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如是
1976年(昭和51年)法話 大智禅師仮名法語(2) 池部素子 2009/07/04

 「普勧坐禅儀」の初めに「原ぬるに夫れ道本円通」とあります。みんな「真理」だとか「道」だとかいろんな言葉を言われてありますけれど、唯一の本源、私たちが、また、森羅万象が生まれてきたその本源にあるもの、「道」の根本というものは、本当に円満な、一切を具足している。
そして、一つなんですから、お互いの間に何もかもが通じ合っている。
まあ、親子兄弟というと何もかもがいちばん通じ合っていますけれど、それはちょうどこういった唯一のものから出てきた象徴ですから、それでやっぱり通じ合ってるっていうふうな形で、みんな感得することができる。
この現象世界は一切が象徴ですから、どんなことも象徴として考えたとき、よく分かりますから。

 本当に唯一のものっていうのはそういうものだけど、「争か修証を仮らん。」
それだから、どんなふうにして修行しなくちゃならないとか、証果を得なくちゃならないとかっていう、そういう方法なんか別にないわけです。
何物によって修行したらいいか、お滝にかかって修行するとか、経文の勉強するとか、あるいはどんな学問をするとか、そんなことでもって得られるものではない。

 「自己のよりどころは自己のみ」というお言葉がありますね。法句経 でしたか。
ほんとに、己のよりどころは己より他にはない。

 そうすると、また人間は間違えて、「ああ、自分は自分しかたよりになるものは何にもないんだな」って、そんなふうに考えて、今度は、このまことにおそまつな、行き届かない自己、それをたよりに思ってしまって、また間違ってくる。

 ここに言われてある「自己」というのは、偉大な自己です。
唯一のものとイケイケになっている自己、それだけが本当によりどころである、っていうことです。
この私っていうものは、中に、私を生かしてくださっている偉大な自己がある。
その自己、宇宙いっぱいの自己。

 シャボン玉を、子どものころみんな吹いてる。
それをたとえにすると分かりますね。
シャボン玉っていうのを、よく吹いて遊んだ。
飛んで行きますね。
ほんと、かすかなシャボンの膜にくるまってフーっと飛んで行く。
その外も中も同じ空気でしょ。
ただパチンとそれがはじけたらもとの一つになってしまう。
この人間私の中にある、私を生かしてくださっている生命というのは、ま、たとえて言ったらそんなものですわね。象徴的に言ったら。
人間の心っていうものは、この生命の体というものを持った、人間の心になっているんだから。
生命の体です。
ちょうどシャボン玉のようにね。
体の内外は同じものでしょ。
同じ空気ですわね。
同じものだから、よりどころといって他に求めたら、求めることはできない。
他に求めるようであるけれど、一続きの自己なんだから、「自己のよりどころは自己のみ」というそういうことです。

○  ○  ○  ○

誠意の功夫こそ正精進  池部康白

 善悪は人意発動のところに起こるから、先ず一念の起こるところ如何を察するのが肝心である。

 従って、慎独自省は常日頃の実生活中が道場であって、求道上 の正精進ということになる。

 くわしく云えば、物事に触れて、一言一行までも、善念が起こった時には尊く思うて直ぐこれを為す、又若し邪念が起こった場合には恥じ悔いて直ぐこれを捨て去る。
斯ういう風に間断なく意念の働きを監視する。
これが誠意功夫で、最も至難の行持である。

 身の苦行では、大覚、大悟、大徳は成就出来ないけれども、此の意念の工夫では必ず天地神明の御心 と冥合し得て、神、佛如来の護助あるも必定とされ、一時実行しても一時聖人の地に進むと教えられる。

 それだから、当初から誠心あって切に求道する人は、身を殺して仁を為すと云ったり、生を捨てても義を取り、この道を得れば夕べに死すとも可なりと喜ぶのである。
これが求道の正業であり、正念であり、正命で、また正定ともなるのである。

 故に人間聖道を得たいと志を立つるならば、先ず従前の人慾我意を、自ら己が本心の前に懺悔し、誓って誠意功夫以て霊明に従順なるべしと、献身捨我を決意せねばならぬ。

 まことにまことに妄作は意にあり、災いは身に現成す。
己を救うものは己のみ。
怨訴して神、佛にも更に人にも頼りて能わずと思いて、必ず尤むることなかれ。

一九七五年(昭和五十年)法話(十五)結語 池部素子 2009/04/02

 「病気するじゃないか」って言うけど、病気はみんな自分が作ってんです。業が作ってる。「そんな恥ずかしい」って。
 生長の家あたりじゃ病気しても、こっそりお医者へ行く。講師の先生で、何とかいうかたが見えて、こんなことを言ったかたがあります。忘れたけど、阪急には、警察の特高みたいな、万引きや何か、それからいろんないけないことなんかした人をひっぱってくる、そういう課が置いてあるそうです。そこへ勤めてるかたでしたけど、「自分は、どことかが悪いんだ」って。「お医者へ行ってるんですけど、これ内緒内緒(ないしょないしょ)。恥ずかしいから」って言ってらっしゃったかたがありました。
 内緒なんかないんですよ。病気したら病気したで、その通り人に言うてたらいいんですよ。みんな顔に看板が掛けたるんだもの。それだからちっとも恥ずかしいことない。そして、ここは人間が気楽に行けるようになるところ。それだから、今ここで真理を得させていただいたそれを取り落とさないように一所懸命やらせていただきましょう。これからも折りある毎(ごと)に、また、お家でもやって行ってください。

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一九七六年(昭和五十一年)法話

大智禅師仮名法語 (一)

         池部素子

 道元禅師の「普勧坐禅儀」の初めに、
「原ぬるに夫れ道本円通、争か修証を仮らん。宗乗自在、何ぞ功夫を費さん。況んや、全体はるかに塵埃を出ず。誰か払拭の手段を信ぜん。大都、当処を離れず、豈修行の脚頭を用うる者ならんや。然れども、毫釐も差あれば、天地懸に隔り、違順纔に起れば、紛然として心を失す。直饒い、会に誇り、悟に豊かにして、瞥地の智通を獲、道を得、心を明めて、衝天の志気を挙し、入頭の辺量に逍遥すと雖も、幾んど出身の活路を虧闕す。矧んや、彼の祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見つべし、少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名 尚聞こゆ。古聖既に然り、今人盍ぞべんぜざる。所以に須らく言を尋ね語を逐うの解行を休すべし。須らく回光返照の退歩を学すべし。身心自然に脱落して、本来の面目現前せん。いんもの事を得んと欲せば、急にいんもの事を務めよ。」
とあります。
 みなさん、ここんとこ位は、よおく噛みこなして自分の血肉にしてしまうように。そしてまた、毎日いっぺんでも、これをよくご覧になってください。お経文みたいに、ただ「爾時世尊。従三昧安祥而起。」って口の先だけで言うんでは何にもならない。これでも、同じことです。自分が、よおく、それをうなづいて、腹の底からうなづきを深くし、それを行持にもって行くように功夫をしていただきたい。そうしないことには何にもならないですから。「何か難しいことが書いてあって、字を見て聞いてると、なるほどなあ」っていうだけではならないですから。
 そこんところを祖師方がいろいろにおっしゃってあるけれど、お言葉の表現は違ってても、おっしゃってある意味は、みんな同じこと。唯一の真理っていうのは何だ、って。人間はそれに向かってどういう姿勢をとったらいいのか、って。そしてどうなるのか、って。そのどうなったものを、今度はどういうふうにこの地上に生きたらいいのか、って。それだけのことですから。
 ちょうどここんところ、私はちょっとこのごろ目がうっとしいもんで、小さな字は読むのに苦労しています。「禅門法語集」のいちばん初めにある大智禅師の「十二時法語」って前にやりましたね。あの大智禅師がお書きくださった「仮名法語」はたいへんやさしくて、さっき「普勧坐禅儀」の初めを読ませていただいた、そのことをたいへん分かりやすくおっしゃってくださってあるから、そして短いですから、これを今日はやらせていただこうと思います。
 これを拝見していると、「正法眼蔵随聞記」の中にあるお言葉がまた適切だからと思って、あっち見、こっち見してると、次から次と枝が出てきてきりがない。どれをお話ししたらいいかなと思ったけど、結局この「禅門法語集」の大智禅師の仮名法語がいいなあと思うことになりました。また、この「曹洞宗青年聖典」の六十三ページのおしまいのところ、ちょっと開けてみてください。「一日示して云く、古人云く、」というここのところは「随聞記」のお言葉です。ここはよおくまた、めいめいで。いっぺん「随聞記」やってありますから。そして六十四ページの「衆の少きを憂うること莫れ。身の初心なるを顧みることなかれ。」と、ここの節と、ここだけまたよおくご自分で噛みこなして、うなづきを得ていただきたいと思います。岩波文庫「正法眼蔵随聞記」では六十六ページの四と五です。ここんとこまたご自分でお読みください。


生命の叡智   池部素子 2009/03/19

一九七九年(昭和五四年)法話(十四)

 それだから、地上圏をくるんで空気があるから、地上に生きてるあらゆるものが生かされている。

 太陽の光もそうですわね。
「誰にはいやだからやらない」
とは太陽は言われない。
黙って照ってるでしょ。
これ照りっぱなしだったら大変ですよね。
それだけど、昼と夜とがあって、半分は夜だから眠ることができるし、その間にまた空気が新しくなるし、人間が生活に夜と昼のいい姿の中で生存させてもらえる。
夜ばっかりだったらまた大変でしょ。

 それだけど人間の心・意識っていうようなものは、ほんと、真理に触れなかったら、これ暗闇ですよ。
暗闇の中で生きているから、お互いに闇の中手探りで、だれかにぶつかったら、向こうが
「人にぶつかってきた」
って怒るでしょ。
お互いが
「なんだい、人にぶつかってきて」
って言うのが暗闇の生活ですわね。
太陽の下で暗闇の生活してるんです。

 それだから、真理に縁ができたっていうことは、非常に有り難いこの上ない祝福を、今生で得させていただいたわけです。
だから、それを取り落としてはならない。
「ここでせっかくいいことに逢えたのに、取り落としてはならない。
命のある間にそれを成就せよ」
っていって、いろんなご本、真理の本に書いてあります。

 お釈迦様の教え、りっぱな教えっていうのは、仏法っていう何か特殊なものが、コロッとあるんではない。
科学とか国語とか医学とか何学っていってあるように、宗教学というものがあるんではない。
宗教も、宗教学という名前で言われたら、もう学問的な組織の学問になっている。

 宗教として、釈迦がお説きになったのは、何をお説きになったか、って。
一体人間て何だ、って。
ここへ生まれてきた人間は何だ、っていうこと。
人間の本体は何か、っていうこと。
そして、この地上生活をどうしてするのが人間の道か、っていうこと。
それが説いてあるのが、仏教なんです。
釈迦の教えなんです。

 死んでから極楽行きの特等切符を、坊さんに買ってもらうために、説かれたんと違う。
極楽行きの特等切符なんてことはどこにも書いてないですよ。
「お寺にお供え持ってけ」
とか、そんなようなことは書いてない。

 何が書いてあるか、って。

 神の愛と智慧が、すばらしいこの大宇宙を生んで、星と星は衝突することないでしょ。
地球も、どことも衝突しない。
幾十百千万億年、こうやってまわってますわね。
針の先だけ違ってても、幾十百千万億年のうちに必ず衝突の場所がどこかにできますわね。
それができないで、美しいこの大宇宙の運行を司らせているのは何の力か、って。
それは生命の叡智なんです。
生命っていうものの智慧。
宇宙いっぱいが一続きのもの。
科学者でも
「大宇宙っていうのは一つの生きている一個の生命体だ」
って言ってます。
そこまでは科学でも分かる。
その一個の生命が、叡智という限りない智慧でもって造った宇宙だから、何物も衝突しないということ。
人間も、こうやって寿命の間は完全に生かされている。

○  ○  ○  ○

偉大なるわが主たる本心(個別心でない神心)に帰れ   池部康白



 本心(神性、佛性)は、宇宙の真心と不可分一体であるから、宇宙の大心霊をわがものとして、これに作用しその力を使用する偉大な存在である。

 しかるに我意慢心の小人は、この心を、自分の本心だ、我が実相心だと、個別の心のように考えている。
而も、彼の現在意識たる我意では全く知られていない宇宙普遍の大心霊と一つもので、即ちわが神であることすら知らないのである。

 若し本当に知り得たとすれば、我意なる現在意識に対して、懺悔せしめ、不断に誠意功夫を要求する謙遜な念いが生ずる筈で、これが最初の真理への目覚めである。
のみならず、自覚とは、此の実相の神なる人間に目覚めて、真実本心の御前にあっておそれかしこみ、御心に叶うためにのみ、祷りに祈りぬくほどの誠意ある精進生活が日常になくてはならぬ。

 大体人生のあらゆる不幸は、この本心の霊明、その全智全能の御力を遮り隠蔽している罪から発生しているもので、それは、人意人慾に囚われている人間の無智無明の我意妄念から来るのである。

 すべての不調和不幸の根柢には、必ず此の我意我慾の無智が横たわっているから、誠意功夫が此処に必要となり、殊に求道上には欠ぐべからざる最重大なる行法とせられているのである。
而も、これは健康についても、財を得るについても、本心を表面に顕現して、本来の面目を回復すれば万事に好いのである。


1979年(昭和54年)法話(13) 2009/01/27

真理の探究
         池部素子

 それでも、こういう世界に生きている人は、こういうところにばっかり首突っ込んで、学問ていうことで、一生終わってしまう人でしょ。それだから、真理っていうほうには疎(うと)いけれど、真理に少しでも縁が出来るようになってくる、っていう人もあります。やっぱりまあ、講演会で大きな公会堂に千人集まって、とてもすばらしい聖者の真理のお話を聞くとしましょうか。そしたら、その中の何人が残るか。あと、「ああ、今の話はよかったなあ」と言う人。あるいは「あんな七面倒(しちめんどう)くさいことは、自分らには用ない」って言う人。「ああ、今のお話よかった。あの方(かた)の本を何か探して、もっと買って読みましょう」とか。「またお話があったら聞きたい」とか。そしてご本読んだら、それが取っつきになって、いろいろまた真理に深くなって行くとか。みんな違いがありましょう。その違いはどこから出てくるか。
 人間は、なんでも、「どこから」っていうこと、「何」っていうこと、「どうして」っていうこと、そういった疑問ていうものをいつも持って物事を深く詮索(せんさく)して行くのが、真理の探究です。
 小さい子どもはそうでしょう。四つ五つ六つごろまでは「あれなあに?」って言って聞きますわね。ほんと、もう親が困るほど聞くでしょう。「何でも聞いてうるさいね、この子は」なんて言うけど、とんでもない話ね。親切に教えてやらなくちゃいけない。
 「お星様はなぜ落ちてこないの?」なんて言われたら、親が困っちゃうけどね。それでも何とか言ってやらなくちゃいけない。そんなときは、「あれは空の花なんだよ。地面に咲いてるお花が、空に上がらないだろう? あれは、空で花が咲いた、ってみんなが喜んでるんだよ」なんて言ってやったら、「ふうん」て言って聞くでしょう。そうすると、そんな子はまた、詩をだんだん頭の中で養って行くような詩人になって行くかも知れないし、いろいろ言い方があります。そんなふうにして、何も科学的に「あれは地球と同じものなんだよ。別に不思議はない」なんて、子どもにそんなことは言われないでしょう。
 そんなふうに全部がこれ真理の姿なんです。
 みんなそんなふうにして、この地上に、生まれ変わり死に変わりの年数を、幾十(いくじゅう)百回、何千年の間に、繰り返してるんです。その繰り返しが多くて、そしてだんだん経験を積む。経験だけが人世(じんせい)の智慧(ちえ)を生んで行くんです。そして、もうおしまいに人間は人世のやりとり世界の経験にあきあきしてくる。「つまらないなあ。何かもっといいものが人間にはあるんじゃないだろうか」って。そういう気がひょっとしてくる時に、真理っていうものに取り付きたくなってくる。
 そうなってきた時に、ここは波の世界、波動の世界でしょう。波は、こう一続きになって寄せて返して行く。この、お互いの話が通じ合うのもこれ、ここに空気の波があるからでしょう。「そりゃ空気の波があるもん」て言うけれど、目に見えないでしょう。それに伝わって行く。不思議なものが。心がここにいっぱいになってるわけです。命が。一切を生んで行く姿が。

○  ○  ○  ○

本心の前に懺悔(さんげ)せよ 
 (捨我献身(しゃがけんしん)せよ。
  意根(いこん)を断(だん)ぜよ)

池部康白

 物質界のこの現実生活において成功しているほどの者は、習心(しゅうしん)に自(みずか)ら利根(りこん)にして智慧(ちえ)ある者の如(ごと)く任(にん)じて、多くは慢心(まんしん)の得意(とくい)をもっている。これは我(が)の意念(いねん)である。求道上(ぐどうじょう)には非常な障礙(しょうげ)となるものである。
 何故(なぜ)といえば、本来求道の実践は捨我(しゃが)の工夫(くふう)にはじまるもので、仏説(ぶっせつ)の所謂(いわゆる)四無量心(しむりょうしん)(慈悲喜捨(じひきしゃ))に相当し、仕事に物事に環境に境遇に、生命を捧(ささ)げ尽くすことである。要するに無我愛の実践で、我(が)の意慾を正念(しょうねん)に復(かえ)し、誠意たる清浄心(しょうじょうしん)にする工夫である。
 従って、捨てると生かすとは一つことで、我意(がい)の穢(けがれ)をそのままにして無念無想になれば、只(ただ)懸空虚寂(けんくうきょじゃく)を養成するに過ぎない。また、人によっては憑霊(ひょうれい)現象ともなって、善縁(ぜんえん)に恵まれない者は遂(つい)に魔道(まどう)に落つるであろう。
 真実存在する本心は、霊智的大生命の分霊のみであって、人意(じんい)は単に非存在のこころである。しかも、それは皎々(こうこう)たる明月(めいげつ)にとって雲が無いのと同じである。
 キリストの天の父は、基督(きりすと)の偶像であり、同時に基督(きりすと)自身であったように、神は人間を創(つく)り給(たも)うたが、人間も亦(また)神を造(つく)ったのである。それは、「汝(なんじ)の信仰汝(なんじ)を救えり」の意味で、阿弥陀仏(あみだぶつ)は釈尊(しゃくそん)の理想我(りそうが)の投映(とうえい)である。
 こうして、偶像(ぐうぞう)は自己そのものであり、自己は即(すなわ)ち偶像である。従って、もはや祈るのではなく、父なる神仏に語るのである。
 すべて五官の世界は象徴(しょうちょう)に過ぎない。捉(とら)えがたきものを、象(かたち)をもって徴(しるし)とした芸術の世界である。


1979年(昭和54年)法話(12) 2009/01/27

念と言葉
         池部素子

 そう思ったら、生命がいっぱいになっている。生命というのは、言葉によって伝わって行きましょう。それだけど、言葉以前の思いが、先に伝わりますね。いやな人と二人座ってたんだったら、どっちもが「きらいだ、いやだ」と思ってたら、そこで話す言葉は、お世辞(せじ)的なことを話していても、おもしろくないですわね。それだけど、親しい人とだったら、何でも言う以前に通じますわね。
 「まあ、よう来てくださいました」って言わないでも、目を見たら、もう「よう来てくださったわね」っていうことが思われて、そして向こうに通じますね。それだから、言葉でないものもこれ全部、この地上は言葉なんです。
 それだから、道を散歩しているとき、道の草の葉っぱが揺れてるとしましょう。そうすると、「ああ、私が今ここまで来たから、あの葉っぱさん喜んで今揺れてくれてる」って、そういうふうに読めるようになってきましょ。そしたらうれしいですわね。たしかに、喜んでくれてるから揺れてる。「ああ、あそこ風が吹いてんだもん」て言うのは、まことに人生殺風景ですわね。
 そんなふうに、この地上は波動の世界だから、何もかもが、言う以前から言葉である。そうすると、言うてしまったそのあとのもの、やってしまったそのあとのものも、言葉の滓(かす)ですけれど、そこへ残っているわけです。そうすると、こんなものは「言葉の滓」とは言わない。「言葉の結晶」です。これは、だれかが作った愛の結晶がお茶碗になって、ここに送られてきてあるわけ。
 手で掬(すく)ってお茶飲まれませんわね。手の間から落ちるし、熱いし、いただけないでしょ。それはどこかでお水飲むんだったら、こうやってしゃくって飲めるけど。下にしずくが落ちますけどね。こういうのは、やっぱり人間がこうして飲んだ。これはこの格好(かっこう)でしょ。そういうふうに、だれかがこういう焼き物っていうのをちゃんとこしらえ上げて、そして後々(あとあと)の人のために、こういうものを作ってくれた。その念ですわね。
 「念」ていうのは、「今の心」と書いてあるでしょ。「今」っていう字、今日(こんにち)の「今」っていう字を書いて「心」をくっ付けたら「念」ていう字でしょ。そういうふうに、人間の「今」思っている心が「念」となる。昔の中国の字は、みんないい字です。「今」の心が「念」というものになって、そしていろいろの形を生んで行く。また、言葉を生み、行いを生み、思いを生み、思いを生んだものは、文章なんかになるでしょう。
 それから、言葉を生んだものは、人に喜びを与え、あるいは、憎しみを与え、そして、行いに現れたものが形を生む。そんなふうになって行く世界です。みんなこれ念ていうもの、言葉ていうもの、思いていうものが、ここに顕現(けんげん)して来てる。こういったようなものでもそうですわね。人間の学問の結晶がこういうものを生んでくれたでしょう? そんなふうになって、人世(じんせい)ていうのはだんだん発達して行くもの。
 それだから、精神も共に、やっぱりどこまでもどこまでも向上して、真理の奥殿(おくでん)にまで登らなければいけない、っていう、それが象徴なんです。

○  ○  ○  ○

内外打成一片(ないげたじょういっぺん)の功夫(くふう)について

池部康白(こうはく)

 私意未発(しいみほつ)の時、無我無念(むがむねん)の時、只(ただ)一心で、どこにも偏寄(かたよ)らず、心澄み切って一塵(いちじん)無い其(そ)の時、天地と我と一体ではあるが、人間平常(びょうじょう)の習慣の心というものが有って、意念上(いねんじょう)穢(けが)れていることもある。
 従って、儒教(じゅきょう)などには、特に日頃(ひごろ)の実生活上に於(お)いて、格(かう)、致(ち)、誠(せい)、正(せい)、修(しゅう) を以(もっ)て、本性(ほんせい)の実相(じっそう)に帰る功夫(くふう)としているのである。
 勿論、仏教にも、成仏(じょうぶつ)の因(いん)として、菩薩行(ぼさつぎょう)の六度(ろくど)を説(と)いてあるが、禅家(ぜんけ)などは、只(ただ)、静坐禅定(じょうざぜんじょう)ばかりを強称(きょうしょう)して、さもたやすいものの如(ごと)く思わせるから、学解(がくげ)の軽輩共(けいはいども)は、日蓮上人(にちれんしょうにん)の言われたように、禅天魔(ぜんてんま)の境界(きょうがい)に堕在(だざい)する増上慢(ぞうじょうまん)が多いのである。彼らは、もとより誠意省察(せいいしょうさつ)の不足に気付かぬほど、我意慢心の(がいまんしん)軽率(けいそつ)な党類(やから)ではあるが、神に仕(つか)える道は、人に奉仕することにあるとも悟(さと)ってはいないのである。一如法界(いちにょほっかい)、人間の実相は神であるからに他(ほか)ならぬ。
 この実相を真実見えたら、人法(にんぽう)無しで、五蘊皆空(ごうんかいくう)もわかり、自高我慢(じこうがまん)の妄想(もうぞう)も消える筈(はず)であるのに、因縁次第(いんねんしだい)は仕方のないものである。
 利根(りこん)の人は、世にも亦(また)遇(あ)い難(がた)し。捨つべき者は捨て切れ。時を消費するは、自(みずか)らの生命をむだについやすことなり。
 想(おも)うに、自然万有(ばんゆう)を離れて神があろう筈(はず)もなく、自然万有そのものが神という訳(わけ)ではない。しかし、神を敬(けい)する心が一神教となり、神を愛する心が汎神教(はんしんきょう)ともなる。
 要(よう)するに、自分の心に清浄本然(しょうじょうほんねん)の誠意功夫(せいいくふう)によって神を見ることである。

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