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如是
一九七九年(昭和五四年)法話(六) 2008/08/15

人世は真理のことば

         池部素子

 親が自分の理想を押しつけて、みんな、小さな幼稚園時代から、やれピアノだ、やれ何だっていって、そんな習わせなくてかまわないようなことまで、
「お隣がピアノ教えてもらってるから、うちも教えてもらうようにしなければ、お隣に負けるから」
って。
そういった競争意識があるでしょ。

 自動車がここにだんだん入ってきた頃、西能勢のある方が、りっぱな自動車に乗って、うちへ来はりました。
おもてにとまったのを見て、そのころはあまり見かけないようなりっぱな自家用車でしたから、私は
「おりっぱなお車ですね」
って言いました。
そしたら
「へい、買いましてな」
って、大得意なんですよ。
「近所がみな買いよったさかい、うちとこも買いましたんやけど、みんなに負けんようなのを買わんならん。
けったくそ悪いさかい」
って言うてはりますの。
私は返事に困っちゃって、ただ黙ってニタっとしてました。
そんなで、「負けちゃいけない」っていうことです。

 それだけど、それをもう一つ裏返して考えたら、この人世の姿は、みんな真理のことばなんです。
「負けちゃいけない」っていうのは、真理の歩みが、人より遅れてはならないっていうこと。

 自分は、もっともっとりっぱに歩かなくちゃいけないっていう、そこに人間の欲っていうものがからんでくる。
「人からよく見られたい」
っていうそういう気持ちが、いい車買うっていうことになってくる。
考えてみたら、何でも自分の思うこと、言うこと、すること、みんな欲です。

 なぜ人間に生まれてきたか。
考えたら、人間てあんまり楽しいもんじゃないですわね。
これ終点に行って、人世さようならの時になってから、そろばん入れて差し引きしたら、たぶん、つらかったっていうほうが多いだろうと思います。

 みんな真理を生活したら、まことにけっこうで、楽なんです。
それが、そういうふうにならないのは、貪欲と瞋恚と愚痴、この貪瞋痴の三毒、三つの毒のためです。

 受食五観の偈の
「三には心を防ぎ、過を離るることは、貪等を宗とす」
と言いますね。
心と身の過ちを離れるのは、貪欲、瞋恚、愚痴、その三つを気をつければいい、っていうこと。
人間は真理に触れないと、その三つがわからない。

 人間がこの世へ生まれてくるのは、前の世に積んだ業を消すために出て来るんです。
それで消して、そのまま感謝で死ねたら、人間は、次はまことにけっこうになり、そしてだんだんすばらしいことになって、お釈迦様のお位まで昇天できるんだけど。

 たとえば、前の世でりっぱな暮らしをして、そして、子どもでも、召使いに育てさせて、自分は気楽に暮らした、って。
それで、死んだ、おしまいになったんだったら、この世で何を勉強したでしょうか。
何にもしてないでしょう。

○  ○  ○  ○

随処為主(偽我慢心)

「吾が神 、仏の吾」

池部康白

 神の中に自分を見い出すと、大悲無倦常照我となる。

 良寛さんの歌にも、安エ門さんの歌にも、悟道のひびきがあるから、読んで楽しい。
更に、自分のものとして変えて見ると、また面白い。

「見るわれも 見らるるかれも諸共に
如露亦如電 応現如是観」

「渡しにし この身なりせば今よりは
往くも帰るも 弥陀のまにまに」

「なにもかも 水の流れに捨ててゆく
そのひたぶるの いのちおろがむ」
と。

又安エ門さんの、
「俺の目が 一銭見付け一銭も
俺をみつけて 助け合いけり」
などは、本当に尽天尽地が尽神だ。

「朝々の 日ノ出の心大空の
広きに似てか 自他の消えゆく」
一如体得の心境だナア。
世俗の我執は来てくれるなよ。

「人を見ず 神にむかいて話しかく
嬉しきものは ひとりにてあり」
静かにして神の芸術を見るとき、めくらが来て、而も見えるようにものがたるのは、一番こまるのである。
陽明先生も、
「見得て真なる時、すなわち戒慎恐懼是本体」
と云って、心につつしみあり、へりくだる者のみに与えらるるのが知であると教えておられる。

 誠意無き者は、知は他人に示すものと思って、些かの読書によって慢心して了うが、彼は彼だけでよい。
各々分限の及ぶ所に随うべきであると知ったのである。

 自分は人格の香り高い絵を描こう。
勇敢に、主観的で独創にあふるる表現をしよう。
他人はめあてにせず、無打○(判読不能。「算」か?)に、只如来に呈する絵を描こう。


一九七九年(昭和五四年)法話(五)  人世というところ 2008/06/22

         池部素子

 人間の幸せっていうのは、とにかく、まず健康と物質、それが豊かであったら幸せということに、一応思ってるから、「どうぞ幸せになりますように」って言ったら、お金と健康でしょ。

 そんなこと言うても、いっとうおしまいには死ぬんでしょ。
この上なく不幸になってしまうことが、死ですわね。

 生まれてきたら、「おめでとう」言いますわね。
「おめでとう」って言うけど、ずうっと考えてみたら
「赤ちゃんが出来まして、葬式が一つお増えになりまして、お大抵じゃございません」
て言ってもいいわけでしょう。
同じことですわ。
ちょっとの時間、年月を隔てたら、
「お宅様、またお葬式が一つお増えになりまして」
と言っても同じわけだけど、そんなこと言いませんわね。

 やっぱり生命が誕生したんだから、祝福するでしょう。
そしたら、その祝福にふさわしい生涯を送っていかなければ。
初めにみんなから「おめでとう」って言って喜ばれたのは、みんな、この地上の生活を、本当に神さながらのいい生活にして行くから、そこを祝福し、みんなに「おめでとう」と言って期待をかけられているわけなんだから。

 ほんと、この人世っていうのは、そういうところなんです。
ほんと言ったら、この上なく有り難いところなんだから。
それをみんな、いけないふうに向けて行くのは、人間の欲、それから腹立ち、それから愚痴。
貪欲(とんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)と言いますね。
その三つの心が、小さい赤ちゃんが、おぎゃあと生まれてから育って行く間に、段々段々、親から、周囲から、見せられ聞かされして、そしてそういうものが身に付いていって、そして欲と腹立ちと愚痴と、そういうものが人間のやり取り世界の常識になって行く。

 「あの人は常識のない人だ」っていうと、何かそういうものが欠けているということ。
相手との間にうまく取り引きのできる人が常識のある人ということになってくる。

 そうすると、まあ、自分の気に入らない人と出合っても、ニコニコして、上手にあいさつができたらいいということになってましょう。
気に入らない人だったら、別にそんな気に入ったようにしないだってかまわないでしょう。
それだけど、やっぱり世間はそれでは通らないから、しんぼうして、いいあいさつせんなりませんわね。

 そういうふうに、この世ばっかり見てたら、人世っていうのは、まことに窮屈なところですわ、本当は。

 それだけど、その窮屈は、縛られてるようなもの。
犬や猫をくくってあるのといっしょです。
それだから、子どもでも、「勉強をし、勉強をし」って、このごろは、親の理想を子どもに押しつけて、やらせてるんでしょ。
もう、幼稚園時代から、二十年間ぐらい、くくられてますか。
五つ六つから二十五六まで、それだけの間、責められ通して、勉強、勉強で。
それだから、もう、やっとホッとして、社会へ出た頃には、ほんと融通の利かない、つまらない、了見の狭い、それでもって、何か偉そうにしている、妙な人間になっている。
そういう人間がこのごろは多いでしょう。
そういう人間ができてしまう。
そういうことになって行く。

○  ○  ○  ○

尽天尽地(じんてんじんち)生けるなり
「神の中、佛のふところ」

池部康白

 生ける神は、吾が内に在(いま)す。
外に求むる愚を止(や)めよ。
今日残存する神社仏閣は、却って人を誤らせ、躓(つまず)かす。

 真に価値発見の最大なるものは、真の我(われ)なるものの実相を発見することである。

 従って、今日(こんにち)は、孤立の宗教家や思想家のみが、民衆の指導原理を知っている時代である。
寺や宮には宗教は無い。

 釈尊もキリストも孔子も陽明先生も、すべて宗教の開祖たちは、人間なるものの、或いはこの宇宙の、真理を教えようとして来た人ばかりであったのだ。

 試みに自己発見の正道(しょうどう)を精進してみよ。
求道(ぐどう)正しく発見出来たら、そのトタンに神が誕生する。

 宮崎安エ門さんの歌に、
「キリストも仏陀も今は忘れはて
  独り遊びにわが夢を見る」
と。
まことに朗々たる人生ではないか。

 神はわが主体、わがいのちにて在(いま)す。
佛子観世音菩薩の妙智力、わが本体実相である。

 而(しか)も、世間の知識は、事々物々(じじぶつぶつ)の現象のみに尋討(じんとう)し去る。
それ故に、根本無き学問であり、時代と共に流れて、日進月歩なるが故に、或る時は昨非今是(さくひこんぜ)、決して久遠(くおん)不滅の真理とは云(い)えない。

 加之(しかのみならず) 、色即是空の真理の前には、夢幻の雲影(うんえい)に過ぎないと知っては、只(ただ)目前の肉体生活が目的であるばかりである。
而(しか)も、人間生活はそれだけで果たして幸福であり得るであろうか。

 さもあらばあれ、今日生まれた小児も、百年すると、一人のこらず地上から影を没して了(しま)うのだ。

地上生活は借り物 2008/05/11

一九七九年(昭和五四年)法話(四)
                            池部素子

 やがて、いつのまにか、今度は緑のカーテンに変わりました。
緑っていうのは、くつろぎの色でね、大自然は、これから緑が芽ぐんできますね。
これ、春の芽ぐみが赤だったら、どうでしょうか。
真夏になって、いっそう赤い色がいっぱいになり、そこへお天道様が照ったら、人間、全部気が変になるかもしれない。
緑はくつろぎの色だから、夏なんか、その緑の茂ってる下でそよ風でも吹いてきたら、ほんとホッとしますわね。

 そういうふうに自然の配剤っていうのは、まことにうまくできている。
この上なく調和して、人間を安らかな状態に置いてくれるようにできていましょう。

 空気でも、
「この人間は気に入らないから、空気をやらないでおく」
なんて、そんなことを言う神様ってないでしょう。

 神様っていうのは、妙見さんがある、伏見さんがある、やれ、鬼子母神があるとか、何様があると言うて、みんな思ってますわね。
それでそういうところへ行って、一所懸命お願いごとしましょ。
まあ、おそらくは、だれでも、ご本尊て知らない人でしょ。
とにかく知らない神さんていうか、何か神さんていう大きな違った力があるお方のように思って、そして頼むでしょ。
それだけど、見たことない人でしょ。
人間でも、見たことない人に頼みごとできますか。

 そして、やっぱり人間のような、頼みごとを聞いてくれる人だったら、あっち向きこっち向き、いっぱい頼みに来て繁盛してたら、どこのだれが言うことを聞いてやっていいか、とにかくお賽銭の多い人に先聞いてやらなくちゃならないてことになってくる。
「これはお賽銭が十円玉より上げてないから、頼みごとを聞くのをやめておこう」
てことになるかも知れない。
それでも、そんなことないでしょ。
「只匁(ただもんめ=無料)」で言っても、お賽銭はしなくても、一所懸命まごころでお願いしたら、聞いてくださるでしょう。
何が神仏に通じるかって言ったら、まごころが通じるんだから。

 お金っていうのは、人世の生活の便宜のためにいただいてあるものだから。
何もかも神様からいただいたものですよ。

 天理教祖が、
「一切のものっていうのは、人間が地上生活する便宜のために、貸してある」
とおっしゃってある。
「衣食住の何もかもが、貸してあるんだ」
って。

 この人間自身でも、この地上生活は、お客に来たところと思わなければ。
お客に来たと思ったら文句ないですわね。
「ここは自分の家だ」
って、そう思っているから、大きな顔して、気に入るとか入らないとか、いろんなことが始まってくるでしょ。

 そうすると、今度は親の財産を、子どもが分け取りしなくちゃならないみたいなことができて来ます。
それはみんな、人間の欲っていうものが人世の生活を苦しくしたり、心配にしたり、あるいは、幸せにしたりするのです。

○  ○  ○  ○

絶対界と相対界の弁
「平常心是道(びょうじょうしんぜどう)の誠(まこと)」

池部康白

 本心は至善であっても、人慾の一念に発動すれば、善悪を分かつ人意となる。
実在は、絶対の一元であって、大調和であるが、人間の無明妄念に発動すれば、相対的に現象して、善、悪となる。

 従って、人は各々、自分自身の意行次第で、自分を救いもすれば、不幸にもする。
だから、誠意、即ち、まことのこころが人格と行為の上に築かれなければ、人生生活を価値なきものにして了う。

 本来、肉体なるものは、そのまことを行じて培(つちか)う苗床(びょうしょう)とするほかは、ねうちあるものではないのに、多くは、肉体から発生する人慾の我意に使役されて、本心の佛性を隠蔽して、聖なる部分を見失っているのである。
故に、三界を超出できないばかりでなく、その人慾煩悩が苦難を招き、不平愚痴の闇に自分自身を突き落としている。

 人は、平常(びょうじょう)に於いて、正念誠意を相続していないと、到底佛果は得られない。
我執のとれない世の中をのみ重く見て、物に憑かれている者に、この本心の声を聞き弁(わきま)える智慧は開いて来ない。
従って、本当の自分というものが何であるかさえも、真実にはわからないものであるから、信心と云えば、神と人との関係を指したものと思っている。

 然し、宗教とは、自己発見ではないか。
現在の宗教は、単なる拝み屋商売で、方便時代の残糟(ざんそう)であり、死物であり、伝統の形式も亦ミイラに過ぎない。

 若し誠意あれば、人慾を離れてみよ。
必ず、神が人となった自分なるものを見ることが出来るであろう。
更に、無我体得したら、天に於いて歓声を聴くべし。

思いというベール 2008/04/22

一九七九年(昭和五四年)法話(三)

         池部素子

 中国の文字は、ほんとにうまくできています。
形象文字といって、形を象徴しています。

 「魚」という字なんか、ほんと、魚みたいなかっこうに書いてありましょう。
上が、これ、あたまです。
そして、まん中のこれは、うろこのはいったところ。
下のチョンチョンは、あれ、しっぽです。
ね。ちゃんと魚のかっこうに、文字ができている。

 「山」っていう字でも、こうなって、地平線に、こうなった山があるというんです。
形とそのことばとに、みんな意味があるわけ。

 この人世は、何もかもが、みんな意味があるんです。

 意地の悪い人が、なんか意味深(いみしん)なものの言い方をする、そんなのは、その人の意地悪が、そこに本当の意味深っていう、真理にベールかけてるから、悪くなって響いて来るんだけど。

 ほんとは、これ全部真理の象徴の世界なんです。
ここは、真理だけが生きているところなんです。

 人間は、生まれてから、オッパイを飲むときは、十人、百千万人いても、みんなおんなし飲み方するでしょう。
「この赤ちゃんはこんな飲み方だ。
これは違ってる。
そんな飲み方より、この方がいいよ」
っていう子どももいないし、もうあてがわれたら、おんなしように飲みますね。
それは、もう、生命そのものの、ここで生きて行く第一歩の姿でしょ。

 そして、お腹が空いたら泣くでしょ。
泣くのも、空いたらみんな泣きますわね。
空いたけど泣かない、っていう子もないし、泣く代わりに笑う子もないし、涙こぼす子もない。
みんなおんなしやり方している。

 それが、今度は、育って行く間に、だんだんと、脇(わき)から教えられる、その教え方で、だれもかれも、性格っていうものが形作られて行く。
それだから、十人十色の性格ができて行きますね。
子どもはみんな、ほんとに新鮮で、無邪気で、眼なんか、ほんと、もう、この上なく、宝石よりきれいですわね。
眼は心の窓、っていうからね。
ほんとに美しい、汚れのない眼 をしているけど、大人になるとそうは行かないですわね。
だんだん人世の物思いに、眼も、うっとしくなってくる。

 そんなふうに、すべてが新鮮なんだけど、人間の思いというものが、その新鮮さにベールをかける。
まあ、光で言うたら、光が丸出しだったら明るいけれど、そこへ黒いベールや青いベールや赤いベールかけると、周囲の色が違って見えますね。
それといっしょです。
それで、人間みんな、雰囲気というのが大事なわけ。

 いつも腹立ってる人は、赤いベールかぶってるんです。
夏なんかに、赤いカーテンでも引いてあったら、気が変になりそうですよね。
東京で市電が走ってるころ、初めてカーテンつけるとき、だれの発案かしらないけど、赤いカーテンつけた。
私も、学校へ行くとき、電車で通ったでしょ。
帰りなんか、電車が満員になってきて、もうそこへ日が照ってくると、気が変になりそうでした。
自分だけかと思ったら、そういうふうなこと、みんなが言うたんでしょうね。


○  ○  ○  ○

誠意無き者に得道(とくどう)無し親近(しんごん)すべからず

池部康白

 体験から云(い)えば、読書誦経(ずきょう)によるよりも、誠意と慈悲仁愛の心を以(もっ)て、他の悩みに同情して、これを同化することが出来たら、霊智霊力は、愈愈(いよいよ)開けて来るように感ぜられる。

 これは、真実、神が愛であり、佛は慈悲であり、天は仁である宇宙の心に共通する誠意だからに相違ない。

 それは、また、人間の内外に充満、在(いま)さざる処(ところ)無き神の愛が、悩める人々は斯(か)くあらしめたいと、救いの御心(みこころ)で待ちのぞんでいられて、其処(そこ)に結縁(けちえん)を求めつつ、見守っておられるからだと考えられる。

 至人(しじん)の、神に祈る誠意は、斯(こ)うして速やかに実現するものであろう。
故(ゆえ)に、神、佛の本願力が、既に、誠意の人の身辺には、ただようて在(いま)すことがわかる。
従って、人格に於(お)いて、誠意ほど大切なものはない。

 禅定(ぜんじょう)の工夫に於(お)けるも、意念を正しくすることであり、また、身・口・意(しんくい)三業因(さんごういん)の本(もと)も、意行(いぎょう)が先ず第一である。
本心は、もとより静寂光(じょうじゃっこう)であるが、動いて人の意となる。
故(ゆえ)に、この最初の行(ぎょう)が大事な正精進(しょうしょうじん)の工夫となるのが道理である。

 まことに、誠意無き我執(がしゅう)ほど穢(きたな)い根性(こんじょう)はない。
我執は、他を使う事を好み、他を賞(ほ)めることより、欠点を噂(うわさ)したがり、他の成功をそねみ、ねたみ、時には恨(うら)めしくも思い、他の失敗を喜びたがる癖がある。
斯(こ)ういう人意(じんい)には、決して見神見性(けんしんけんしょう)は出来ない。
結局、我意(がい)を放棄する以外には、得道(とくどう)は無いからである。
誠(まこと)は天の道なりと謂(い)う。

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