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55 旧約聖書申命記10章1節〜12章31節 2008/09/29

 モーセはシナイ山(ざん)で、神から十戒の板を与えられましたが、その間に、山のふもとにいたイスラエルの民は偶像を作っていました。それを見たモーセは、怒りのあまり、十戒の板を投げつけて砕いてしまいました。モーセの怒りは、神の怒りでもありました。そこでモーセは民のために、執(と)り成(な)しの祈りをします。モーセの祈りに応(こた)えて、神は再び十戒の板を授けられるのです。(旧約聖書出エジプト記24、31〜34章)

(1) 十戒の板の再授与(10章1〜11節)

「主」 イスラエルの神。ヤハウエ。
「あなた」 モーセのこと。
「山」 シナイ山(ざん)。
2節「わたし」 神のこと。
3節「わたし」 モーセのこと。
「集会の日」 神に召集された日。
「火」 神の臨在を示す。
「あなたたち」 イスラエルの民。
「そこに」 箱の中に。

「ベエロト・ベネ・ヤアカン」 イスラエルの民が荒れ野で宿営した場所。エドムの境界に近い所。カデシュ・バルネア北東18キロのビレーンと考えられている。カデシュ・バルネアについては聖書巻末地図2参照。
「モセラ」 イスラエルの民が荒れ野で宿営した場所。カデシュ・バルネア北東12〜15キロの地点と考えられているが正確には不明。アロンの死の場所とされているが、旧約聖書民数記にはホル山(さん)で死んだと記されている。
「アロン」 モーセの兄。最初の大祭司。モーセと共に、荒れ野で、イスラエルの民を率(ひき)いた。123歳で死んだ。
「エルアザル」 
   @ アロンの第3子。レビ人(びと)の代表者たちの代表。2代目の大祭司。
   A レビ人(びと)メラリの子であるマフリの子。
   B キリアト・エアリムの人であるアビナダブの子。
   C アホア人(じん)ドドの子。ダビデの勇士の一人。
   D ピネハスの子。エズラ時代の祭司。
   E パルオシュの一族の一人。異民族の妻を離縁するようエズラに諭(さと)されて同意した。
   F ネヘミヤ時代のエルサレム城壁の落成式にあたって、詠唱者(えいしょうしゃ)として歌った祭司たちの一人。
   G マリアの夫ヨセフの曽(そう)祖父(そふ)。
   ここでは@を指す。
「グドゴダ」 イスラエルの民が荒れ野で宿営した場所。ホル・ギドガド(旧約聖書民数記33章32節)と同一で、ツインの荒れ野にあったと思われる。ツインの荒れ野については聖書巻末地図2参照。
「ヨトバタ」 イスラエルの民が荒れ野で宿営した場所。
「レビ族」 ヤコブの子レビの子孫。祭司の補助をする職務が与えられている。
「契約の箱」 十戒のはいった箱。
「祝福」 神による恵みを与えられること。
「兄弟たち」 イスラエルの民。
「嗣業(しぎょう)」 相続する財産。
「四十日四十夜」 1.ノアの洪水のとき雨が降り続いた日数。
    2.モーセが十戒を授けられたとき、シナイ山(ざん)にとどまった日数。
    3.イエスが荒れ野で断食した日数。
「与えると誓った土地」 カナン。

(2) 神への忠実(10章12〜22節)

「イスラエル」
   @ ヤコブに神より与えられた名前。
   A ヤコブの12人の子らで形成された12部族の宗教連合体の名前。
   B イスラエル分裂後の北王国の名前。南王国はユダ。
   C バビロン捕囚から帰還した人々。
   ここではAを指す。.
「心」 ヘブライ語はレーバーブ。意志。考え。志。
「魂」 ヘブライ語はネフェシュ。息。いのち。思い。精神。
「戒め」 ヘブライ語はミツワー。規定。命令。
「掟」 ヘブライ語はフッカー。さだめ。ならわし。風習。
「天」 ヘブライ語はシャーマイム(複数形)。「水(マイム)の場所」「上空の大洋」。いくつもの厚い層から成り、最高の天が神の住居と考えられていた。
「包皮を切り捨てる」 割礼(かつれい)をおこなう。神のものとして聖別する。
「寄留者」 ヘブライ語はゲール。異邦人。他国人。外国人。旅の者。
「七十人でエジプトに下った」 エジプトへ行ったヤコブの家族は七十人であった。旧約聖書創世記46章27節参照。

特註 「マイムマイム」

1.イスラエル民族小史

 紀元前19世紀ごろ、アブラハム一族がカルデアのウル(聖書巻末地図1参照)からカナンへ移住しました。紀元前17世紀ごろには、アブラハムの子ヤコブ一族がエジプトに移住しました。紀元前14〜13世紀に、イスラエルの民がモーセに率(ひき)いられてエジプトを脱出し、40年間の放浪を経(へ)て、カナンに定住します。紀元前931年に、イスラエル王国が南北に分裂し、北王国はイスラエルを名乗り、南王国はユダを名乗ります。紀元前722年、北王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、紀元前586年、南王国はバビロニア帝国に滅ぼされます。紀元後70年、エルサレムの神殿が破壊され、ユダヤ人は離散(ディアスポラ)となり、ヨーロッパじゅうに広がってゆきました。
 時代が下(くだ)って1903年、ロシアでユダヤ人に対する略奪・虐殺が起こったので、それをきっかけとして、全ヨーロッパの多くのユダヤ人はパレスチナへの移住を始めます。1909年、ガリラヤ湖畔にユダヤ人による「キブツ」(集団農場)が建設され、生産手段・生産物を共有して個人所有を廃しました。19世紀後半、東ヨーロッパに移住していたユダヤ人の間から、パレスチナに独立国家を建設しようとする「シオニズム」― 「シオン(約束の地)に帰り、ユダヤ人国家を建設しよう」― という運動が起こります。しかし、パレスチナにはアラブ人が住み付き、オスマン・トルコ帝国が支配していました。そこで1947年、国連はパレスチナを3分割し、1.ユダヤ人国家、2.アラブ人国家、3.エルサレム国際管理地区、とする決議を採択します。その決定に反対するアラブ諸国は、中東戦争を引き起こします。パレスチナをめぐる紛争は、いまだに解決の目途(めど)さえ立たず、毎日のように殺戮(さつりく)が繰り返されているのです。

2. キブツ

キブツとはヘブライ語で「集団」を意味します。それはイスラエルの協同組合的な農村もしくはコミュニティです。キブツでは、あらゆる財産が共有され労働は共同を基礎として組織されます。メンバーはそれぞれ能力に応じて労働し、その見返りとして、必要に応じて食糧、衣類、住居、医療サービス、およびその他の家庭生活のためのサービスをうけます。食堂、台所、そして売店はセンターにあつめられており、学校および子供たちの寄宿舎は共同です。
最初のキブツは1909年に、ガリラヤ湖のほとりに建設されました。パレスティナの地にユダヤ民族の郷土をきずくことをめざしたもので、キブツはその中核をなしていました。初期のユダヤ人移民たちはそこで共同してはたらき、不毛の地を灌漑(かんがい)・耕作し、家庭をきずくことができたのです。キブツの人口はイスラエル全人口の数パーセントにすぎませんが、イスラエル建国の精神的支柱となっているようです。
キブツでよく踊られたのがマイムマイムです。マイムマイムは、旧約聖書イザヤ書12章3節の「あなたたちは喜びのうちに、救いの泉から水(マイム)を汲(く)む」を歌詞とするイスラエル民謡です。開拓地のキブツで掘り当てた井戸の周りで輪になって踊り、井戸に向かって駆け寄っていくさまを、踊りの輪を中央に向かって縮めて行って最後に足を前に蹴り出すダンスで表現したものです。足を前に蹴り出すときに歌われるリフレイン部の「マイム、マイム、マイム、マイム、マイム、ベッサッソン」は、「水を、水を、水を、水を、水を、喜びのうちに」という意味です。
それがフォークダンスとして、第二次世界大戦後、GHQなどを通じて日本に紹介され、YMCAやYWCAのレクリエーションに取り入れられました。労働組合や共産党などは、青年層の組織化の手段として、うたごえ運動などに加えてフォークダンスを利用しました。昭和23年(1948年)に民青(日本民主青年同盟)の前身、青共(日本青年共産同盟)の音楽部門である中央合唱団の設立を機にうたごえ運動が始まったと言われます。関西学院では昭和29年(1954年)にうたごえサークル「エゴラド」が発足しています。小中学校では、昭和30年(1955年)代頃から学習指導要領でフォークダンスの学習が義務付けられましたが、昭和50年(1975年)代の学習指導要領ではフォークダンスの学習は任意とされていた時期があり、この時代に学齢期を過ごした人はマイムマイム自体を知りません。

特註 いわゆる「一神教」について

 一応、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は「一神教」であるとされています。しかし、その三宗教が聖典とする旧約聖書では異教の神々の存在を認めています。認めた上で、それらの神々を信じたり、拝んだりしてはいけないというのです。これは「一神教」ではなく、「拝一神教」と言うべきなのです。どの時代、どの世界に行っても、「神は唯一」という時代も世界もありません。必ず複数の神が存在し、その中から本当の神を選んで信仰するのです。
実は、人間が神を選んだのではなく、神が人間を選んだのですが、それに気付くのは、さまざまな試練を経(へ)て、人間の信仰が洗練されてからの話なのです。「神は唯一」ということに気付いたあとでも、またもやこの世の楽しみや喜びなどというような「世俗的な神」を追い求めている自分に気が付くのです。「神は唯一」ということに、一度気付けばそれで終わりと思いこんで安心してはいけないのです。絶えず、くり返しくり返し、「神は唯一」というところへ返ってゆかなければならないのです。
旧約聖書イザヤ書45章6節には、「わたし(神)のほかは、むなしいものだ」とありますが、この「むなしいもの」(ヘブライ語はエフェス。限界。はて。ない。無きもの)は他の神々を指しています。他の神々が「むなしいもの」と分かっていて、なお、そういうものを追い求めてしまう自分を、反省し懺悔して、日々新たにやり直し、やり直ししてゆくのが信仰生活です。
自分が神を選んだと思っている間は、自分が神になっているのです。神が「天地創造の前から」(新約聖書ヨハネによる福音書17章24節)わたしを選んでくださっているということに、気付き、また気付き、さらに気付く毎日でありたいと思います。

再録 神話と紛争

1.紛争の過去と現在

紀元67年、イスラエルの民はローマ帝国に対する反乱を起こします。これを第一次対ローマ戦争と言います。しかし敗退し、ローマ軍がエルサレムの第二神殿を完全に破壊しました。犠牲者は数十万人から一千万人とも言われます。ユダヤ人は追放され、または奴隷として売られてゆきました。ここから、ユダヤ人のディアスポラ(離散)の長い歴史が始まります。
 11世紀には、教皇ウルバヌス二世の宣言に始まる十字軍は、表向きのスローガンは、イスラム教徒からの聖地エルサレム奪還でしたが、教皇がひそかに求めていたのは、教皇領の拡大と貿易による富の独占であったと言われます。エルサレムに居住していたイスラム教徒とユダヤ人は、キリスト教の名において、ことごとく殲滅(せんめつ)され、ヨーロッパにいたユダヤ人も大量に虐殺(ぎゃくさつ)されました。以後13世紀のチュニスでの十字軍の敗退までの二百年間、8度の遠征が行なわれましたが、ほぼ失敗に終わりました。十字軍の歴史は、殺戮(さつりく)と略奪の歴史と言えるでしょう。
 16世紀に始まった宗教改革が拡大すると、ヨーロッパの各地でカトリックとプロテスタントの戦争が起こりました。なかでも、1572年8月23日、聖バルトロマイの祝日から翌24日にかけて、フランス各地で、カトリック教徒がプロテスタント教徒を虐殺した「サン・バルテルミの虐殺」は、犠牲者の総数三万人とも十万人とも言われます。
 時代が下(くだ)って、第二次世界大戦は、ドイツによるユダヤ人迫害では、六百万人とも言われるユダヤ人が惨殺されました。
 その後も世界各地で、多くの宗教紛争により、幾多の人命が失われて来ました。
 そして、2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに、ハイジャックされた2機の旅客機が突っ込み、一瞬のうちに2465人の命が失われました。アメリカは、これをイスラム原理主義過激派によるテロと断定し、アフガニスタンのタリバン政権を軍事攻撃して崩壊させました。ついでアメリカとイギリスがイラクに軍事攻撃を加え、陥落させました。しかし、イラク国内では、反米勢力による攻撃や、宗派・民族間の対立によるテロはいっこうに収まらず、イラク民間人の死者は、15万人から22万人と言われています。

2.宗教と「聖戦」

 歴史を顧(かえり)みても、世界のどの国でも、宗教はたしかに紛争の火種(ひだね)をまいてきました。しかし、もともと宗教は争いを好むものなのでしょうか。それとも平和を願うものなのでしょうか。
 「イスラム教は、『右手にコーラン、左手に剣(つるぎ)』と言っているから、好戦的な宗教なのだ」と言ってきたのは、欧米のキリスト教徒でした。ほんとにそうなのでしょうか。
 コーランには、「いやがる人々を無理やりに信者にしようとしても、できることではない」とか、「叡智(えいち)とよき忠告とをもって、イスラムの教えに人々を招きなさい」と書いてあります。つまり「改宗か、それとも死か」と言っているのではないのです。穏健な説得が薦(すす)められているのです。
 また、自爆テロなどの過激な手段を取るアルカイダの主張は、「イスラム教徒の土地を占領している異教徒に対し、武器を取って戦え。それが「神のための戦争」、聖戦(ジハード)だ」というものですが、イスラム教徒の中には、そういう考え方を支持しない人が多いと言われます。
自爆テロをする人たちは、聖戦で死んだら天国に行けると信じています。そういう狂信に駆り立てるものは何でしょうか。

3.原理主義

 原理主義は、「ファンダメンタリズム」の訳語として使われています。キリスト教では根本主義とも呼ばれ、イスラム教ではイスラム復興運動と呼ばれています。聖書(特に旧約聖書)、コーランなど、聖典(正典)に記(しる)された教義や規範などを、そのままの形で、現代生活の中に実現させようとする運動を指(さ)します。
キリスト教のファンダメンタリズムの場合、その根拠とするところは、「聖書逐語(ちくご)霊感説」であって、聖書は一字一句神からの霊感によって書かれたものであるとするものです。キリスト教では、セヴンスデイ・アドヴェンティスト(SDA)が、その一つの例です。SDAは、1845年アメリカでバプテスト派牧師ミラーによって始められました。再臨、土曜安息、浸礼、十一献金を強調し、旧約聖書レビ記11章などに記(しる)されている、食べてよいものと、食べてはいけないものを厳格に守ります。
ファンダメンタリズムは、社会の中で、自己のアイデンティティーを確立し、それを他にむかって主張しようとするものですから、当然、排他的、閉鎖的、急進的、攻撃的態度を生みます。そして、過激な宗教抗争とテロが発生する土壌を現代世界に提供しています。こういった狂信的態度の背後には神話というものがあるのです。

4.神話

 では、そもそも神話とは何でしょうか。
私たちは日常「お日様が東から昇って、西に沈む」と言います。そして、自分の言っていることが、どこかおかしいとか、何か間違ったことを言っている、というふうには思いません。他の人も、私たちが、天動説をとなえているとも、非科学的だとも言わないでしょう。たしかに、地球の自転の結果、日が昇ったり沈んだりするように見えるだけです。そこで、「日が昇った」ということを、あえて「科学的」に言おうとして、「私が乗っかっている地球が一回りした。そのため、私が地球上に立っている地点を基準点とすると、太陽が、「東」という相対的な方向から昇っているように見えるが、実は私の立っている地点が、「東」という相対的な方向へ向かって回転しているのだ」と言ったとすると、聞いている人は、「この男はアタマがおかしいんじゃないのか」と思うでしょう。「日の出」や「日没」というような表現を使わないで、地動説的に説明しようと必死になればなるほど、周りの人は、私たちが何を言っているのか、ますますわからなくなってしまうでしょう。
「東」と言っても、「西」と言っても、「昇る」と言っても、「沈む」と言っても、すべて相対的な表現なのです。わたしたちが生きている世界は「相対」の世界なので、そこには、「絶対的な東」も、「絶対的な西」もありません。「上」と言っても、「下」と言っても、何かを基準として、「その上」、「その下」と言えるだけで、「絶対的な上」もなければ、「絶対的な下」もないのです。
私たちが、日常使っている言葉は、すべて、相対世界の言葉ですから、絶対的なものを表現しようとすれば、「神話」という形式を使わざるを得ません。
地動説も、天動説も、天体の動きを理解し、表現するための「お話」に過ぎません。「お話」は、「道具」であって、絶対的な真理ではないのです。それらは、いわば「科学的」という包装紙で格好(かっこう)をつけているだけで、どれも中身は「神話」なのです。地動説が「科学的」であって、天動説は「非科学的」であり、「迷信」であると決め付けたりするのは、自分の立場が「絶対」であり、「不動」であるとする態度であって、それこそまさに「天動説的」態度と言わねばなりません。本来「科学」とは、あらゆる常識を疑ってかかるところから始まるのです。「科学」が「常識」となってしまっている場合には、その「常識」を疑ってゆかなければ、本当の「科学的態度」とは言えません。
たしかに、現代では、地動説が「通説」となっています。「通説」に異を唱えるのは、よほど非常識な人間か、自信のある人間でしょう。なぜなら、「通説」は、たいてい「自称科学者」のお墨付(すみつ)きで権威付けられていると思われているからです。でも、いったい何人の人が、自分で「通説」を検証したのでしょうか。「みんながそう言うから、そうなんだ」で済ませているというのが実情ではないでしょうか。地球が太陽の周りをグルグル回っているのを見た人があるでしょうか。宇宙飛行士でも、自分の乗っている宇宙船を基準にして、地球と太陽の動きを見ているだけで、見えない部分は仮説で補っているので、全体を見ているような気がするだけではないでしょうか。そもそも人間は、宇宙全体をひと目で見ることはできないのです。「宇宙全体」という「神話」をでっち上げているにすぎません。
 宗教的な真理も、理解や説明を超えたものですから、神話を使って語らざるを得ません。しかし、その神話どうしが衝突して、殺戮(さつりく)と破壊を招くとすれば、放置することはできないのです。

5.非神話化

「神話」という言葉は、ここでは、人間の認識と表現を超えたものを指し示す「比喩(ひゆ)」、または「幼児語」という意味です。例えば「ワンワン」とか「ニャンニャン」のようなものです。
神話は、人間が、霊的なものを理解できるまでに成長する期間、間(ま)に合わせに使われる「符牒(ふちょう)」で、キリストもよく「たとえ話」を語られましたが、これも神話の一種と言っていいでしょう。
神話という「離乳食」は、人間が人間であるかぎりは、絶対卒業することのできないものです。卒業できないかぎり紛争はなくならないでしょう。ではどうすればいいのでしょうか。
ドイツの神学者ブルトマン(1884〜1976)は「非神話化」を提唱しました。聖書の枠組みとなっている古代の神話的世界観から、キリスト教の本質的メッセージ(福音)を取り出して、現代人にも通じる言葉で語りなおそうという試みです。
神話という「離乳食」を必要としない「大人」に成長するためには、自分の持っている神話に気づかなければなりません。キリスト教のみならず、世界のあらゆる神話から自由になることです。現代人は、宗教的神話だけでなく、「政治的神話」、「科学的神話」、「常識という神話」など、無数の神話の中で「神話漬(づ)け」になっています。「名誉」、「金」、「健康」、「快適」、「快楽」なども、気づかぬ間に現代人をがんじがらめにしている神話たちです。
大切なことは、神話と戦い、神話を捨てるのではなく、神話を通して発せられている「いのちのメッセージ」(福音)を聞き取ることです。「いのちのメッセージ」によって神話を正しく認識し、神話から解放されること、それが「非神話化」ということです。

(3)ヤハウエの偉大さ(11章1〜12節)

「命令」 ヘブライ語はミシュメレス。言いつけ。仰せ。さとし。
「掟」 ヘブライ語はフッカー。さだめ。ならわし。風習。
「法」 ヘブライ語はミシュパート。慣例。正義。道。
「戒め」 ヘブライ語はミツワー。規定。命(めい)。
「子孫とは違う」 世代の交代。
「ファラオ」 エジプトの王。出エジプト当時のエジプト王は、アメンホテプ2世、あるいは、トウトメス3世、また、ラメセス2世とする諸説がある。
「しるし」 奇跡。
「葦(あし)の海」 紅海(こうかい)。スエズ湾またはアカバ湾と思われる。死海の南からアカバ湾に至る道は「葦(あし)の海の道」と呼ばれた。聖書巻末地図2参照。
「ルベン」 ヤコブの長男。
「エリアブ」 
   @ ヘロンの子。
   A ルベン族。ダタンとアビラムの父。
   B サムエルの先祖。
   C エッサイの子。ダビデの兄。
   D ガド族の勇士。
   E レビ人(びと)。ダビデ時代の神殿楽人(がくじん)。
   ここではAを指す。
「ダタン」 エリアブの子。
「アビラム」 1.エリアブの子。
       2.ベテルの人ヒエルの子。
       ここでは1を指す。
「行をともにした」 アロンとモーセに反逆した。
「得ようとしている土地」 カナン。
「乳と蜜の流れる」 豊かであること。
「足で水をやる」 足で水車を回して灌漑(かんがい)する。

(4)祝福と呪(のろ)い(11章13〜32節)

「天を閉ざす」 旱魃(かんばつ)も洪水も神の怒りのあらわれ。
「手に結び、額に付け」 経札。
「天が地を覆う日数」 永遠。
「レバノン山(さん)」 シリアの山脈。南端は北ガリラヤの丘陵に続く。「レバノン」はヘブライ語「白」の派生語。石灰岩の白さと、頂上の雪の白さに関係している。聖書巻末地図3参照。
「ユーフラテス」 西アジア最大の川。チグリス川とともに、世界最古の文明発祥の地メソポタミア(現イラク)を形成している。聖書巻末地図1参照。
「西の海」 地中海。
「ゲリジム山(やま)」 シケムの南西3キロにある山。聖書巻末地図3参照。標高(海抜)881メートル。シケムの谷からの高さ381メートル。石灰岩でできている。
「エバル山(やま)」 シケムの谷をはさんでゲリジム山の北側にある山。標高(海抜)938メートル。シケムの谷からの高さ427メートル。
「ヨルダン川」 パレスチナ最大の川。北のヘルモン山(ざん)(聖書巻末地図3参照)に端(たん)を発し、ガリラヤ湖(こ)を経(へ)て南下し、死海に流れ込む。全長は直線距離で約217キロ(阪神間から名古屋付近まで)、蛇行距離では400キロ。ヨルダン峡谷(きょうこく)の幅(はば)は、5キロ(およそ小林と西宮北口間)から20キロ(直線で小林と大阪城間)まで変化している。キリストが洗礼者ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けたのはヨルダン川であった。
「アラバ」 ヨルダン峡谷を含みパレスチナを縦断する低地。「荒れ野」「砂原」の意味。
「カナン」 現代のパレスチナ。
「ギルガル」  1.ヨルダン川を渡った後、イスラエルの民が最初に宿営した地。エリコの東3キロの町。聖書巻末地図3参照。
        2.ゲリジム山麓(さんろく)の東1.6キロあたりと考えられるが正確には不明。
        3. アドミムの丘陵地帯にある町。
       ここでは1を指す。
「モレ」 1.シケムの聖所。シケムについては聖書巻末地図3参照。
     2.ギルボア山(さん)の北東、小ヘルモン山(ざん)とも言われる丘。玄武岩から成り、標高518メートル。ギルボア山(さん)については聖書巻末地図4参照。
     ここでは1を指す。

(5)偶像破壊(12章1〜12節)

「アシェラ」 カナンの多産の女神。
「主の住まい」 神が住む特定の場所ではなく、人が地上の至る所で神の栄光を仰ぎ、神の意志を実行する場所。
「主がその名を置くために選ばれる場所」 神がその意志を示す場所。エルサレムの中央聖所。
「焼き尽くす献げ物」 いけにえの全部を焼くことによって、人間の全面的な献身を表す献げ物。燔祭(はんさい)。
「十分の一」 収穫、収入の十分の一を献金、献納すること。
「満願の献げ物」 危険からの救いや、事業の成功などを祈って誓いを立て、それがかなえられたときに献げるもの。
「初子(ういご)」 初めて生まれた子。
「自分が正しいと見なすこと」 自分中心の判断。
「嗣業(しぎょう)」 相続人が受け継ぐ財産。神から与えられる土地。
「レビ人(びと)」 ヤコブの子レビの子孫。祭司の補助をする職務が与えられている。レビ人には嗣業(しぎょう)の割り当てがないので、献げ物のお下がり
が与えられる。
「町の中に住むレビ人(びと)」 各部族の町の中に住むレビ人(びと)。

(6)いけにえの肉と血(12章13〜28節)

「一部族の中に選ばれる場所」 エルサレムの中央聖所。「一部族」とはこの場合はベニヤミン族を指す。聖書巻末地図3参照。
「汚(けが)れている者」 1.死体に触れた者。2.らい病およびその衣服・住居。3.生殖器からの流出物。4.汚れた動物の肉を食べた者。汚れの規定については旧約聖書レビ記11章以下を参照。
「血」 肉のいのち。血は神聖であって、決して食べてはならない。血は土で覆(おお)わなければならない。キリストが十字架上で流した血は、その後キリスト教会の聖餐式で、ぶどう酒(ぶどうジュース)に象徴されている。

(7)異教の礼拝に対する警告(12章29〜31節)

 死を前にしたモーセの警告は、悲痛なまでに繰り返し繰り返し、偶像礼拝に引き込まれないよう呼び掛ける。

T.聖書を読む 2008/08/14

54 旧約聖書申命記7章1節〜9章29節

(1) カナン先住民(7章1〜5節)

「あなた」 イスラエルの民。
「主」 ヤハウエ。イスラエルの神。
「ヘト人(じん)」 パレスチナ南部に住んでいた先住民族。ハムの子孫カナンの子。
「ギルガシ人(じん)」 エリコ付近にいたカナン。
「アモリ人(じん)」 パレスチナ先住民の総称。
「カナン人(じん)」 パレスチナ先住民の総称。
「ペリジ人(じん)」 ヨルダン川の西、パレスチナ中部山岳地帯に住んでいた先住民。
「ヒビ人(じん)」 フーレ湖、レバノン山、ヘルモン山に囲まれる地の先住民。
「エブス人(じん)」 エルサレムの先住民。
「わたし」 モーセ。
「アシェラ」 カナンの多産の女神。

(2) 主の聖なる民(7章6〜11節)

「聖」 すべての汚(けが)れを清められ、世俗から分離された状態。それ自体は清くないが、神との関係におかれているときだけ、聖である状態。
「ファラオ」 エジプトの王。出エジプト当時のエジプト王は、アメンホテプ2世、あるいは、トウトメス3世、また、ラメセス2世とする諸説がある。
「戒め」 命令。
「掟(おきて)」 永続的な成文律。
「法」 慣習にもとづくさだめ。

特註 愛の諸相―「あなたに対する主の愛のゆえに」(申命記7章8節)

1. プラトン(紀元前427〜347年) @完全と愛
 
 「酒宴」(「饗宴」とも訳される)は、プラトンが44、5歳の頃に「愛」を主題として書いた対話篇です。宴席に登場する人物は、ソクラテス(53歳)、パイドロス、パウサニアス、アリストパネス、エリュクシマコス、アリストデモス、アガトンです。
 最初に立ってスピーチを始めたのはパイドロスでした。彼は、
「相手のために死のうとまで決心する者は、ただ愛する者だけである」
と語ります。ここで使われている「愛する」というギリシア語エロースは、「恋する」とも訳されるギリシア語ですが、しかし男女の愛を意味するだけではなく、真理(アレーテイア)を愛する愛にも使われています。エロースの愛は真理に生きる愛なのです。それはまた、真理のために死ぬ愛でもあります。したがって、真理に生きる愛は、死を生きる愛でもあります。
 三番目にスピーチに立ったアリストパネスは、次のような神話を語ります。
「太古(たいこ)、人間は、男と女と両性具有の三種類があった。三種類とも、ボールのようにまん丸く、手は四本、足も四本あり、顔は二つ、耳は四つ、恥部は二つあった。走るときには、八本の手足を車輪のように使って、猛スピードで前進した。彼らはその体力と気力ゆえにおごり高ぶって、神々にはむかうようになった。そこで神々は彼らを真っ二つに切断して、顔を切断面のほうへ向けなおし、皮を腹のほうへ引き寄せた。そこで腹の真ん中に臍(へそ)ができ、人間がそれを見て反省するようにした。それ以来人間は、自分の半身を恋い求めて、いっしょになろうとするのである。」
 以上のアリストパネスのスピーチでは、「真理(アレーテイア)への愛」は「完全への愛」として語られています。それと同時に、「真理への愛」、「完全への愛」は、人間がかつて住んでいたエデンの園への帰還こそ、人間の救いであるというメッセージを伝えるものではないでしょうか。そして救いの実現には、十字架の死が必要であるということを教えているようでもあります。
 ちなみに、スウェーデンの神学者ニグレンの『アガペーとエロース』は、類型論としては面白い労作ですが、面白いだけに、ギリシア語の本来の意味を見失わせる危険があると思われます。まして、ちまたで使われている「エロス」なる日本語などは論外です。

2. キリスト教 @霊と愛

 「神は愛(アガペー)です」(新約聖書ヨハネの手紙一4章8節)とは、神の性質・属性を言い表したものではありません。神が、愛そのものであるということです。愛が人間に対して姿を現したのが、神なのです。
 この「愛」を「霊」と言い換えることもできます。新約聖書ヨハネによる福音書4章24節には「神は霊である」と言われています。「霊」として見えない神は、「愛」として見える姿でこの世に現れました。
 「愛」の最も具体的な姿は、十字架につけられたイエス・キリストです。「神は、独り子(イエス)を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに神の愛がわたしたちの内に示されました」と、新約聖書ヨハネの手紙一4章9節に言われているとおりです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という新約聖書ヨハネによる福音書3章16節の言葉は、神がその独り子を十字架につけることによって、すべての人間の罪が赦され、人間に永遠の命が与えられているという福音を告げ知らせるものです。これがキリスト教の根本的メッセージです。このヨハネによる福音書3章16節の言葉は、聖書のほかのすべての言葉を忘れても、これだけは絶対に忘れてはならない重要な聖句なのです。

3. キリスト教 A霊と偶像

 「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理(アレーテイア)をもって礼拝しなければならない」(新約聖書ヨハネによる福音書4章24節)とイエスは言われました。神が「霊」であるということは、神が「無限大」であると同時に「零」(ゼロ)であることを意味します。神が「零」(ゼロ)であるということは、神が存在しないという意味ではありません。「無限大」は人間の目には「零」と映るのです。人間は「零」では物足りないと感じてしまうので、「零」を「限定」して偶像を造ります。「限定」したのでは、「無限大」でなくなってしまいます。「霊」たる神の本質が失われてしまいます。そこで「あなたはいかなる像も造ってはならない」(旧約聖書出エジプト記20章4節)と命じられているのです。
 初期のキリスト教では、イエスの姿を絵に描いたりすることも禁じられていました。その代わり、イエスの「象徴」として「魚」を描いていました。「イエス・キリスト・神の・子・救い主」のギリシア語「イエースース・クリストス・テウー・フイオス・ソーテール」(Ιησουσ・Χριστοσ・Θεου・Υιοσ・Σωτηρ)の頭文字を並べると、「イクテュス」(魚)(ΙΧΘΥΖ)というギリシア語になるからです。
 しかし、魚などの「象徴」だけに満足できない人々は、次第にイエスそのものの画像やマリア像を造るようになりました。一方、それが偶像崇拝に堕する危険があると感じた人々は、そういった「聖像」(イコン)は破壊すべきであると主張しました。紀元8世紀から9世紀にかけて両者の争いが起こり、東方教会は「聖像」(イコン)を認める立場を取りました。ただし、聖像の形式に厳格・細密な規範を設けました。西方教会は聖像に対しては比較的ゆるやかな立場を取っています。プロテスタントは、まったく自由だと言っていいでしょう。

4. キリスト教 B見える愛

 問題は、「見えない霊」たる神が「見える愛」としてこの世に現れたということを、どのように理解しどのように表現するかということです。「霊」や「愛」が抽象的にならないようにするために、どうすればいいかということです。
 新約聖書ヨハネの手紙一4章20節には、「目に見える兄弟(他者)を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と言われています。兄弟(他者)が困っているのを見て、知らん顔を決め込むキリスト者がいるとすれば、その人の信仰は生きて働いていないと言えるでしょう。キリスト者に限らず、天災・事故・戦乱に苦しむ人たちの存在を知りながら、自分の楽しみだけを追求する人は、愛も真理も知らない人であり、人間として大切なものを失っている人と言わねばなりません。人間である限り、その人たちのために祈る心を持たなければなりません。
 しかし、事はそう簡単ではありません。私たちがいくら愛の高みに羽ばたこうとしても、私たちを地上に縛り付ける「肉」のきずながあります。「肉」に縛られている私たちは、目前の人を助けることができないのです。「他人よりまず家族を」、そして「まず私自身を」と、「肉」はささやくのです。そのささやきに抗し得ず、今日もまた重い足を引きずって地上をさまよわなければならないのです。
 家族を愛することは罪なのでしょうか。私自身を愛することは、神にそむくことなのでしょうか。

5. キリスト教 C十字架の愛

 イエスは言われます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」(新約聖書ルカによる福音書14章26,27節)この烈しい言葉は、イエスの弟子たちに対して言われた言葉ではなく、イエスについて来た一般群衆に向かって言われた言葉です。したがって私たちに対して言われた言葉なのです。
 「相手のために死のうとまで決心する者は、ただ愛する者だけである」というパイドロスの言葉がよみがえってきます。これをもっとも具体化したのが十字架です。十字架を経(へ)ない愛は、本当の愛とは言えません。神の愛は、独り子を十字架につけることによって、本当の愛であることが私たちに示されました。十字架によって、神の愛は「肉」を超えました。それと同時に「死」も超えたのです。最愛の者を与えてこれを死なせることは、自己の生命を与えるより苦しいことです。しかし、それを通り抜けてこそ愛は「死」に勝ったのです。「肉」の思いは「死」です。肉親に縛られ、自己に縛られている愛を解き放ってくれるのは、「死」です。十字架です。
 では、生きながら「死」を経験する道はあるのでしょうか。それは、「日々」十字架を背負い、「時々刻々」自己に死ぬことです。「肉の思い」をやめ、そしてやめ、またやめ続けることです。そうすることによって、「霊の思い」・「零(ゼロ)の思い」に覚め、そして覚め、また覚め続けるのです。

(3) 祝福(7章12〜15節)

「祝福」 神の愛による恵みを与えられること。
「誓われた土地」「約束された土地」 カナン。

(4) 恐れるな(7章16〜26節)

「彼らの神」 カナンの神々。
「試み」 試練。
「しるしと奇跡」 旧約聖書出エジプト記12〜14章参照。
「野の獣が増えて」 人がいなくなり荒れ野となって野獣が増えることか。
「いとうべきもの」 カナン宗教の神々の偶像。

(5) 荒れ野の訓練(8章1〜10節)

「マナ」 神が荒れ野でイスラエルの民に与えられた食物。旧約聖書出エジプト記16章31節参照。民がそれを見て「これは一体何だろう」(マーン・フー)と言ったことによると言われる。
「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」 イエスが荒れ野で40日間断食したときの悪魔の誘惑を退けたときに、この言葉を使った。(新約聖書マタイによる福音書4章4節)
「蜜」 蜂蜜および果実蜜。
「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。」 現代のユダヤ人の食前の祈り。

(6) 警告(8章11〜20節)

「炎の蛇」 毒蛇。かまれると燃えるような熱を出すので炎の蛇という。旧約聖書民数記21章6節参照。
「水を湧き出させ」 旧約聖書出エジプト記17章6節参照。

(7) ヨルダン川を渡るに際して(9章1〜7節)

「イスラエル」 1 ヤコブの別名。
        2 ヤコブの子孫の国民。
        3 北王国の名前。
        ここでは2を指す。
「ヘブライ人・イスラエル人・ユダヤ人」 もとは同じ意味であったが、現在では『ヘブライ語』・『イスラエル共和国』・『ユダヤ教』という用語法で使われる。
「ヨルダン川」 パレスチナ最大の川。北のヘルモン山(ざん)(聖書巻末地図3参照)に端(たん)を発し、ガリラヤ湖(こ)を経(へ)て南下し、死海に流れ込む。全長は直線距離で約217キロ(阪神間から名古屋付近まで)、蛇行距離では400キロ。ヨルダン峡谷(きょうこく)の幅(はば)は、5キロ(およそ小林と西宮北口間)から20キロ(直線で小林と大阪城間)まで変化している。キリストが洗礼者ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けたのはヨルダン川であった。
「アナク人(じん)」 ヘブロンを中心とするユダ山地に居住するカナン先住民。「アナク」という語は、巨人を次々に出した種族を指す。
「アブラハム」 テラの子。故郷カルデア(現イラク)のウルを離れて、神の命ずるままに、「行き先も知らずに」(新約聖書ヘブライ人(じん)への手紙11章8節)出発し、約束の地カナン(現パレスチナ)に入り、イサクの父となった。
「イサク」 アブラハムの子で、エサウとヤコブの父。
「ヤコブ」 @ イサクとリベカの子。のちにイスラエルと改名。
      A イエスの母マリアの夫ヨセフの父。
      B 十二使徒の一人。ゼベダイの子。使徒ヨハネの兄弟。
      C 十二使徒の一人。アルファイの子。母はマリア(イエスの母マリアとは別人)。
      D イエスの兄弟。
      E 使徒ユダの父。
      ここでは@を指す。

(8) 子牛の鋳像(9章8〜29節)

「ホレブ」 シナイ山(ざん)。モーセが神から律法を与えられた山。
「契約の板」 十戒が刻まれている石の板。
「火の中から」 栄光の中からの意味。神の超越性を表す。
「鋳像」 金属を溶かし、いがたに注いで造った像。
「この民」 イスラエル。
(14節)「わたし」 神。
(14節)「彼ら」 イスラエルの民。
(14節)「あなた」 モーセ。
(15節)「わたし」 モーセ。
「アロン」 モーセの兄。アロンはホル山(さん)(エドムの国境の山。聖書巻末地図2参照)の山頂で死ぬ。享年123歳。三人の兄弟姉妹のうち、すでに姉ミリアムは死に、その後兄アロンが死に、残るは弟モーセ一人になった。
「タブエラ」 イスラエルの民が荒れ野で宿営した所。旧約聖書民数記11章1〜3節参照。
「マサ」 シナイ山付近のレフィデムの岩と思われるが正確な位置は不明。ヘブライ語では「試(ため)し」の意味。旧約聖書出エジプト記17章1〜7節参照。
「キブロト・ハタアワ」 シナイ山とハツェロトの間にあった。旧約聖書民数記11章4〜34節参照。
「カデシュ・バルネア」 パランの荒れ野にある町。民数記13章25節〜14章12節参照。
「出て来た国」 エジプト。
「嗣業」 相続財産。割り当てられた所有物。


引用・参考文献(補遺)
「現代基督教辞典」(キリスト新聞社1953年)
  「新聖書植物図鑑」(教文館1999年)
  「交わりの宗教」(日本基督教団出版局1968年)
「岩波講座倫理学第九冊」(岩波書店1941年)
「哲学事典」(平凡社1958年)
「プラトン‐パイドロス・リュシス・酒宴」(玉川大学出版部1963年)
「プラトン‐国家」(玉川大学出版部1982年)
  「プラトン哲学研究‐母胎・資料・実存」(玉川大学出版部1985年)
「愛の場所‐教育哲学序説」(玉川大学出版部1974年)
「愛の哲学‐『哲学と教育』小品集」(玉川大学出版部1982年)
「PLATONIS OPERA U」(OXFORD UNIVERSITY PRESS 1957年)

T.聖書を読む 2008/08/14

53 旧約聖書申命記4章1節〜6章25節

(1) 律法の目的と価値(4章1〜8節)

「モーセ」 レビ人アムラムと妻ヨケベドの間に生まれた。上には3歳年上の兄アロンと姉ミリアムがいた。イスラエル民族を率いてエジプトを脱出し、カナンに入る前に、アロンもミリアムも死んだ。
「イスラエル」 1 ヤコブの別名。
        2 ヤコブの子孫の国民。
3 北王国の名前。
        ここでは2を指す。
「わたし」 モーセ。
「掟(おきて)」 永続的な成文律。
「法」 慣習にもとづくさだめ。
「命を得る」 神に祝福され、存続を許される。
「主」 ヤハウエ。イスラエルの神。
「与えられる土地」 カナン。
「バアル・ペオル」 ベト・ペオルと同じ。ネボ山(ピスガ山。聖書巻末地図2参照)の北。シティムの南東4キロ。ピスガ山はモーセ終焉の地。
「ペオル」 ネボ山(ピスガ山)の近くにあるモアブの山。シティムの南東4キロのところにある、現在のキルベト・エ・シーク・ジャーイルではないかと考えられている。
「ペオルの事件」 旧約聖書民数記25章16〜18節。
@ ミディアン人の誘惑により、イスラエルの民がペオルのバアルという異教の神を礼拝したこと。
A ミディアンの女たちと淫行をしたこと。
B そのために神罰が下って、2万4千人もの民が死なねばならなかったこと。

「バアル」 カナンの豊穣神。

特註 いつ呼び求めても近くにおられる神

1. 巡礼

 一般に、宗教では、特定の場所へ行かなければ神の祝福を与えられないというので、聖地や霊場を巡礼することが行われています。
 一つの聖地・霊場に向かって旅をする巡礼は、キリスト教・イスラム教の場合です。
 キリスト教では、エルサレム、ベツレヘム、殉教者の墓、ルルド、サンティアゴ・デ・コンポステーラ(サンティアゴはスペイン語で「聖ヤコブ」の味)、などが聖地とされています。
 イスラム教では、イスラム暦の12月に、メッカのカアバ神殿へ歩いてゆくことで、大巡礼(ハッジ)と呼ばれ、これは一生に一度でよいとされています。これ以外の月に巡礼することは、小巡礼(ウムラ)と呼ばれます。

2. 四国遍路

 日本では、西国(さいごく)三十三観音霊場等の全国の札所(ふだしょ)や霊場を巡(めぐ)り参拝することなどが「巡礼」と言われています。 その中で、特に弘法大師の足跡を訪ねる四国八十八霊場を巡り参拝する事は「遍路(へんろ)」と言われます。そのほかに、坂東(ばんどう)三十三ヶ所、秩父(ちちぶ)三十四ヶ所があります。遍路の持つ杖には、「同行(どうぎょう)二人(ににん)」と書かれていますが、これは「弘法大師と二人連(ふたりず)れ」または「観音菩薩と二人連れ」という意味です。
 NHKは、平成15年6月に「にんげんドキュメント」の番組で、地元の人の接待に俳句を詠(よ)んでお礼をしながら遍路を続ける或(あ)る一人の老人の様子を報じました。80歳になるこの遍路は、家財道具一式を台車に積んで俳句を詠んで札所を廻っていました。ペンネームを幸月(こうづき)といい、遍路雑誌を発行するシンメディア社から句集「風(かぜ)懐(ふところ)に歩(かち)三昧(ざんまい)」を出版し、俳人からも評価を受けるなど、地元ではよく知られた人物でした。
 しかし、この遍路がテレビ出演したことで、番組を見ていた警察官が12年前の殺人未遂事件の容疑者と気付き、この男は逮捕されることになりました。この容疑者が長期に亘(わた)って遍路を続け、世間を欺くことができたのは、四国遍路の習俗に接待があったからでした。
 歴史的に遡(さかのぼ)ると、かつて不治の病とされたハンセン病患者や、不倫した男女、多額な借財を抱えて身を持ち崩した人などは国元(くにもと)を追われ、生き延びるため、または死に場所をもとめて遍路に出ました。彼らが生き延びられたのは接待の施しがあったからです。遍路道(へんろみち)の道端(みちばた)には道中(どうちゅう)で倒れて死亡した人の遍路(へんろ)墓(ばか)が今も残っているそうです。
 
3. ゲリジム山(やま)とエルサレム
 
 ユダヤの国が南北に分かれていたときのことです。ユダヤ教の神殿は、南の「エルサレム」と、エルサレムから50km余り北にある「ゲリジム山」の2箇所ありました。南のエルサレムはユダ部族の宗教的中心地であり、北のゲリジム山はサマリア人(じん)の宗教的中心地でした。それぞれに壮麗(そうれい)な会堂が建てられ、宗教を生活の手段とする祭司たちや、そこを商売の場として利用する業者たちが群がっていました。
 たとえば、エルサレム神殿の境内(けいだい)では、いけにえの牛、羊、鳩などが売られ、両替商も店を出していました。それを見たイエスは、縄(なわ)で鞭(むち)を作って、牛や羊を境内から追い出し、両替商の金をまき散らして、鳩を売る者たちに、
「このような物はここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない」(新約聖書ヨハネによる福音書2章16節)
と言いました。
 エルサレムが「聖地」だというブランド名をほしがる祭司階級は、エルサレムでしか神の祝福が得られないとする誤った信仰を広めようとします。そして、それを利用する宗教商売がはびこります。祭司階級はその宗教商売を利用して私腹を肥やすのです。事情はゲリジム山でも同じでした。
 イエスはそれに対して、本当に神を礼拝する場所は、エルサレムでもゲリジム山(やま)でもないと言います。
「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(新約聖書ヨハネによる福音書4章24節)
と言うのです。
 殉教者(じゅんきょうしゃ)ステファノは、
「いと高き方(かた)は人の手で造(つく)ったようなものにはお住みになりません。神様は言われます、
『天はわたしの王座、
 地はわたしの足台。
 お前たちは、わたしに
   どんな家を建ててくれると言うのか。
 わたしの憩(いこ)う場所はどこにあるのか。
 これらはすべて、
   わたしの手が造ったものではないか』と。」
   (新約聖書使徒言行録7章48〜50節参照)
と言いました。
 すべてを超越している神が、この有限の人工物に閉じ込められるはずがないのです。神が特定の場所に住んでいるというのは、とんでもない迷信です。神を利用しようとする祭司階級(世俗化した牧師・神官・僧職)がでっち上げたものに過ぎません。でっち上げられた神は、商売人たち(結婚式業者・葬式業者・観光業者)の看板となり、金儲(かねもう)けの手段となるのです。宗教と金儲(かねもう)けは結びつきません。結び付けてはなりません。本当の宗教に、お金は一銭もいりません。お金と名誉をほしがる宗教は、インチキ宗教です。本当の神様は、私たちがいつ呼び求めても、近くにおられ、私たちが呼び求める先に、私たちのそばにおられるのです。神が遠いところにおられると思い込んで、ふらふらさまよい出なくてもいいのです。今いるところで、しっかりと自分の信仰を守らなければなりません。

4 青い鳥

 メーテルリンクの「青い鳥」は、6幕12場の童話劇ですが、人生の意味について、私たちに深いものを教えてくれます。
 貧しいきこりの子、チルチルとミチルの兄妹は、クリスマス前夜、妖婆の言いつけで、幸福の青い鳥を探しに出かけます。そして、思い出の国、夜の世界、未来の王国、死の国などを巡歴(じゅんれき)しますが、どこの国にも青い鳥はいそうで、いません。ついに二人は、むなしく自分の家にもどってきます。そして、目が覚めて、すべては夢であったことを知ります。そして、自分たちの家に飼(か)っていた一羽の鳩(はと)が、求めていた青い鳥であったことに気づきます。ところがその鳩は逃げ出してしまうのです。
 「みなさんの中で、どなたでも、あの鳥を見つけてくださった方(かた)があったら、私たちに返してくださいね。あれは、やがて、私たちの幸福のためにいるんですから」
と観客席に向かって呼びかけるチルチルのことばで幕が下ります。
 この劇の一つの解釈として、「青い鳥は、いつも身近にいるのだが、それに気がつかないだけである。しかも、幸福とは所有するものではなく、追い求めるものである」というのがあります。しかし、もう少し深く考えてみると、「追い求めていたものは、実は自分の手もとにあったのだが、それを握(にぎ)ろうとすると、たちまち飛び去ってしまうものである」ということを訴えようとしているように思えます。そして、「その握りを手放せば、すぐまた自分のところに戻ってくる。しかし、また握れば、また飛び去り、また手放せば、また戻ってくる」という重要なメッセージをふくんでいると思うのです。つまり、時々刻々、手放し、手放し、また手放し、することを、生涯続けることを説いているのではないでしょうか。
 これはまた、「絶えず目を覚まして根気(こんき)よく祈り続けなさい。」という新約聖書エフェソの信徒への手紙6章18節のことばとも一致します。「一度目を覚ませばそれで終わり」というものではありません。目を覚ましても、またすぐ眠りこけてしまうのが人間です。「一度祈ればそれで終わり」ではだめです。肉の体をもって生きている限りは、何度も何度も欲望に負け、何度も何度も罪に堕(お)ちるのが私たちです。この世は、罪との絶えざる戦いの世です。絶えず目を覚まして根気(こんき)よく祈り続けなければならないのです。「いつ呼び求めても近くにおられる神」を信じて、戦い続けなければなりません。

(2) 神の霊性と超越性(4章9〜24節)

「ホレブ」 シナイ山(ざん)。モーセが神から律法を与えられた山。
「万象(ばんしょう)」 あらゆる形。さまざまな現象。
「鉄の炉(ろ)」 鉄を溶(と)かす炉。試練の場。
「嗣業(しぎょう)」 相続財産。割り当てられた所有物。
「わたしに対して怒り」 イスラエルの民の不信仰と不服従の責めがモー
    セに負わされる。
「ヨルダン川」 パレスチナ最大の川。北のヘルモン山(ざん)(聖書巻末地図3参照)に端(たん)を発し、ガリラヤ湖(こ)を経(へ)て南下し、死海に流れ込む。全長は直線距離で約217キロ(阪神間から名古屋付近まで)、蛇行距離では400キロ。ヨルダン峡谷(きょうこく)の幅(はば)は、5キロ(およそ小林と西宮北口間)から20キロ(直線で小林と大阪城間)まで変化している。キリストが洗礼者ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けたのはヨルダン川であった。

(3) 偶像礼拝に対する審判(4章25〜31節)

「天と地を呼び出して」 大自然を証人として。

 イスラエルの民が、約束の地カナンで偶像礼拝の罪を犯すならば、ただちに神によって滅ぼされます。彼らは、亡国の民となり、捕囚の身となり、離散させられるでしょう。しかし、魂の底から神を求めるならば、かならず、神に出会います。苦しみの果て、人は覚めて、神に返るのです。ちょうど放蕩(ほうとう)息子(むすこ)が父のもとに帰ったように(新約聖書ルカによる福音書15章11〜32節)。

「先祖に誓われた契約」 アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた契約(旧約聖書創世記17章7,8節、26章2,3節、28章13〜15節)。

(4) 主こそ神(4章32〜40節)

「人間を創造された」 旧約聖書創世記1章27節参照。
「天の果て」 宇宙の究極。
「火の中から語られる神」 「火」は神の臨在を示す。旧約聖書出エジプト記20章18〜21節参照。

出エジプトの奇跡については、旧約聖書出エジプト記7〜14章参照。

「天から御声(みこえ)」 旧約聖書出エジプト記19章9,19節、20章18,22節、24章16節参照。
「強大な国々」 旧約聖書申命記7章1節参照。

(5) 逃れの町(4章41〜43節)

「逃れの町」 旧約聖書申命記19章1〜13節、旧約聖書ヨシュア記20章参照。過失で人を殺してしまった者が、弁明の機会を与えられないままで、遺族に殺されてしまわないために、一時的に保護される町。
「隣人を殺してしまった者」 故殺(こさつ)者。故意に人を殺した者。必ずしも計画的でなくても、一時の激情から人を殺した者も含まれる。計画的に人を殺せば謀殺(ぼうさつ)と言われる。
「ルベン」 ヤコブ(イスラエル)の長男。
「ベツェル」 ヨルダン川東岸モアブ領の町。メデバの北東ウム・エル・アマドと考えられている。
「ガド」 1. ヤコブとジルパとの第1子。
     2. 部族名。
     3. ダビデ時代の預言者。
     ここでは2を指す。
「ギレアド」 ヨルダン川東の山地。
「ラモト」 レビ人(びと)の町。
「マナセ」 ヨセフの長男。エフライムの兄。
「バシャン」 ヨルダン川の東、ヤボク川からヘルモン山(ざん)までの間、ゲネサレ湖(こ)(ガリラヤ湖)からハウラン山脈までの間の地帯を指(さ)す。聖書巻末地図3および5参照。
「ゴラン」 ガリラヤ湖の東28キロ、エル・アラン川の東岸とも考えられるが正確な位置は不明。現在のゴラン高原は、イスラエルが占領し、シリアと争っている。

(6) まえがき(4章44〜49節)

「ヘシュボン」 ヨルダン川の東方約29キロにあった町。エリコとほぼ同緯度。エルサレムから東へ約60キロ。ヤボク川とアルノン川の間にある。聖書巻末地図2参照。
「アモリ人(じん)」 パレスチナ住民の総称。
「シホン」 アモリ人(じん)の王。旧約聖書民数記21章21〜24節参照。
「ベト・ペオル」 ネボ山の北。シティムの南東4キロ。
「オグ」 バシャンの王。巨人の種族レファイム人(じん)の生き残り。旧約聖書民数記21章33〜35節参照。
「アルノン川」 死海東岸モアブ最大の川。モアブとアモリ人(じん)(パレスチナ先住民)との境界。南北80キロに及ぶ地帯の多くの支流を集め、死海に注ぐ。聖書巻末地図2参照。
「アロエル」 モアブの町。東方から死海中部に流れ込むアルノン川の北岸。聖書巻末地図5参照。
「シオン」「ヘルモン山(ざん)」 パレスチナ北部の秀峰(しゅうほう)。アンティ・レバノン山脈の南端をなし、海抜2814メートル、長さ32キロに及ぶ連山(れんざん)で、三つの頂(いただき)を持つ。聖書巻末地図3参照。
「アラバ」 ヨルダン峡谷(きょうこく)を含み、パレスチナを縦断する低地。
「ピスガ山(さん)」 死海東方のモアブ高地を北東から南西に延びているアバリム山脈のいちばん北にあるネボ山(やま)。モーセ終焉(しゅうえん)の地。聖書巻末地図2参照。
「アラバの海」 死海。

(7) 十戒(5章1〜21節)

「地の下の水」 原初の水。「ヘブライ人の宇宙像」参照。
「安息日(び)」 金曜日の日没から土曜日の日没まで。休息と礼拝の日。
「寄留者」 仮住(かりず)まいの者。旅人(たびびと)。同居人。

(8) 十戒が与えられた時(5章22〜33節)

「栄光」 神の尊厳、卓越、完全。

 神の絶対性は、相対の人間にとっては、死を意味します。そこで、モーセが神の意志を伝える仲立ちとなるよう、神から命じられます。

(9) 根本原理(6章1〜25節)

「乳と蜜の流れる土地」 豊饒(ほうじょう)な土地。エジプトとカナン。
「心」 ヘブライ語「レーバーブ」。意志。考え。志。悟り。胸。勇気。まん中。
「魂」 ヘブライ語「ネフェシュ」。息。命。思い。気。精神。願い。望み。本心。欲望。
「手に結び、額(ひたい)に付け」 「経札」参照。
「アブラハム」 テラの子。故郷カルデア(現イラク)のウルを離れて、神の命ずるままに、「行き先も知らずに」(新約聖書ヘブライ人(じん)への手紙11章8節)出発し、約束の地カナン(現パレスチナ)に入り、イサクの父となった。
「イサク」 アブラハムの子。エサウとヤコブの父。
「ヤコブ」 イサクと妻リベカの子。後(のち)にイスラエルと呼ばれた。12人の息子が生まれ、イスラエル12部族となった。
「あなたのただ中におられるあなたの神」 いつ呼び求めても近くにおられる神。
「マサ」 シナイ山付近のレフィデムの岩と思われるが正確な位置は不明。ヘブライ語では「試(ため)し」の意味。旧約聖書出エジプト記17章1〜7節参照。
「ファラオ」 エジプトの王。出エジプト当時のエジプト王は、アメンホテプ2世、あるいは、トウトメス3世、また、ラメセス2世とする諸説がある。
「エジプトから導き出された」 旧約聖書出エジプト記7〜14章参照。

52 旧約聖書申命記1章1節〜3章29節 2008/06/19

  水 野 吉 治

(1)申命記とは

 「申命記」という表題は、漢訳(中国語訳)聖書の表題をとったものです。「申」は「かさねる、繰り返す」を意味し、「申命」は「かさねて命令する」、「第二の命令」という意味になります。ヘブライ語聖書では、書き出しの「これらの言葉」(エーレ・ハデバーリーム)をそのまま表題にしています。
 イスラエル民族の先祖アブラハムは、現イラク南部のウル(サマーワの南)に端を発し、民族移動を始めて、ユーフラテス川に沿って北上し、ハランに達して反転して、南に向かい、カナンに入ります(聖書巻末地図1参照)。飢饉に追われて、再び民族移動が始まり、エジプトに移住して、そこで奴隷にされます。しかし、モーセに率いられてエジプトを脱出し、荒れ野を40年間さまよった後、カナンにたどり着くのです。
 民族の古い世代は死に絶え、今や新しい世代となったイスラエル民族に対して、120歳のモーセは最後の力を振り絞って、決別の説教をしようとします。それが「申命記」として残されているのです。

(2)序言(1章1〜5節)

「モーセ」 レビ人アムラムと妻ヨケベドの間に生まれた。上には3歳年上の兄アロンと姉ミリアムがいた。イスラエル民族を率いてエジプトを脱出し、カナンに入る前に、アロンもミリアムも死んだ。
「イスラエル」 1 ヤコブの別名。
        2 ヤコブの子孫の国民。
        3 北王国の名前。
「ヨルダン川」 北のヘルモン山に端を発し、ガリラヤ湖を経て南下し、死海に流れ込むパレスチナ最大の川。
「パラン」 1 シナイ半島中央部にある荒れ野。聖書巻末地図2参照。
      2 山の名。位置不明。
      3 ミディアンとエジプトの間にある場所。
      ここでは1を指す。
「トフェル」 死海の南東24キロのエ・タフィーレとする説がある。
「ラバン」 荒れ野におけるイスラエルの民の宿営地の一つ。
「ハツェロト」 荒れ野におけるイスラエルの民の宿営地の一つ。「村々」を意味する。シナイ山の北東58キロのアイン・カドラとされる。聖書巻末地図2参照。
「ディ・ザハブ」 「金に富む場所」の意味。モーセが最初に説教をした場所。
「スフ」 位置不明。
「アラバ」 ヨルダン峡谷を含みパレスチナを縦断する低地。「荒れ野」「砂原」の意味。
「ホレブ」 シナイ山。「荒れ地」「旱魃」の意味。
「セイル」 エドムにある山。死海からアカバ湾にかけてのヨルダン地溝(アラバ)と砂漠との間にある山岳地帯で、標高1500〜1700メートル。
「カデシュ・バルネア」 イスラエル南境を形成するパランの荒れ野にある町。聖書巻末地図2参照。
「十一日の道のり」 約256〜272キロメートル。
「第四十年」 モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトを出てから40年目。
「第十一の月の一日」 ホル山でアロンが死んでから6ヶ月目。
「主」 ヤハウエ。イスラエルの神。
「ヘシュボン」 ヨルダン川の東方約29キロにあった町。エリコとほぼ同緯度。エルサレムから東へ約60キロ。ヤボク川とアルノン川の間にある。聖書巻末地図2参照。
「アモリ人」 パレスチナ住民の総称。
「シホン」 アモリ人の王。旧約聖書民数記21章21〜24節参照。
「アシュタロト」 ヨルダン西岸に位置し、バシャンの王オグに属した主要都市の一つ。
「バシャン」 ヨルダン川の東、ヤボク川からヘルモン山までの間、ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)からハウラン山脈までの間の地帯を指す。
    聖書巻末地図3および5参照。
「オグ」 バシャンの王。巨人の種族レファイム人の生き残り。旧約聖書民数記21章33〜35節参照。
「エドレイ」 バシャンの首都。
「モアブ」 ヨルダン川と死海の東。アルノン川とゼレド川の間の高原地帯を指す。聖書巻末地図2参照。
「この律法」 旧約聖書申命記1章6節以下。

(3)約束と命令(1章6〜8節)

「シェフェラ」 低地。パレスチナの中央山岳地帯と海岸地帯との間にある丘陵地帯。
「ネゲブ」 ヘブロン南方の放牧地帯。聖書巻末地図2でカナンと記されているあたりを指す。
「沿岸地方」 地中海岸に沿って南北に走る平原。
「カナン人」 パレスチナ住民の総称。
「レバノン山」 シリアの山脈。南端は北ガリラヤの丘陵に続く。「レバノン」はヘブライ語「白」の派生語。石灰岩の白さと、頂上の雪の白さに関係している。聖書巻末地図3参照。
「ユーフラテス」 西アジア最大の川。全長約2800キロ。日本最大の川信濃川でも369キロ。淀川にいたっては79キロ。
「アブラハム」 テラの子。兄弟はナホルとハラン。妻はサラ。
「イサク」 アブラハムの子。エサウとヤコブの父。
「ヤコブ」 イサクと妻リベカの子。後にイスラエルと呼ばれた。12人の息子が生まれ、イスラエル12部族となった。

(4)役職者の任命(1章9〜18節)

「わたし」 モーセ。
「役人」 文字を使って記録することにかかわる職。つかさ。かしら。
「裁判人」 訴えを弁護する人。罪に定める人。公平に扱う人。
「寄留者」 仮住まいの者。旅人。同居人。

(5)偵察隊の派遣(1章19〜25節)

旧約聖書民数記13章の記事が繰り返される。

「あなたたち」 イスラエルを構成する一人一人に対する呼びかけ。
「あなた」 イスラエルの共同体全体に対する呼びかけ。
「エシュコルの谷」 「ぶどうの房の谷」の意。ヘブロンの北西5キロ。聖書巻末地図2参照。

(6)神に対する不信(1章26〜33節)

「アナク人」 ヘブロンを中心とするユダ山地に居住するカナン先住民。
「火の柱」「雲の柱」 旧約聖書出エジプト記13章21、22節参照。

特註 私を背負い給う神

第1話 「バラの秘密−大男レプロボスの一生」   

 むかし、シリアという国の山の中に、一人の大男が住んでいました。身長は、人の住む家の、二階の屋根よりも高く、たいへんな力持ちでした。もじゃもじゃの髪の毛をしていて、その髪の毛の中には、鳥たちが巣を作っていました。この大男が歩くと、ずしんずしんという音で、地震のように、地面がゆれました。大男の名前は、レプロボスといいました。たいへんな力持ちでしたが、けっして、悪いことはせず、困っている人間たちや、動物たちを、いつも助けてやりました。

 あるとき、レプロボスは、自分より力の強い人がいたら、その人の家来になりたいと思い、旅に出ました。レプロボスの髪の毛に巣を作っていた鳥たちは、いつのまにかいなくなっていました。そして、世界一強いという、アンティオキアの将軍の家来になりました。それを見た悪魔は、レプロボスをだまして、自分の家来にしました。悪魔は、レプロボスを、エジプトにつれて行きました。

 そのとき、エジプトの荒野で修行していた修道士が、十字架で悪魔を打つと、悪魔が消えてしまいました。それで、レプロボスは、十字架の力こそ、世界でいちばん強いということを知りました。修道士から、十字架の力は、イエス・キリストから来ている、ということを聞いたレプロボスは、
「そのイエス・キリストというかたに、会わせてください」
と、修道士にたのみました。修道士は、
「いちど、悪魔の家来になった人間は、枯れ木に、バラの花が咲くまでは、イエス・キリストに会うことはできません」
といいました。レプロボスは、それでも、あきらめることができず、修道士に、必死にたのみました。すると修道士は、
「南のほうに、大きな川があって、流れがはやく、渡ろうとする人が、おぼれて死ぬこともあります。あなたは、力が強いから、その川へ行って、川を渡る人を助けてあげなさい。そうすれば、いつか、イエス・キリストに会うことができるでしょう」
といいました。レプロボスは、
「わたしは、その川の、渡し守になります」
といいました。修道士は、
「では、あなたに、バプテスマをさずけてあげましょう」
といいました。そして、修道士は、レプロボスの頭に、水をそそぎました。すると、どこからともなく、鳥たちが飛んできて、レプロボスの頭にとまりました。以前、レプロボスの髪の毛の中に巣を作っていた鳥たちでした。修道士は、レプロボスに「キリシトホロ」という名前をつけました。キリシトホロとなったレプロボスは、いわれたとおり、川へ行きました。そこへ、掘っ立て小屋をたて、生えていたやなぎを引き抜いて、それを杖にして、人々を肩に背負って、川を渡してやりました。そのようにして、3年間、雨の日も風の日も、人々を渡し続けました。

 ある晩、たいへんなあらしになりました。そのとき、一人のこどもが、キリシトホロのところにやってきて、
「川を渡りたいのですが、おねがいできますか」
といいました。キリシトホロは、そのこどもに、
「こんなあらしの夜なかに、ひとりでどこへ行くのか」
といいました。こどもは、
「わたしの父のところにかえるのです」
といいました。キリシトホロは、
「では、渡してあげよう」
といって、こどもを肩に背負い、やなぎの杖をつきながら、あらしの川のなかにはいりました。風雨ははげしく吹きつけ、雷が鳴り、川はさかまき、渦を巻いて流れています。さすがの大男キリシトホロも、急流に足をとられそうになりながら、杖にすがり、いっしょうけんめいこらえて、一歩一歩、足を踏みしめて、歩いてゆきました。

 幾度も倒れそうになりながら、歩いてゆくうちに、肩にのせている男の子が、だんだん重くなってきました。やっと、川の真ん中まで来たとき、男の子は、鉄のかたまりのように重くなっていました。あまりの重さにたえきれず、キリシトホロは、力尽き、おぼれて、沈みそうになりました。ふと、気がつくと、鳥たちがさえずっているのが聞こえます。肩の男の子を見ると、まぶしい光が、輪のように、男の子の顔を取り囲んでいます。鳥たちは、あらしにも負けず、男の子のまわりを、さえずりながら、飛びまわっています。それを見て、キリシトホロは、気力をふりしぼって、必死に、流れに逆らい、向こう岸を目指して、歩き続けました。息もたえだえになりながら、やっと、岸にたどり着いて、やなぎの杖を、岸の砂に突き刺して、男の子を、肩からおろしました。そして、あえぎあえぎ、男の子に向かって、
「こどもだというのに、なんという重さだ」
といいました。すると、男の子は、にっこり笑って、
「それはそうでしょう。あなたは、今夜こそ、世界の罪を背負ったイエス・キリストを、肩に乗せていたのですから」
といいました。

 その晩から、キリシトホロの姿が見えなくなりました。翌朝、枯れたやなぎの杖が、岸の砂に突き刺されたまま、残っていました。その杖には、真っ赤なバラの花が、朝日に照らされて、美しく、咲いていました。
                                    
(註)
 この話は、芥川龍之介の「きりしとほろ上人伝」を翻案したものです。芥川は、それを、キリシタン版「れげんだ・おうれあ」から取ったと言っています。「れげんだ・おうれあ」は、「黄金伝説」(黄金聖人伝)のことで、13世紀後半に、ジェノヴァの大司教、ヤコブス・デ・ウォラギネ(ヤコポ・ダ・ヴァラッツェ)が編纂したものです。「きりしとほろ」は、「クリストフォロス」というギリシア語で、「キリストを背負った者」、「キリストを運んだ者」という意味です。「クリストフォロス」という人物は、実在しており、古代ローマのデキウス帝(紀元249年から251年までざいい在位)の迫害にあい、殉教しています。彼は、カトリックでは、「14救難聖人」の中の一人に数えられ、「突然死」から守ってくれる聖人として、5世紀からあがめられており、現代では、欧米で、自動車を運転する人の守護聖人として、彼のメダルが、車につけられているのが見られるそうです。                                

第2話 「あしあと」
(1964年10月10日マーガレット・フィッシュバック・パワーズ作)

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の、つい最近の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目をとめた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心に引っかかっていたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

 「主よ、わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」

主は、静かに言われた。
 「わたしの大切な子よ。
 わたしは、おまえを愛している。
 おまえを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試練の時に、絶対にそんなことはしない。
 あしあとがひとつしかなかったのは、わたしがおまえを背負って歩いていたからなのだ。」

(註)
 この詩はよく知られていますが、この詩がこうむった苦難の歴史は、あまり知られていません。パワーズというアメリカ人女性が作ったこの詩は、彼女の知らない間に、いつのまにか、盗作され、改竄され、余計な物語の尾ひれまでつけられて、さまざまの他人の名前で出版され、時には「作者不明」として、アメリカ、カナダ全土で発売されました。もちろん、パワーズさんには、どこからも出版の許可を求めてきたことはありません。まして、パワーズさんにお金が支払われたこともありません。
 もう一つ、この詩がこうむった被害があります。この詩でうたわれている、「わたしを背負って、歩いてくださるキリスト」の話が、まったく別の話と、しばしば混同されてきたのです。その別の話とは、第一話の「大男レプロボスの一生」です。「幼児キリストを背負った大男レプロボス」と、「わたしを背負って、歩いてくださるキリスト」の姿とが、混同されてしまったのです。両方を読み比べれば、根本的に違った内容であることは、一目瞭然です。「大男レプロボス」は、自分で気がつかないうちに、幼児キリストを背負っていたことによって、キリストの背負った、全世界の罪の重さを実感しました。「あしあと」のほうは、自分で気がつかないうちに、キリストに背負われていたことによって、キリストの愛の大きさを実感したという内容です。「あしあと」も「大男レプロボスの一生」も、等しく、人を感動させる力を持っています。そのために、いつのまにか、人々の頭の中で混同され、一つの話として、作り変えられてしまったのです。「あしあと」のたどった被害と誤解の歴史は、まさに、この詩のすばらしさのゆえに、歩まなければならなかった、受難のイバラの道なのでしょうか。

 さて、第1話は、「気が付くと、キリストが、全世界の罪を、一人で背負ってくださっていた」ということを物語ろうとしています。第2話は、「気が付くと、わたしは、キリスト一人に背負われていた」ということをうたおうとしています。その二つに共通しているのは、「気が付くと」という点です。それまでは、まったく、気が付いていなかった救いに、初めて気が付いたということです。しかも、今まで、気が付いていなかったときにも、救いの力は働き続けていたし、今後も、救いの力を忘れてしまうようなことがあっても、救いの力は働き続けているだろうということを、物語っているのです。

第3話 旧約聖書詩編139篇

「主よ、あなたはわたしを究め
 わたしを知っておられる。」(1節)

 人間は自分自身のことをどれほど知っているでしょうか。自分の体のことでさえ、ほとんど何も知りません。医者や自然科学者が、人間について何もかも知っていると思うのは、傲慢もはなはだしいです。

「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに
 主よ、あなたはすべてを知っておられる。」(4節)

 言葉で表現し、理解することで、すべてが分かったと思いがちですが、「分かった」と思い込んでいるだけです。「分かった」というのは、とんでもない誤解なのです。言葉も、表現も、理解も届かないところに、真理はあるのです。

「前からも後ろからもわたしを囲み
 御手をわたしの上に置いていてくださる。」(5節)

 神の力は、わたしの見えないところ、気づかないところに働いています。「見えないから存在しない」のではありません。どんな強力な存在も、見える存在である限りは、いつかは消えて行きます。見えないからこそ、永遠に働き続けて行くのです。

「その驚くべき知識はわたしを超え
 あまりにも高くて到達できない。」(6節)

 神の力は、認識を超え、感覚を超えています。所詮有限は、無限を容れる器ではあり得ません。有限は、無限を認識することはできないのです。

「どこに行けば
   あなたの霊から離れることができよう。
 どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。」(7節)

 神の支配の届かない場所は、この宇宙に存在しません。

「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし
 陰府に身を横たえようとも
   見よ、あなたはそこにいます。」(8節)

 地獄に堕ちても、そこも神の支配するところです。

「わたしは言う。
 『闇の中でも主はわたしを見ておられる。
  夜も光がわたしを照らし出す。』」(11節)

 人工的な光をいくら煌々と照らしても、それで闇が消えるわけではありません。

「闇もあなたに比べれば闇とは言えない。
 夜も昼もともに光を放ち
 闇も、光も、変わるところがない。」(12節)

 神の支配の光は、この世の光と闇を超えた、根源的・絶対的な光です。

「胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
 わたしの日々はあなたの書にすべて記されている。
 まだその一日も造られないうちから。」(16節)

 宇宙が存在する前から、すでに神の支配は始まっています。

「あなたの御計らいは
   わたしにとっていかに貴いことか。
 神よ、いかにそれは数多いことか。
 数えようとしても、砂の粒より多く、
 その果てを極めたと思っても、
   わたしはなお、あなたの中にいる。」(17、18節)

 どこまで行っても、神の支配の中です。人間は、神の支配の外に出ることはできません。出たと思っても、まだ神の支配の中にいます。『神の中に生き、動き、存在する』のが人間です(新約聖書使徒言行録17章28節)。知っても、知らなくても、信じても、信じなくても、絶対的に、根源的に、神の支配の中にいるのが人間なのです。

(7)神の怒りと民の不服従(1章34〜46節)

「エフネ」 1 カレブの父。
      2 アシェルの子孫。イエテルの子。
      ここでは1を指す。
「カレブ」 1 ケナズ人エフネの子。
      2 ヘツロンの子エラフメエル兄弟。
      ここでは1を指す。
「ヌン」 エフライムの子孫。ヨシュアの父。
「ヨシュア」
      1 エフライム族の家系の長エリシャマの子ヌンの子。ホシェアと呼ばれていたが、モーセによってヨシュアと改名された。
      2 ベト・シェメシュの人。
      3 ヨシヤ王の時のエルサレムの町の長。
      4 ヨツァダクの子。エルサレム神殿の再建の時、ユダの総督ゼルバベルのもとで大祭司だった。
      5 イエス・キリストの先祖の一人。
      ここでは1を指す。
「嗣業」 相続人が受け継ぐ財産。
「略奪されてしまうと言っている乳飲み子」 旧約聖書民数記14章29〜31節参照。
「善悪をわきまえていない」 道徳的な責任がなく、したがって親たちの罪に対して責任がない。
「葦の海」 1 イスラエルの民が渡った海。旧約聖書出エジプト記14、15章に記されている奇跡が起こった場所。
      2 紅海(スエズ湾またはアカバ湾)。聖書巻末地図2参照。
      ここでは2を指す。
「主の命令に背き、山地へ上って行った」 旧約聖書民数記14章40〜45節参照。
「ホルマ」 ベエル・シェバの南東20キロ、塩の谷にあるキルベト・エル・メシャーシュとされる。聖書巻末地図2参照。
「カデシュ」 パレスチナ南端のパランの荒れ野にあった土地。聖書巻末地図2参照。

(8)エドム通過(2章1〜8節)

「親族」 アブラハムとサラの間に生まれた子がイサク。イサクの子がヤコブとエサウ。ヤコブはイスラエル12部族の祖先。したがってイスラエルとエサウは親族となる。
「エサウ」 イサクの双子の息子の一人。セイルの山地に住み、その子孫はエドム人となった。
「エイラト」 アカバ湾の北方、エドムの港町。
「エツヨン・ゲベル」 アカバ湾に面した場所。イスラエルの民がカナンに向かう途中宿営した。聖書巻末地図2参照。
「アラバ」 ヨルダン峡谷を含み、パレスチナを縦断する低地。

(9)モアブ通過(2章9〜15節)

「アル」 死海の東の町。アルノン川南側流域に位置する。
「ロト」 アブラハムの兄弟ハランの子、すなわちアブラハムの甥。
「エミム人」 死海の東方モアブの地に住んでいた先住民族。
「レファイム人」 パレスチナの先住民。巨人だったとされる。
「フリ人」 セイルの山地に住んでいた穴居人種。エドムの先住民。
「ゼレド川」 エドムとモアブの国境。
「カデシュ・バルネア」 パランの荒れ野にある町。
「三十八年」 旧約聖書民数記14章33、34節参照。エジプト脱出から数えると40年。
「混乱」 旧約聖書民数記14章36〜38節参照。

(10)アンモン人に対して(2章16〜25節)

「アンモン人」 ロトの末娘と父ロトの間に生まれた子から出た氏族。姉娘の子はモアブ。ロトと二人の娘との父子相姦物語は、旧約聖書創世記19章30〜38節に記されている。アンモン人の国境は堅固だったので、イスラエルはアンモン人の領土へは入れなかった。
「ザムズミム人」 パレスチナの原住民。
「カフトル島」 エジプトから出たカフトル人の居住地。クレタ島を指す。聖書巻末地図1参照。
「ガザ」 ペリシテの5大都市(アシュドド、ガザ、アシュケロン、ガト、エクロン)の中で最南端の町。聖書巻末地図4参照。

 ガザは、現在、南はエジプト、西は地中海、北と東はイスラエルに接しています。その境界は第1次中東戦争(1948年〜1949年)後にイスラエルとエジプトの停戦協定できめられました。1967年〜1994年、ガザ地区はイスラエルによって占領・統治されていましたが、1994年5月にユダヤ人入植地をのぞいてはパレスチナ自治政府の管轄するところとなりました。
 当時イスラエルの首相だったシャロンは、入植地維持にかかる経費の増大に対処し、イスラエル国内の治安を維持するため、パレスチナ分離計画を策定しました。これにしたがい、ヨルダン川西岸地区の入植地周辺でパレスチナ人を排除するための分離フェンスを建設する一方、2005年8月、ユダヤ人入植者の抵抗をおしきってガザ地区から入植地を撤去し、同時にイスラエル軍を撤退させました。こうして、ガザ全域がパレスチナ自治政府の支配下に入りました。しかし、ガザ地区からユダヤ人と軍はいなくなったものの、この地区からのパレスチナ人の出入りはイスラエル軍に完全に管理されており、また地区内のパレスチナ過激派拠点に対するミサイル攻撃もこれまで同様におこなわれるなど、制空・制海権はイスラエルににぎられており、真の解放にはほど遠いのが実態です。

「アビム人」 パレスチナのガザ近郊に住んでいた先住民。
「アルノン川」 死海東岸モアブ最大の川。モアブとアモリ人(パレスチナ先住民)との境界。南北80キロに及ぶ地帯の多くの支流を集め、死海に注ぐ。聖書巻末地図2参照。

(11)シホンに対する勝利(2章26〜37節)

「ケデモト」 アルノン川上流の町。
「ヤハツ」 アモリ人の王シホンの町。
「アロエル」 モアブの町。東方から死海中部に流れ込むアルノン川の北岸。聖書巻末地図5参照。
「ギレアド」 ヨルダン川東の山地。
「ヤボク川」 アンモン人の西の境界。ヤボクの渡し(ペヌエル)で、ヤコブが神と格闘した。そのときからヤコブはイスラエルという名前になった。聖書巻末地図3参照。

(12)バシャンの王オグの国を占領(3章1〜7節)

「アルゴブ」 オグの王国。バシャンの一地方。

(13)占領した土地の分割(3章8〜17節)

「ヘルモン山」 パレスチナ北部の秀峰。アンティ・レバノン山脈の南端をなし、海抜2814メートル、長さ32キロに及ぶ連山で、三つの頂を持つ。聖書巻末地図3参照。
「シドン」 フェニキアの町。地中海に面する港町。現在のレバノン共和国の中に位置し、サイダと呼ばれている。聖書巻末地図3参照。
「シルヨン」 ヘブライ語では「鎧」。
「セニル」 ヘブライ語の原意不明。
「ギレアド」 ヨルダン川東の山地。聖書巻末地図3参照。
「サルカ」 バシャンの王オグの町の一つ。
「エドレイ」 バシャンの首都。オグの居城がある。
「ラバ」 アンモン人の都市。ヘシュボン北東22キロ、ヨルダン川東35キロ、ヤボク川上流北岸の丘の上の町。聖書巻末地図4参照。
「アンマ」 約45センチ。9アンマは約4メートル5センチ。4アンマは約1メートル80センチ。オグの棺の大きさが想像できる。
「ルベン」 ヤコブとレアとの第1子。
「ガド」 ヤコブとジルパとの第1子。
「マナセ」 ヨセフの長男。エフライムの兄。
「半部族」 マナセ部族は、ヨルダン川の東岸地区と西岸地区に分かれて入植したので、どちらか一方をさす場合、半部族と言った。ここでは東岸地区の半部族。
「アルゴブ」 オグの王国。バシャンの一地方。
「ヤイル」 ユダ族ヘツロンの子孫。セグブの子(旧約聖書歴代誌上2章22節による)。
「ゲシュル」 ヨルダン川上流、ガリラヤ湖(キネレト湖)の東にあった国家。
「マアカ」 北はヘルモン山、西は上部ヨルダン川を国境とし、南はアラムの小国ゲシュルに接する国家。
「ハボト・ヤイル」 ギレアド(地名)とバシャンの境界あたりにあった町々。
「マキル」 ヨセフの子マナセの長子。ギレアド(人物名)の父。
「ピスガ」 死海東方のモアブ高地を北東から南西に延びているアバリム山脈のいちばん北にあるネボ山。モーセ終焉の地。聖書巻末地図2参照。
「塩の海」 死海。

(14)二部族半への命令(3章18〜20節)

 ルベン、ガドの二部族とマナセの半部族に土地が割り当てられるが、彼らの戦士たちは、まだ戦い続けなければならない。他のすべての部族が土地を獲得すれば、戦士たちは家族のもとに帰ることができる。

(15)ヨシュアに対する激励(3章21〜29節)

「ベト・ペオル」 ネボ山の北。シティムの南東4キロ。


引用・参考文献

「ハーパー聖書注解」(教文館1996年)
「口語旧約聖書略解」(日本基督教団出版部1960年)
「口語新約聖書略解」(日本基督教団出版部1955年)
  「新聖書注解 旧約1」(いのちのことば社1977年)
「旧約聖書註解シリーズD 申命記」(新教出版社1958年)
  「聖書 旧約聖書続編つき 新共同訳 引照つき」(日本聖書協会1998年)
「聖書 原文校訂による口語訳 申命記」(中央出版社1989年)
「旧約聖書V 民数記 申命記」(岩波書店2001年)
「聖書講解全書<5> 申命記・ヨシュア記」(日本基督教団出版局1980年)
「聖書語句大辞典」(教文館1959年)
「コンコルダンス」(新教出版社1962年)
  「新共同訳聖書コンコルダンス」(新教出版社1999年)
  「The Interlinear Bible ‐ Hebrew Greek English」(BAKER BOOK HOUSE 1986年)
「Analytical Hebrew and Chaldee Lexicon」(BAGSTER 1794)
「聖書大辞典」(新教出版社1953年)
「新エッセンシャル聖書辞典」(いのちのことば社2006年)
「聖書辞典」(日本基督教団出版部1961年)
「聖書年表・聖書地図」(女子パウロ会1989年)
「キリスト教との出会い 聖書資料集」(日本キリスト教団出版局2004年)
  「キリスト教大事典 改訂新版」(教文館1981年)
「岩波キリスト教辞典」(岩波書店2002年)
「カトリック小事典」(エンデルレ書店2000年)
  「世界大百科事典」(平凡社1974年)
「類語大辞典」(講談社2002年)
「広辞苑」(岩波書店1966年)
「イスラエル民族史」(日本基督教団出版部1951年)
「イスラエル宗教文化史」(岩波書店1959年)
「イスラエル文学史」(日本基督教団出版部1952年)
「古代ユダヤ教」(岩波書店2004年)
「わかるユダヤ学」(日本実業出版社2007年)


T.聖書を読む 2008/05/11

                         水 野 吉 治

51 旧約聖書民数記34章1節〜36章13節

(1)約束の地の境界線(34章1〜15節)

「主」 ヤハウエ。イスラエルの神。
「モーセ」 レビの氏族アムラムとヨケベドを両親として生まれた。姉はミリアム、兄はアロン。
「イスラエル」 
  1.ヤコブに与えられた新しい名前。
  2.ヤコブの12人の息子を父祖とする国民。
  3.王国分裂後の北王国の名前。
「カナン」
  1.ノアの息子ハムの子孫。
  2.神からイスラエルに約束された土地。現パレスチナ。
「嗣業」 相続財産。
「エドム」 1. イサクの長子で、ヤコブの兄。エサウの別名。
      2. エサウから出た氏族名。
      3. パレスチナの南南東、死海の南からアカバ湾に至る地域。聖書巻末地図2参照。
「ツィン」 死海の西南の荒れ野。聖書巻末地図2参照。
「塩の海」 死海。
「アクラビム」 死海の南西32キロにある現在のサファ峠とされる。
「カデシュ・バルネア」 パランの荒れ野にある町。聖書巻末地図2参照。
「ハツァル・アダル」 カデシュ・バルネアからエジプトの川にいたる中間に位置する町。
「アツモン」 カデシュ・バルネアの北西6キロにある町。聖書巻末地図2参照。
「エジプトの川」 シナイ半島の中央部から北東に流れ、カデシュ・バルネアの西あたりで曲がって北西に流れ、ガザの南西80キロの地点で地中海に注いでい    る川。イスラエルとエジプトの国境をなしていたために「エジプトの川」と呼ばれたと思われる。
「大海(おおうみ)」 地中海。
「ホル山(さん)」 1. エドムの国境の山。聖書巻末地図2参照。
          2. カナン北境の山。レバノン山脈の一つの峰。レバノン山(さん)は聖書巻末地図3参照。
          いずれも正確な位置は不明。
          ここでは2を指す。
「レボ・ハマト」 「ハマト(聖書巻末地図1参照)の入り口」の意味。ダマスコ(聖書巻末地図1参照)の80キロ北にある平原ベカアの谷にあるレブウエであ    ると言われる。
「ツェダド」 ビブロスの東北東110キロにある村ツァダドとも、ダンの北4.5キロにあるキルベト・ツェラーダーとも言われる。
「ジフロン」 シブライムとも、セファルワイムとも言われるが、正確な場所は不明。
「ハツァル・エナン」 ダマスコ(聖書巻末地図1参照)からパルミラへ行く街道のキルヤテインだとされる。
「シェファム」 カナンの北東の境界線を形成する場所。
「アイン」 1. カナンの北西部に位置する町。
      2. ユダ南部の町。
      3. ネゲブにあるレビ人(びと)の町。
      ここでは1を指す。
「リブラ」 1. カナンの東の境界線を形成する地。
      2. ハマト(聖書巻末地図1参照)の南80キロの地。
      ここでは1を指す。
「キネレト湖」 ガリラヤ湖。
「半部族」 マナセ部族は、ヨルダン川の東地区と西地区に分かれて入植したので、どちらか一方を指す場合、半部族と言った。
「ルベン」 ヤコブ(イスラエル)の長男。
「ガド」 1. ヤコブとジルパとの第1子。
     2. 部族名。
     3. ダビデ時代の預言者。
     ここでは1を指す。
「マナセ」  1. ヨセフの長男。エフライムの兄。
       2. 部族名。
       3. 南王国ユダの王。
      ここでは1を指す。
「エリコ」 死海(塩の海)に注ぐヨルダン河口から北西約16キロにある、堅固に城塞化された町。聖書巻末地図2および3参照。

(2)土地分配の責任者(34章16〜29節)

「祭司」 神と人との仲介者として、神殿の祭事をつかさどる職。
「エルアザル」 
    1. アロンの第3子。レビ人(びと)の代表者たちの代表。2代目の大祭司。
    2. レビ人(びと)メラリの子であるマフリの子。
    3. キリアト・エアリムの人であるアビナダブの子。
    4. アホア人(じん)ドドの子。ダビデの勇士の一人。
    5. ピネハスの子。エズラ時代の祭司。
    6. パルオシュの一族の一人。異民族の妻を離縁するようエズラに諭されて同意した。
    7. ネヘミヤ時代のエルサレム城壁の落成式にあたって、詠唱者として歌った祭司たちの一人。
    8. マリアの夫ヨセフの曽祖父。
    ここでは1を指す。
「ヌン」 エフライムの子孫。ヨシュアの父。
「ヨシュア」
    1. エフライム族の家系の長エリシャマの子ヌンの子。ホシェアと呼ばれていたが、モーセによってヨシュアと改名された。
    2. ベト・シェメシュの人。
    3. ヨシヤ王の時のエルサレムの町の長。
    4. ヨツァダクの子。エルサレム神殿の再建の時、ユダの総督ゼルバベルのもとで大祭司だった。
    5. イエス・キリストの先祖の一人。
    ここでは1を指す。
「ユダ」 1. ヤコブの第4子。イエス・キリストはその子孫。
     2. 部族名。
     3. イスラエル王国分裂後の南王国の名称。北王国の名称はイスラエル。
     4. ゼルバベルといっしょにバビロン捕囚から帰還したレビ人(びと)。(旧約聖書ネヘミヤ記12章8節)
     5. バビロン捕囚から帰還後、エズラの勧告に従って異民族の妻を離縁したレビ人(びと)。(旧約聖書エズラ記10章23節)
     6. セヌアの子。(旧約聖書ネヘミヤ記11章9節)
     7. バビロニアによって破壊されたエルサレム神殿の再建に際し、城壁の落成式に参与した長たちの一人。(旧約聖書ネヘミヤ記12章34節)
     8. 上記7の際の祭司で楽人(がくじん)。(旧約聖書ネヘミヤ記12章34節)
     9. イエス・キリストの祖先の一人。バビロン捕囚前の人物と思われる。(新約聖書ルカによる福音書3章30節)
     10. 紀元7年ごろの住民登録のとき反乱を起こしたガリラヤ人。(新約聖書使徒言行録5章37節)
     11. イエスを裏切ったイスカリオテのユダ。シモンの子。
     12. ヤコブの子。イエスの12弟子の一人。
     13. イエスの兄弟の一人。
     14. 使徒パウロがダマスコで滞在した家の主人。
     15. バルサバと呼ばれるユダ。エルサレム教会の指導者の一人。
     16. 新約聖書ユダの手紙の著者。
     ここでは2を指す。
「エフネ」 1. カレブの父。
      2. アシェルの子孫。イエテルの子。
      ここでは1を指す。
「カレブ」 1. ケナズ人(じん)エフネの子。
      2. ヘツロンの子エラフメエル兄弟。
      ここでは1を指す。
「シメオン」 ヤコブの第2子。
「アミフド」
     1. エフライム人(びと)。その部族の指導者エリシャマの父。
     2. モーセ時代にシメオン部族の指導者に選ばれたシェムエルの父。
     3. ユダの子ペレツの子孫で、その氏族の指導者ウタイの父。
     4. ゲシュルの王。
     5. モーセ時代にナフタリ部族の指導者に選ばれた人物。ペダフエルの父。
     ここでは1を指す。
「シェムエル」
     1. アミフドの子。
     2. イサカルの子であるトラの子。
     ここでは1を指す。
「ベニヤミン」 ヤコブの末子。ヨセフの弟。
「キスロン」 ベニヤミン族の指導者エリダドの父。
「エリダド」 キスロンの子でベニヤミン族の指導者。
「ダン」 1. ヤコブの第5子。
     2. 部族名。
     3. イスラエルの境界の北端にあった町。
     ここでは1を指す。
「ヨグリ」 ダン族の指導者ブキの父。
「ブキ」 1. ダン族の指導者でヨグリの子。
     2. レビ族アロンの子孫。エルアザルの曾孫。
     ここでは1を指す。
「ヨセフ」 
    1. ヤコブの第11子。兄弟から憎まれ、エジプトに売られる。そこで宰相となり、飢饉に悩むヤコブ一家をエジプトに移住させる。ヨセフからマナセ      族とエフライム族が出た。
    2. 部族名。通常ヨセフ族の代わりにエフライム族とマナセ族が部族名として用いられる。
    3. イサカル族で、イグアルの父。
    4. アサフの子。
    5. バビロン捕囚から帰還後、エズラの勧告に従って異民族の妻を離縁したバニ族の一人。(旧約聖書エズラ記10章42節)
    6. ヨヤキム時代の、シェバンヤけ家の祭司。
    7. イエス・キリストの祖先の一人。(新約聖書ルカによる福音書3章24節)
    8. イエス・キリストの祖先の一人。(新約聖書ルカによる福音書3章30節)
    9. イエス・キリストの母マリアの夫。
    10. イエス・キリストの兄弟。(新約聖書マタイによる福音書13章55節)
    11. イエス・キリストの母マリアの姉妹で、名をマリアという女性の子。(新約聖書マタイによる福音書27章56節)
    12. アリマタヤ出身の金持ち。イエス・キリストの遺体を引き取った。(新約聖書マタイによる福音書27章56節)
    13. バルサバともユストとも呼ばれるヨセフ。
    14. バルナバと呼ばれるヨセフ。
    ここでは1を指す。
「エフォド」 ヨセフの子孫でマナセ族の指導者。
「ハニエル」 1. マナセ族の指導者エフォドの子。
       2. アシェルの子孫でウラの子。
       ここでは1を指す。
「エフライム」
    1. ヨセフの第2子。
    2. 部族名。
    3. エルサレム北方の町。
    4. 森の名。ヨルダン川の東。
    5. 門の名。エルサレムの北東。
    ここでは1を指す。
「シフタン」 エフライム族の指導者でケムエルの父。
「ケムエル」
    1. アブラハムの弟ナホルとミルカの3番目の子。アラムの父。
    2. エフライム族の指導者シフタンの子。
    3. レビ族の長。ハシャブヤの父。
    ここでは2を指す。
「ゼブルン」 ヤコブの第10子。
「パルナク」 ゼブルン族の指導者で、エリツァファンの父。
「エリツァファン」 
    1. ケハトの氏族の家系の代表者。ウジエルの子。
    2. ゼブルン族の指導者パルナクの子。
    ここでは2を指す。
「イサカル」 1. ヤコブの第8子。
       2. 部族名。
       3. エルサレム神殿の門衛であったレビ人(びと)。
       ここでは1を指す。
「アザン」 イサカル族の指導者。パルティエルの父。
「パルティエル」
    1. イサカル族の指導者アザンの子。
    2. ガリム出身のライシュの子。
    ここでは1を指す。
「アシェル」 1. シケムの東の町。
       2. ヤコブとジルパとの第2子。
       3. 部族名。
       ここでは2を指す。
「シェロミ」 アシェル族の指導者。アヒフドの父。
「アヒフド」 1. アシェル族の指導者。シェロミの子。
       2. ベニヤミンの子孫ゲラの子。
       ここでは1を指す。
「ナフタリ」 1. ヤコブの第6子。
       2. 部族名。
       ここでは1を指す。
「ペダフエル」 ナフタリ族の指導者アミフドの子。

(3)レビ人(びと)に与えられる町々(35章1〜8節)

 レビ人は嗣業の土地を持つことが許されていない。そこで、イスラエルの民の所有地のうちから、放牧地付きの町48が与えられる。

「モアブ」 
    1. ロトの姉娘と父ロトの間に生まれた子。ロトと二人の娘との父子相姦物語は、旧約聖書創世記19章30〜38節に記されている。
    2. 死海の東に王国を築いた民族。イスラエルのカナン侵入当時、優れた農耕文化を持っていた。
    3. モアブ人(じん)の占めた死海東方の領土。聖書巻末地図2および3参照。
    ここでは2,3を指す。
「レビ人(びと)」 ヤコブの子レビの子孫。祭司の補助をする職務が与えられている。
「アンマ」 約45センチ。千アンマは約450メートル。二千アンマは約900メートル。
「逃れの町」 旧約聖書申命記4章41〜43節、19章1〜13節、旧約聖書ヨシュア記20章参照。過失で人を殺してしまった者が、弁明の機会を与えられないまま     で、遺族に殺されてしまわないために、一時的に保護される町。

(4)逃れの町(35章9〜15節)

「共同体」 会議。会衆。集会。つどい。
「寄留者」 仮住まいの者。旅人。同居人。
「滞在者」 異邦人。外国人。

(5)故殺者(こさつしゃ)の場合(35章16〜21節)

「殺害者」 故殺者。故意に人を殺した者。必ずしも計画的でなくても、一時の激情から人を殺した者も含まれる。計画的に人を殺せば謀殺(ぼうさつ)と言    われる。
「血の復讐」 殺された者の血を取り戻すこと。買い戻すこと。取り戻すこと。あがなうこと。

特註 逃れの町

<1> 光市母子殺害事件

 1999年4月14日に山口県光市で、女性(当時23歳)が殺害後に犯され、その娘(生後11カ月)の乳児も、当時18歳の少年に殺害されました。
少年は女性を屍姦し、かたわらで泣きやまない赤ん坊を床にたたきつけるなどした上、首にひもを巻きつけて窒息死させました。
そして女性の遺体を押入れに、赤ん坊の遺体を天袋に、それぞれ隠し、居間にあった財布を盗んで逃走したのです。
少年は盗んだ金品を使ってゲームセンターで遊んだり、友達の家に寄るなどしていましたが、事件から4日後の4月18日に逮捕されました。

 被害女性の夫である本村洋は、犯罪被害者遺族として、日本では「犯罪被害者の権利が何一つ守られていないことを痛感し」、同様に妻を殺害された元日本弁護士連合会副会長岡村勲らと共に犯罪被害者の会(現、全国犯罪被害者の会)を設立し、幹事に就任しました。
また、裁判の経過中、死刑判決を望むことを強く表明し続けてきました。
2001年12月26日に行われた意見陳述の際には、犯人に対し
『君が犯した罪は万死に値します。
いかなる裁判が下されようとも、このことはだけは忘れないで欲しい』
と述べました。
2000年3月22日、山口地方裁判所は、死刑の求刑に対し、無期懲役の判決を下しました。
これに対し本村洋は、
「司法に絶望した、加害者を社会に早く出してもらいたい、そうすれば私が殺す」
と発言しました。
結局2008年4月22日、最高裁で判決公判が行われ、死刑判決となりました。

 ちなみに、弁護士・橋下徹(現大阪府知事)は、光市母子殺害事件弁護団に対し、2007年5月27日に放映された『たかじんのそこまで言って委員会』の中で、
「あの弁護団に対して、もし許せないと思うんだったら、一斉に弁護士会に対して懲戒請求をかけてもらいたいんですよ」
と懲戒請求を行うよう視聴者に呼びかけました。
その結果、テレビを見た視聴者らから約7558通の懲戒請求書(前年の2006年中に全国の弁護士会に来た別件の懲戒請求総数の6倍を上回るそうです)が弁護士会に殺到することになりました。
これに反発した光市母子殺害事件弁護団のうち、足立修一・今枝仁ら4人は2007年9月に橋下に損害賠償を求めて広島地裁に提訴し、現在は争点整理手続が行われているそうです。
これについて江川紹子は、
「請求の内容によっては、懲戒請求をされた弁護士の側から訴えられる可能性もある。
実際、懲戒請求をした側が敗訴し、50万円の慰謝料を支払うよう求める判決が出ているケースもある。
橋下は、そういう負担やリスクを説明せず、ただ誰でも簡単にできると、気楽なノリでしゃべっている」
と批判しています。
これらの懲戒請求は、懲戒するだけの事由及び信憑性がなかったため、各弁護士会で次々としりぞけられており、現在のところ懲戒処分された弁護士は1人もいないそうです。

<2> 報復の連鎖・拡大

 妻と赤ん坊を殺された本村洋が
「加害者を社会に早く出してもらいたい、そうすれば私が殺す」
と発言したように、殺人犯に対して、被害者の遺族が、
「国が死刑にしてくれないのなら自分の手で殺してやる」
と語ったということを、耳にすることがあります。
紛争やテロの犠牲者の遺族が、同じような思いに駆られるのは当然です。
そして、報復は報復を生み、その規模も2倍3倍と大きくなって行き、とどまるところを知りません。

 血で血を洗う悲惨な報復合戦を抑えるため、旧約聖書出エジプト記21章23〜25節には、
「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない」
と規定されております。 
紀元前十八世紀ごろ、 バビロニア第一王朝の第六代の王であるハンムラビが発布したハンムラビ法典の196・197条に「目には目を、歯には歯を」の規定があるとされていますが、これは報復の無限の連鎖・拡大を防ぐ目的で、設定されたものでしょう。

 現在の中東で、自爆テロと空爆の報復合戦が繰り返され、イラクだけでも、罪もない人たちが一日に100人以上殺され、5年間で22万3千人がなくなったと推定されています。
復讐の念に狂った人間たちが繰り広げる地獄図です。
旧約聖書やハンムラビの時代には見られなかった、想像を絶する殺戮が、とどまることを知らず進行しているのです。

 キリストは、
「『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。
悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」
(新約聖書マタイによる福音書5章38〜40節)
と言われました。
報復をいったん許すと、それに対する報復が起こり、報復が報復を呼んで、無限に続いて行きます。

 悪を加えられた被害者が、加えた加害者に対して、仕返しをした場合、それで被害者の怒りの感情はなだめられるように見えますが、実は、加害者が痛み、苦しむ姿は、被害者の心に、消えることのない「悔い」を残してしまいます。
加害者をどんなに痛めつけようと、殺そうと、被害者の傷が癒えるわけではなく、死んだ者が返ってくるわけでもありません。
被害者に残るのは、むなしさと悲しみだけではないでしょうか。

 パウロは、「自分で復讐せず、神の怒りにまか任せなさい。
「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」
と書いてあります」と、新約聖書ローマの信徒への手紙12章19節で言っています。
人間が自分で復讐しようとすることは、結局、神の支配に対する不信なのです。
神の支配が実現することを信じることができない、
今すでに、わたしの上に実現していることを信じることができない、
神の支配が見えなくなっている、
それが人間なのです。
復讐を果たしたときのむなしさは、実は、神の支配がますます見えなくなったことに対する悲しみなのです。

<3> アジール

 アジールとは、俗世界の法規範とは無縁の場所、不可侵の場所という意味です。
英語ではアサイラム(asylum)と言い、もとは身体障害者、困窮者、孤児などを収容する施設を意味し、特に精神病院を意味することもあります。
そこから転じて、逃亡犯罪人・負債者などの逃げ込み場所となる教会堂、神殿、寺院などを指します。
亡命者が逃げ込む大使館などもこれに当たります。

 アジールは、宗教的・呪術的に特殊な聖域と考えられ、俗世界で犯罪を犯しても、アジールに逃げ込めば聖的な保護を与えられ、世俗権力による逮捕や裁判を免れるという一種の治外法権のような性質を持っていました。
アジールが、サンクチュアリ(神殿、幕屋、至聖所、聖域)とも呼ばれた所以です。
 イスラエル民族では、幕屋や神殿の祭壇の四隅につくられた「角」は、それをつかんだ者は一時的に保護されました(旧約聖書出エジプト記29章12節、旧約聖書レビ記4章7、18節、旧約聖書列王記上1章50節以下、2章28節以下)。
これも一種のアジールです。

 過失で人を殺してしまった者が、逃げ込める町―「逃れの町」は、まさにアジールなのです。

 逃れの町に滞在することが認められるのは、人を傷つけ、あるいは殺したことが、敵意や怨恨によるのでなく、故意でもないことが条件です。
後日改めてイスラエルの共同体による裁判を受け、過失であったことが認められなければなりません。

 逃れの町に避難した人は、その時の大祭司が死ぬまでの間、そこに留まらねばならず、それまでは元の住所に帰ることはできません。
逃れの町から一歩でも外に出れば、被害者の遺族が直接加害者を殺す「血の復讐」が行われるからです。
大祭司が死ねば、その死によって罪が贖われるのです。
この時の大祭司は、アロンの跡を継いだエルアザルでした。
その後大祭司は世襲によって継承されます。

 旧約聖書申命記19章5節には、「隣人と芝刈りに森の中に入り、木を切ろうと斧を手にして振り上げたとき、柄から斧の頭が抜けてその隣人に当たり、死なせたような場合」、加害者は「血の復讐」を避けるために逃れの町に避難することが認められています。
旧約聖書ヨシュア記20章4〜6節には、そのときの注意が詳しく記されています。

 被害者の遺族が、怒りに我を忘れて加害者を殺してしまわないために、冷却期間を置いて正当な裁判に備えるという意味で、アジールという制度は有効ですが、あくまでそれは一時しのぎの弥縫策に過ぎません。
究極的には、加害者も被害者も、対立以前に返って、ともに神の支配に目が開かれることがなければ、本当の解決にはならないでしょう。
神の支配の中では、殺す者もなく、殺される者もありません。
そこが本当のいのちの世界、復活の世界なのです。

(6)過失致死の場合(35章22〜29節)

「聖なる油」 旧約聖書出エジプト記30章23〜30節に製法が規定されている特別の油。
「大祭司」 祭司階級の首長。祭司階級は、大祭司、祭司、レビ人からなり、すべてレビの子孫。大祭司は、アロンの子、エルアザルの家系の者で、旧約聖書    レビ記21章18〜20節に規定されている障害を持たない最年長者に限られた。
「大祭司が死ぬ」 大祭司の死が罪の贖いとなり、恩赦をもたらした。

(7)追加の細則(35章30〜34節)

「贖い金」 賠償金。代償金。

 汚れを清め、罪を贖うためには、血をもってしなければならない。すなわち、十字架の死を経て、初めて「新しいいのち」、「復活」は可能となる。

(8)マナセの家長たちの訴え(36章1〜4節)

「マキル」 1. ヨセフの子マナセの長子。ギレアドの父。
      2. ヨルダンの東、ロ・デバルの人で、アミエルの子。
      ここでは1を指す。
「ギレアド」 1. マキルの子。マナセの孫。
       2. 士師エフタの父。
       ここでは1を指す。
「わが主」 ここでは人間を相手にした敬語的表現。
「ツェロフハド」 ヨセフの子孫であるマナセ族の一氏族、ヘフェルの子。
「ヨベルの年」 7年ごとに土地を休ませる安息の年が7回めぐった翌年の第50年目の年。「ヨベル」は「雄羊の角」の意味で、ヨベルの年の第7月の10日に角笛を吹き鳴らして、土地と全住民の解放を告げ知らせたところからこの名前が来たと思われる。(旧讃美歌263、讃美歌21-431)

 相続人が女性である場合、その女性が他の部族の者に嫁げば、女性の属していた部族の相続地は、女性の分だけ減ってしまう。それは不合理ではないかというのが家長たちの訴えたことであった。

(8)モーセの答え(36章5〜13節)

「マフラ」 1. ツェロフハドの5人の娘の長女。
      2. マナセの子孫ハモレケトの子。
      ここでは1を指す。
「ティルツァ」 ツェロフハドの5人の娘の一人。
「ホグラ」 ツェロフハドの5人の娘の一人。
「ミルカ」 1. アブラハムの兄弟ハランの娘で、ナホルの妻。
      2. ツェロフハドの5人の娘の一人。
      ここでは2を指す。
「ノア」 1. レメクの子。セム、ハム、ヤフェトの父。「洪水物語」の主人公。
     2. ツェロフハドの5人の娘の一人。
     ここでは2を指す。

 この問題に対する答えは、
「他の部族と結婚してはならない。女性の結婚の相手は父方の部族の一族の男性に限る。そうすれば、父の一族が女性の相続地を相続することになるから、部族の相続地は減ることがない」
ということであった。

 ここで、約束の地カナンを目指して40年間荒れ野をさまよったイスラエルの民の苦難は、一区切りを見ます。
次なる申命記は、カナンを目前にしてモーセが語った遺言とも言えます。
イスラエルの民とともにカナンに入ることを許されないモーセの苦渋が感じられる文書です。

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