人生・教育・宗教の広場
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[25] Re:[24] [23] 一つのヒント 投稿者: 投稿日:2008/12/01(Mon) 11:22  
「こんな事を考えているうちは、まだわかっていないのでしょうか?」とあなたが言われることについては、
わたしも分かっていません。
肉体を持って生きている限りは、分かっていないし、したがって絶対に「無の一点」になれません。
肉体を超え、肉体に死なない限り、人間は明日のことを思い悩まずにいられないのです。
では、どうすれば肉体に死ぬことが出来るのか?

病気になった経験のある人なら、自分の中に「死」があることに気づくでしょう。
日々、その「死」と「生」にはさまれている自分に気づくでしょう。
「死」と「生」にはさまれた「紙一重」のところ、そこが「無の一点」なのです。
私は、キリスト教の信仰と坐禅を通じて、その「無の一点」を知りました。
今は、聖書の勉強と坐禅に集中して、その「紙一重」のところをさらに掘り下げて行きたいと思っています。

私の体験も思想も、まだまだ浅く不十分で、あなたを納得させることが出来ないかもしれませんが、どんどん質問してくれることによって、さらに深めたいと思っていますので、これで終わりだと思わないでください。


[24] Re:[23] 一つのヒント 投稿者:まえだまさよ 投稿日:2008/12/01(Mon) 00:25  
「人生の真相」考えてみます。
相田みつをさんの言葉に「いま ここ じぶん その合計がじぶんの一生」というのがあります。その言葉を読むたびにどういう意味なんだろうと思っていました。でも、先生の 「無の一点のいのちに目覚めれば、今この一瞬が「完結」となります。
死が完結なのではありません。
生きる一瞬一瞬が完結となるのです。
完結を、自分の外に、自分の前方に求めるのではなく、「今、ここ」が完結なのだと気がつけば 「明日のことを思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。」」で少しわかったような機がします。でも結果が「その日の苦労」が毎日だった時、最後の瞬間には何を思うのでしょうか?「その日」で区切ってくることで幸せな思いで死ねるのでしょうか?
こんな事を考えているうちは、まだわかっていないのでしょうか?



[23] 一つのヒント 投稿者: 投稿日:2008/11/30(Sun) 13:06  
これまで、あなたの美しく明るい笑顔が、周囲のみんなに、どんなに慰めと希望を与えていたか、あなたは気が付いていないのではないでしょうか。
「つられて泣きそうになるけど、頑張って笑っています。」という言葉に胸が熱くなりました。
ご両親が「お互いの目を見てコミュニケーションをとって」いらっしゃる姿も最高に美しい姿です。
その姿によって、また、あなた自身の「明るく笑っている」姿によって、あなた自身が感動するでしょう。
その感動は、たとえ黙っていても、ご両親に伝わります。

私の母は病院で手術を受けた直後から、痴呆(ちほう)状態になって、言葉が通じなくなり、病院で付き添っている父と私のことも分からなくなってしまいました。
深夜、何度も点滴を自分ではずして、ベッドから降りようとしました。
そうさせないように、私と父が交替で見張っていました。
私も父も二人とも疲れてしまって、母の横の簡易ベッドで、ちょっとウトウトしている隙(すき)に、気がつくともう母はベッドから降りていました。
あわてて看護婦さんを呼んで、母をベッドに上げるのを手伝ってもらい、点滴をつけなおしてもらいました。

その後、私一人で見張っていた時のことです。
幾度となく、母は点滴を外そうとするので、とうとう私は母の手をパシっと叩いてしまいました。
そのとたん、母は何とも言えない悲しそうな目つきをしました。
青年期に母に反抗し続けた私ですが、母に手を挙げたのは初めてでした。
私はハッと気がついて、言葉の通じない母に謝ろうとしましたが、言葉にならず、泣いてしまいました。
戦中、戦後の母の苦労、そして私に注いでくれた愛を想い、涙が止まりませんでした。

実は、母は私の本当の母ではありません。
そのことを知ったのは、私が成人したずっとあとでした。
しかし、母自身は決してそのことを私に話しませんでした。
反抗的な私に対して母が腹を立てている時も、そのことだけは「口が裂けても」言おうとしませんでした。
そして死ぬまで、実の母でも出来ないくらいの愛を、私に注いでくれました。

いくら母に感謝しても感謝し足りない、いくら謝っても謝り足りないと思いました。
その私の気持ちが母に分かったのでしょうか、そのあとは、ベッドから降りようとしませんでした。

つい個人的なことをしゃべってしまい、ごめんなさい。
「人生の真相」とは何かを考えるヒントにしてください。
どうか、苦しみの中でも、あなたの美しく明るい笑顔によって、あなた自身が慰められますように、
そして周囲の人たちも力づけられますように、
祈っています。

これで終わりではありません。
また投稿を待っています。


[22] Re:[21] [20] [16] 人生の目的 投稿者:まえだまさよ 投稿日:2008/11/29(Sat) 23:51  
阪神大震災、忘れることの無い大事件でした。幸にも私の近しい人達は何時間も崩れた家の中に埋まっていたにもかかわらず少しの怪我で済みました。家族、友人と連絡が取れない怖さは忘れることが出来ません。この時は、神様に感謝しました。(いい時は感謝し、悪いときは恨み、私って勝手ですね)「人生の真相」その意味がまだわかりません。母には、これからまだまたせ試練があると思います。今は環境の整った病院で生活しているけど必ず退院して自宅での生活が始まります。生活の不便さ、外出時の他人からの好奇の目、、69歳という年齢でこの試練と向き合わないといけないなんて、、私に出来ることは何なんでしょうか。。。週に一、二度孫の顔を見せにそして食事の用意、これくらいしか出来ないのでしょうか。。。戦時中の兵隊の様に強かった父もすっかり気弱になって何かにつけ涙ぐむようになりました。つられて泣きそうになるけど、頑張って笑っています。結構つらいです。最近は外に出るのが億劫で人に会うのもイヤな事があります。でも、週末には明るく笑っています。。。


[21] Re:[20] [16] 人生の目的 投稿者: 投稿日:2008/11/29(Sat) 10:24  
大変でしたね。
でもよく投稿してくれました。
人の運命には、本当に「非情」としか言えないようなものがあります。
私も両親を見送りましたが、二人とも癌でした。
父は煙草も酒も飲まず、健康に気をつけていました。
母は戦後の苦しい生活の中、家族を支えてくれました。
あなたの言われる「神様が本当にいるなら、なんでこんな仕打ちをするんでしょうか?」という疑問はもっともです。
阪神大震災の時、家族の中でも、助かった人と亡くなった人との差はほんの紙一重だったという例はご存じでしょう。
私たちの毎日の生活の中でも、事故や犯罪に巻き込まれるか、逃れるかの差も、やはり紙一重です。
私たちは、毎日毎日、その危ない所を通って生き長らえているのです。
あなたのご両親のお姿は、まさにこれこそが人生の真相なのだということを私たちに対して、身を挺(てい)して示してくださっているのではないでしょうか。
そしてそのメッセージは、実は神からのメッセージではないかと思うのです。
まだまだ疑問があると思います。
引き続き質問してください。
待っています。


[20] Re:[16] 人生の目的 投稿者:まえだまさよ 投稿日:2008/11/29(Sat) 00:38  
先生お久しぶりです。お元気ですか?今年は色々な事がありすぎて、先生のHPを覗いて、お話を聞いてもらって意見を聞きたくて。。。人の一生とか神様とかがわからなくなって、七月の終わり母が脳出血で倒れて、一生懸命に真面目に生きてきた人が、やっと子供達が独立して夫婦で自由に時間を楽しんで生きていくはずだったのに、、、今はリハビリ病院で毎日頑張っています。でも、右手は動きません、右足も自由になりません。言葉もです。神様が本当にいるならなんで母にこんな仕打ちをするんでしょうか?(そんなに神様を信じていた訳ではないですが)母が倒れてから毎日そんな事を考えていました。今は、元気な時はしょっちゅぅ夫婦喧嘩していた両親がお互いの目を見てコミュニケーションをとっています。「あぁ、2人にはこの時間が必要だったのかな」と思うようになりました。でも、やっぱり神様が少し憎いです。


[19] 池部素子「スケッチ画集・U」 投稿者: 投稿日:2008/08/21(Thu) 17:12  
本画集は、スケッチ画集15点、墨書5点で構成されています。墨書を含めたのは筆者を画風のみでなく書家の面からも味わって戴くためです。一度是非ご観賞ください。
平成20年9月1日付け刊行です。

○サイズ A4判
○画集15点(フルカラー)、墨書5点収録
○定価 3、000円〔送料340円)
○申込先 前田宗彦
     dahiko.74@y3.dion.ne.jp

○池部素子著「美を成就するもの」より
 この「今」の生活に、より完き愛を現していくことが真の 芸術創作であり、ここにだけ人間がこの上なき善に至る三 昧境があります。私は描かざる画家として、生涯に二度と ない「今」の出合いの中に傑作を創り出していきたい―  今、此処に、自分の居るところ、どこにでも芸術があり、
 すべてが「いのち」の織りなした永遠で充たされているの ですから。



[18] 池部素子「スケッチ画集・T」 投稿者: 投稿日:2008/07/11(Fri) 10:49  
 このたび、新たに池部素子先生の絵画作品集「スケッチ画集」を刊行します。本画集は、素朴で可憐な四季の草花を、繊細なタッチで優美に描かれており、その一つ一つの作品を通して、見る人の心に清新の感動を与えてくれます。復元された美しい色彩と共に、絵画に表現された池部先生の愛の心を、広く味わって戴きたく存じます。刊行は平成20年8月初旬の予定です。

 ○画集サイズ A4判
 ○フルカラー作品20点収録
 ○定価 3,500円(送料別)
 ○申し込み先
   前田宗彦
   dahiko.74@y3.dion.ne.jp

 ○池部素子先生の言葉
   『小さな子供の頃、画筆から伝わってきましたタッチの味に「何か」を感じた私は、生涯も終わりに近い今日、どんなものが得られただろうかと顧みましても、はじめのタッチ以上の何ものもそこにはありませんでした。その「何か」とは、始めもない過去から、終わりもない未来にかけて、はじめから在ったものでした。しかし、それを如実に知り得たということは、やはり、無上の愛の力と恩恵によってでありました。』
   (池部素子「美の果てにあったもの」(著作集第2巻所収)より)


[16] 人生の目的 投稿者:水野吉治 投稿日:2008/06/23(Mon) 11:03  
 人生の目的は何かということを追求して、その目的に達したら、あとの人生は目的を失ってしまいます。
また新たな目的を発見しても、そこに到達したら、また無意味・無目的な虚無が立ちはだかっています。
次から次へと目的を立てて、はてしなくさまよう姿こそ、私たち人間すべての姿なのではないでしょうか。
人間は、
「山のあなたの空遠く、『さいわい』住むと人のいう。
ああ、われ人ととめゆきて、涙さしぐみ、かえりきぬ。
山のあなたになお遠く、『さいわい』住むと人のいう。」
   (カール・ブッセ)
のように、追っても追っても逃げてゆく蜃気楼を追い求め続けて、ついには疲れ果てて砂漠の中で死んで行かねばならないのでしょうか。

 当時高校生だった私は、解決がつかないまま、悩みぬいて、このままで行けば、先輩の荒賀が自殺したその同じ道をたどることになるのではないかという不安にとらわれました。
その結果、理性を黙らせ、目をつぶって、まるで飛び込み自殺でもするような気持ちで、関西学院教会で長久清牧師から洗礼を受けました。
しかし、期待したような奇跡的な解決は得られませんでした。

 大学進学に当たっては、神学部以外は目に入りませんでした。
それを口にしたとき、当然、両親は猛反対でした。
親類はもちろん、近隣の知人まで巻き込んで、私を思いとどまらせようとしました。
「ヨッちゃん(私のこと)は失恋したので神学部へ行くらしい」
といううわさまで流れました。
私に迷いが生じました。
「まず、文学部教育学科へ進んで、それから神学部へ行っても遅くはないのではないか。」

 そのとき、担任の石田巳代治(みよじ)先生が、私の家まで来て、両親の説得に当たってくださいました。
紆余曲折のはて、結局私は神学部に入りました。

 そんなにまでして入った神学部は、修道院のようなところかと想像していたのですが、信仰の修練はほとんどありませんでした。
神学も私の疑問に答えてはくれませんでした。
教授の中には、他人の学説を紹介するだけの講義で済ませたり、出世の手段として、読書感想文のような稚拙な論文をせっせと書いている教授もいました。
彼らは、人生についての根源的な問いを持つこともなく、ただひたすら名誉と地位を求めることに汲々としているようでした。
彼らから得たものは、ヘブライ語、ギリシア語、ドイツ語など、語学だけでした。

 唯一の例外は神学部の松村克己先生と文学部教育学科の三井浩(こう)先生でした。
私は、両先生の影響が色濃く見られる「旧約聖書正典論序説」という修士論文を書きました。
その結果、神学修士というレッテルをは貼ってもらいましたが、それは私の求めている解決とは何の関係もありませんでした。
卒業後一年間、関西学院教会の伝道師として長久清牧師に仕えましたが、自分の中で、人生の問題が、依然としてくすぶり続けているのを感じていました。

 そのころ、NHKの「僻地に光を」というキャンペーンを知って、「僻地に行こう」という思いが湧き、宝塚市の山間部の公立中学の教師になりました。
同時に、かねてから関心を持っていた仏教を徹底して学んでみたいと思い、京都の安泰寺という禅寺に坐禅に通うようになりました。
そこで、私は、坐禅を通して、「今」という無の一点に返ることを学びました。
そして、初めて、坐禅が、キリスト教の十字架と復活の体験と一致することに気がついたのです。
そして、坐禅の光でキリスト教を照らせば、キリスト教の福音が、よりはっきりと理解できました。
またキリスト教の光のもとで坐禅をすれば、坐禅のねらいが、より正確にさだまりました。
今や、私にとって、坐禅とキリスト教は、二つの方向から人生の意味に光を投じて、それを立体的に浮かび上がらせる働きをするようになっているのです。

 人生の意味を考えようとすると、どうしても、人生の意味を、自分の外に求めようとしてしまいます。
人生を生きる根拠・意味を、自分の外に見出そうとするのです。
その態度で考える限り、絶対に答は見つかりません。
人生問題の答が得られないからと言って、自殺して行った人は、答を外に求めて必死に追求し、ついに力尽きてしまったのです。

 人間の眼は、外を見るようにつくられていますから、人生の意味を外に求めざるを得ません。
それは人間の背負っている宿命です。
したがって、人生の「根拠喪失」・「意味喪失」は、人間の宿命なのです。

 では、そもそも人生は無意味・無目的なのでしょうか。
そうではありません。
外を見る目を内に向ければいいのです。
外に求めないで、「今」という無の一点に返りさえすればいいのです。
私たちが目前にしている死は、そのことを私たちに告げています。
死が指し示すものは、内と外の二つ・生と死の二つを超えた、かなたの次元・復活のいのちです。

 自分の外に答えを見出すことが解決なのではなく、「今、ここ」の無の一点が解決なのです。
自分の外に答えを見出せないということは、人生の究極的解決のありかへと、私たちの眼を向けさせます。
今自分が生きている生の前に、徹底的な死がなければなりません。
死を経ない生は、動物的な生存にすぎません。
断絶を経て、はじめて、生も死も超えたほんとうのいのち、復活のいのちが、私のものになるのです。
それこそが、私が求め続けてついに答えが得られなかった人生のほんとうの意味なのです。
 
 無の一点のいのちに目覚めれば、今この一瞬が「完結」となります。
死が完結なのではありません。
生きる一瞬一瞬が完結となるのです。
完結を、自分の外に、自分の前方に求めるのではなく、「今、ここ」が完結なのだと気がつけば、たとえ人生の意味・目的が見えずとも、
「今や、恵みの時、今こそ救いの日」
   (新約聖書コリントの信徒への手紙二6章2節)
となります。
そして、
「明日のことを思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。」
   (新約聖書マタイによる福音書6章34節)
というキリストの言葉に、ほんとうの安らぎを見出すのです。



[15] 神話と紛争 投稿者:水野吉治 投稿日:2008/04/30(Wed) 20:58  
1.紛争の過去と現在

紀元67年、イスラエルの民はローマ帝国に対する反乱を起こします。これを第一次対ローマ戦争と言います。しかし敗退し、ローマ軍がエルサレムの第二神殿を完全に破壊しました。犠牲者は数十万人から一千万人とも言われます。ユダヤ人は追放され、または奴隷として売られてゆきました。ここから、ユダヤ人のディアスポラ(離散)の長い歴史が始まります。
 11世紀には、教皇ウルバヌス二世の宣言に始まる十字軍は、表向きのスローガンは、イスラム教徒からの聖地エルサレム奪還でしたが、教皇がひそかに求めていたのは、教皇領の拡大と貿易による富の独占であったと言われます。エルサレムに居住していたイスラム教徒とユダヤ人は、キリスト教の名において、ことごとく殲滅され、ヨーロッパにいたユダヤ人も大量に虐殺されました。以後13世紀のチュニスでの十字軍の敗退までの二百年間、8度の遠征が行なわれましたが、ほぼ失敗に終わりました。十字軍の歴史は、殺戮と略奪の歴史と言えるでしょう。
 16世紀に始まった宗教改革が拡大すると、ヨーロッパの各地でカトリックとプロテスタントの戦争が起こりました。なかでも、1572年8月23日、聖バルトロマイの祝日から翌24日にかけて、フランス各地で、カトリック教徒がプロテスタント教徒を虐殺した「サン・バルテルミの虐殺」は、犠牲者の総数三万人とも十万人とも言われます。
 時代が下って、第二次世界大戦中のドイツによるユダヤ人迫害では、六百万人とも言われるユダヤ人が惨殺されました。
 その後も世界各地で、多くの宗教紛争により、幾多の人命が失われて来ました。
 そして、2001年9月11日、ニューヨークの世界貿易センタービルに、ハイジャックされた2機の旅客機が突っ込み、一瞬のうちに2465人の命が失われました。アメリカは、これをイスラム原理主義過激派によるテロと断定し、アフガニスタンのタリバン政権を軍事攻撃して崩壊させました。ついでアメリカとイギリスがイラクに軍事攻撃を加え、陥落させました。しかし、イラク国内では、反米勢力による攻撃や、宗派・民族間の対立によるテロはいっこうに収まらず、イラク民間人の死者は、15万人から22万人と言われています。

2.宗教と「聖戦」

 歴史を顧みても、世界のどの国でも、宗教はたしかに紛争の火種をまいてきました。しかし、もともと宗教は争いを好むものなのでしょうか。それとも平和を願うものなのでしょうか。
 「イスラム教は、『右手にコーラン、左手に剣』と言っているから、好戦的な宗教なのだ」と言ってきたのは、欧米のキリスト教徒でした。ほんとにそうなのでしょうか。
 コーランには、「いやがる人々を無理やりに信者にしようとしても、できることではない」とか、「叡智とよき忠告とをもって、イスラムの教えに人々を招きなさい」と書いてあります。つまり「改宗か、それとも死か」と言っているのではないのです。穏健な説得が薦められているのです。
 また、自爆テロなどの過激な手段を取るアルカイダの主張は、「イスラム教徒の土地を占領している異教徒に対し、武器を取って戦え。それが「神のための戦争」、聖戦(ジハード)だ」というものですが、イスラム教徒の中には、そういう考え方を支持しない人が多いと言われます。
自爆テロをする人たちは、聖戦で死んだら天国に行けると信じています。そういう狂信に駆り立てるものは何でしょうか。

3.原理主義

 原理主義は、「ファンダメンタリズム」の訳語として使われています。キリスト教では根本主義とも呼ばれ、イスラム教ではイスラム復興運動と呼ばれています。聖書(特に旧約聖書)、コーランなど、聖典(正典)に記された教義や規範などを、そのままの形で、現代生活の中に実現させようとする運動を指します。
キリスト教のファンダメンタリズムの場合、その根拠とするところは、「聖書逐語霊感説」であって、聖書は一字一句神からの霊感によって書かれたものであるとするものです。キリスト教では、セヴンスデイ・アドヴェンティスト(SDA)が、その一つの例です。SDAは、1845年アメリカでバプテスト派牧師ミラーによって始められました。再臨、土曜安息、浸礼、十一献金を強調し、旧約聖書レビ記11章などに記されている、食べてよいものと、食べてはいけないものを厳格に守ります。
ファンダメンタリズムは、社会の中で、自己のアイデンティティーを確立し、それを他にむかって主張しようとするものですから、当然、排他的、閉鎖的、急進的、攻撃的態度を生みます。そして、過激な宗教抗争とテロが発生する土壌を現代世界に提供しています。こういった狂信的態度の背後には神話というものがあるのです。

4.神話

 では、そもそも神話とは何でしょうか。
私たちは日常「お日様が東から昇って、西に沈む」と言います。そして、自分の言っていることが、どこかおかしいとか、何か間違ったことを言っている、というふうには思いません。他の人も、私たちが、天動説をとなえているとも、非科学的だとも言わないでしょう。たしかに、地球の自転の結果、日が昇ったり沈んだりするように見えるだけです。そこで、「日が昇った」ということを、あえて「科学的」に言おうとして、「私が乗っかっている地球が一回りした。そのため、私が地球上に立っている地点を基準点とすると、太陽が、「東」という相対的な方向から昇っているように見えるが、実は私の立っている地点が、「東」という相対的な方向へ向かって回転しているのだ」と言ったとすると、聞いている人は、「この男はアタマがおかしいんじゃないのか」と思うでしょう。「日の出」や「日没」というような表現を使わないで、地動説的に説明しようと必死になればなるほど、周りの人は、私たちが何を言っているのか、ますますわからなくなってしまうでしょう。
「東」と言っても、「西」と言っても、「昇る」と言っても、「沈む」と言っても、すべて相対的な表現なのです。わたしたちが生きている世界は「相対」の世界なので、そこには、「絶対的な東」も、「絶対的な西」もありません。「上」と言っても、「下」と言っても、何かを基準として、「その上」、「その下」と言えるだけで、「絶対的な上」もなければ、「絶対的な下」もないのです。
私たちが、日常使っている言葉は、すべて、相対世界の言葉ですから、絶対的なものを表現しようとすれば、「神話」という形式を使わざるを得ません。
地動説も、天動説も、天体の動きを理解し、表現するための「お話」に過ぎません。「お話」は、「道具」であって、絶対的な真理ではないのです。それらは、いわば「科学的」という包装紙で格好をつけているだけで、どれも中身は「神話」なのです。地動説が「科学的」であって、天動説は「非科学的」であり、「迷信」であると決め付けたりするのは、自分の立場が「絶対」であり、「不動」であるとする態度であって、それこそまさに「天動説的」態度と言わねばなりません。本来「科学」とは、あらゆる常識を疑ってかかるところから始まるのです。「科学」が「常識」となってしまっている場合には、その「常識」を疑ってゆかなければ、本当の「科学的態度」とは言えません。
たしかに、現代では、地動説が「通説」となっています。「通説」に異を唱えるのは、よほど非常識な人間か、自信のある人間でしょう。なぜなら、「通説」は、たいてい「自称科学者」のお墨付きで権威付けられていると思われているからです。でも、いったい何人の人が、自分で「通説」を検証したのでしょうか。「みんながそう言うから、そうなんだ」で済ませているというのが実情ではないでしょうか。地球が太陽の周りをグルグル回っているのを見た人があるでしょうか。宇宙飛行士でも、自分の乗っている宇宙船を基準にして、地球と太陽の動きを見ているだけで、見えない部分は仮説で補っているので、全体を見ているような気がするだけではないでしょうか。そもそも人間は、宇宙全体をひと目で見ることはできないのです。「宇宙全体」という「神話」をでっち上げているにすぎません。
 宗教的な真理も、理解や説明を超えたものですから、神話を使って語らざるを得ません。しかし、その神話どうしが衝突して、殺戮と破壊を招くとすれば、放置することはできないのです。

5.非神話化

「神話」という言葉は、ここでは、人間の認識と表現を超えたものを指し示す「比喩」、または「幼児語」という意味です。例えば「ワンワン」とか「ニャンニャン」のようなものです。
神話は、人間が、霊的なものを理解できるまでに成長する期間、間に合わせに使われる「符牒」で、キリストもよく「たとえ話」を語られましたが、これも神話の一種と言っていいでしょう。
神話という「離乳食」は、人間が人間であるかぎりは、絶対卒業することのできないものです。卒業できないかぎり紛争はなくならないでしょう。ではどうすればいいのでしょうか。
ドイツの神学者ブルトマン(1884〜1976)は「非神話化」を提唱しました。聖書の枠組みとなっている古代の神話的世界観から、キリスト教の本質的メッセージ(福音)を取り出して、現代人にも通じる言葉で語りなおそうという試みです。
神話という「離乳食」を必要としない「大人」に成長するためには、自分の持っている神話に気づかなければなりません。キリスト教のみならず、世界のあらゆる神話から自由になることです。現代人は、宗教的神話だけでなく、「政治的神話」、「科学的神話」、「常識という神話」など、無数の神話の中で「神話漬け」になっています。「名誉」、「金」、「健康」、「快適」、「快楽」なども、気づかぬ間に現代人をがんじがらめにしている神話たちです。
大切なことは、神話と戦い、神話を捨てるのではなく、神話を通して発せられている「いのちのメッセージ」(福音)を聞き取ることです。「いのちのメッセージ」によって神話を正しく認識し、神話から解放されること、それが「非神話化」ということです。


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