苦しみのため、何も見えず、何も聞こえないとき、
どうか、私の代わりに、希望の光を見、慰めの言葉を聞いてください。

主よ。
苦しみのため、ひたすら楽にしてほしいと願うとき
どうか、私の目から涙をぬぐい、私の呼吸を神の息吹(いぶき)で支えてください。

主よ。
苦しみのため、死を恐れ、暗黒の不安におののくとき、
どうか、私を抱き取り、私をおぶって、母の背中のような安らかさを与えてください。

主よ。
苦しみのため、主を忘れ、信仰を失うときも、
どうか、私を覚え、私のために祈ってください。

この苦しみの瞬間、私には、力も、望みもありません。
しかし、主よ、あなたが、私の力、また、望みであります。

アーメン。

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[1984-61] 「祈れない祈り」 水野吉治 2006/07/12(水)08:33

苦しみの中で、どうすればいいか、分からなくなったとき、「祈れない祈り」を祈りましょう。

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[1984-62] 復活の姿 水野吉治 2006/07/12(水)11:13

「祈れない祈り」、「信仰なき信仰」、「不安の安心」。
これこそ、復活の姿です。

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[1984-63] 余命一時間 水野吉治 2006/07/12(水)12:44

「余命一年」。
「余命一ヶ月」。
「余命一週間」。
そして、ついに、「余命一時間」となったとき、
さあ、あなたの信仰は?
あなたの生き方は?
あなたの意識は?
もう、「無の一点」に帰る以外にありません。

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[1984-64] あらゆることはメッセージ 水野吉治 2006/07/12(水)15:11

人生で出合うあらゆることは、「無の一点」へ帰れ、というメッセージです。

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[1984-65] 「無の一点」とは復活のいのち 水野吉治 2006/07/12(水)19:13

「無の一点」とは、復活のいのちです。

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[1984-66] 相対の地平 水野吉治 2006/07/13(木)10:43

「坐禅したら、健康によい」とか、「胆力がつく」とか、気分がすっきりする」などということは、坐禅を、相対の地平に、引きずりおろしているのです。

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[1984-67] 無の一点 水野吉治 2006/07/13(木)13:38

「無の一点」を、相対の地平に引きずりおろしたら、もやは、「無の一点」ではなくなります。

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[1984-68] 坐禅 水野吉治 2006/07/13(木)13:41

「無の一点」を、そのまま、「無の一点」として、受け取るのが、坐禅です。

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[1984-69] すべての問題の解決 水野吉治 2006/07/13(木)15:07

「無の一点」に帰ることが、すべての問題の解決です。

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[1984-70] 祈り 水野吉治 2006/07/13(木)16:08

祈りは、「無の一点」に帰ることです。

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[1984-71] 学問の迷信 水野吉治 2006/07/14(金)10:49

神学をはじめ、哲学、心理学、教育学など、「学」と名のつく営為の背後にあるのは、「人格」というものの存在の絶対性を前提にしています。
これは、迷信です。


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