人生・教育・宗教の広場
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[13] 托鉢の偈 投稿者:水野吉治 投稿日:2008/03/17(Mon) 12:30  
托鉢の偈(たくはつのげ)

財法二施(ざいほうにせ)《財施(ざいせ)と法施(ほうせ)の二つ。財施は、飲食、衣服、金銭を人に与えること。法施は、真理の教えを人に与えること。》
功徳無量(くどくむりょう)《幸い限りなく》
檀波羅蜜(だんばらみつ)《人に与える行為を完成し》
具足円満(ぐそくえんまん)《満ち足りて欠けるところがない。》



[12] 洗礼について 投稿者:水野吉治 投稿日:2008/02/19(Tue) 08:50  
 カトリックでの受洗を考えておられるとのことで、よき師が与えられますよう祈っております。
 祈りの中で、導きを求めておられましたら、きっとよい出合いが恵まれることと信じます。時が満ちれば、雲が晴れるように、開けることと存じます。
 私も、本当の師は「自分」であったことに、やっと気づきました。「自分」そのまま、丸ごとの「自分」が、最後の解決だと思っています。池部素子先生も、内山興正老師も、私の師であって、しかも同時に「私自身」でした。「私自身」を見失いかけるたびに、引き戻してくださったのです。二人の師は、「私自身」の分身でした。
 答えを自分の外側に求めても、永遠に見つかりません。「内側」と「外側」と二つに分かれた状態では、その二元・分裂は、永遠に埋まらないでしょう。新約聖書ヨハネによる福音書とパウロの手紙にしばしば出てくる「一つ」という言葉の深さを味わっております。
坐禅において「自分と一つになる」ことと、「キリストがわたしの内に生きておられる」(新約聖書ガラテヤの信徒への手紙2章20節)こととは、まったく同じことだと存じます。キリストを自分の外側に置いて、そのキリストに祈ったりするのでは、本当に救われているとは言えないかもしれません。キリストが、「わたしの中で」「わたしと共に」祈っていてくださるので、わたしは祈ることができるのではないでしょうか。それが「救い」ではないでしょうか。「イエス・キリストの御名によって祈ります」ということは、「わたしとキリストが『一つ』である」ということを言い表しているのだと思います。
洗礼ということも、「わたしとキリストが『一つ』である」ことのしるしであると存じます。洗礼が先にあって、それから、それによって救われるのではないと思います。「今すでに」、わたしたちは救われているのです。また、「永遠から永遠にわたって」、わたしたちは救われているのです。それを形に表わすのが洗礼ではないでしょうか。
「カトリック要理」第31課の100項に、「洗礼を授けるのは、通常、司教、司祭、助祭ですが、緊急の場合には、だれでも授けることができます。」とあります。つまり、洗礼は、人間の力や知恵や肩書きや地位を超えた聖霊の働きなのです。洗礼は、神の永遠の救いのわざなのです。洗礼より先に、神の救いのわざがあるのです。その救いのわざに対して、「アーメン」と言い表すのが洗礼であると思います。
長々と書いてしまいましたが、ご不明の点がありましたら、またお尋ねください。
ご自愛を祈り上げております。



[10] Re:[9] 無題 投稿者:水野吉治 投稿日:2008/01/01(Tue) 10:55  
> あけましておめでとうございます‼

あけましておめでとうございます。
お元気ですか。
一度会いたいですね。


[9] 無題 投稿者: 投稿日:2008/01/01(Tue) 02:16  
あけましておめでとうございます‼


[8] 「思いどおりに生きる」読後感 投稿者:水野吉治 投稿日:2007/12/13(Thu) 15:44  
拝復。

すばらしいご本「思いどおりに生きる」をお送りくださいまして、有り難うございました。

「波動」については、かねてから関心があり、「波動」と東洋哲学の「陰陽五行」説との関連を探りたいと思っていました。
世界の根源を、「アナログ」的にとらえたのが「波動」であり、「デジタル」的にとらえたのが「陰陽五行」説ではないかという見当をつけております。

ご承知のように、「陰陽五行」説は、世界の根本原理を、木火土金水の五行に陰陽を宛てて、甲乙丙丁戊己庚辛壬癸の十干とし、それを以って宇宙の成り立ちから、人間の運命に至るまで説明するものです。
五行を人間の五官、五臓に当てはめ、また、人事百般、自然現象などの説明に応用し、はては、病気の診断と治療法、さらに運命鑑定までカバーする壮大且つ驚異的な哲学です。
東洋哲学の底知れぬ深さと、強靭な思索に圧倒されます。
今の私に、これを展開し、検証する力はありませんが、少しでも世に紹介したい気持ちを強く感じています。

山本先生も、興味がおありでしたら、是非、研究して見られてはいかがでしょうか。
きっと波動説との接点を見出されることと信じます。

妄言をお許しください。

時節柄ご自愛を祈り上げます。

山本紹之介先生

2007年12月12日



[7] 受食五観の偈 投稿者: 投稿日:2007/08/09(Thu) 11:13  
「あなたの持っているものは、どこから来たのか。
 あなた自身にそれを持つ値打ちがあるのか。
 それは、「慾」と「怒り」と「目がくらんでいること」とが、あなたにはあることを、教えてくれる。
 それは、あなたの間違いを正し、狂った頭を正常にしてくれる。
 すべては、あなたが人生を生きる意味を教えてくれる。」
    (水野試訳「受食五観の偈」)



[6] うつは病気か 投稿者: 投稿日:2007/06/19(Tue) 09:37  
うつは病気であるというのが常識になっていて、そう言わないと非常識だということになっているような気がするのですが、いかがでしょうか。
私は、うつとは、答えのない問いであると思っています。
答えられない問いなのです。
うつになるということは、自分に向かって問い続けることだと思います。
その問いには、答えがないのですから、永遠に解決しません。
抗うつ剤などで、うつの周辺的な症状はやわらげられるでしょうが、それは、根本的な解決ではありません。
では、うつとはそもそも、何に対する問いなのでしょうか。
まずそれから考えてみたいと思います。



[5] Re:[4] もうすぐですね。 投稿者: 投稿日:2007/02/21(Wed) 08:44  
地球が壊れてゆく。
私の肉体も壊れてゆく。
しかし、神の創造は、日々新たに、行われている。
私の「内なる人」も、時々刻々、新たにされている。
痛みも、病も、挫折も、行き詰まりも、
新たなる創造への通路となって、
復活のいのちへと、
私を導いてくれるのだ。
その光り輝く道を、
今日も歩いてゆこう。

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[4] もうすぐですね。 投稿者: 投稿日:2007/02/20(Tue) 16:14  
「もうすぐですね。」
こう言われたら、「何がもうすぐなのか」と聞くでしょうね。
「春が、ですか?」
「いや、春の先にあるものです。」
「夏が、ですか?」
「いや、夏のずっとずっと先にあるもので、しかも、次の瞬間に来るかもしれないものです。」
「???」
「私と宇宙の終末です。<メメントモリ>(死を覚えよ)のことです。」
まさか、自分の終末がそんなに早く来るとは、誰も思いませんね。
でも、いつ来るか分からないのが、死というものです。
若いからといって、油断は出来ません。
急病か、事故か、天災か、いつ何が起こっても不思議ではないのです。
<メメントモリ>(死を覚えよ)を、いつも自分に言い聞かせつつ、一分一秒を心して生きて行きましょう。

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[3] 初めての方へ 投稿者: 投稿日:2007/01/10(Wed) 13:58  
書き込みの仕方は、上の[留意事項] をクリックして、ご覧ください。

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