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64 旧約聖書ヨシュア記7章1節〜9章27節 水野吉治 2010/07/19
(1)アカンの罪(7章1〜26節)
「イスラエル」 紀元前13世紀ごろパレスチナに形成された部族連合。旧約聖書創世記32章29節によれば、神によってヤコブにイスラエルの名が与えられた。ヤコブの12人の息子の子孫で形成された部族共同体がイスラエルと呼ばれた。紀元前1020年ごろに、サウルがイスラエルの王となり、紀元前1000年ごろに、ダビデのもとに統一王国イスラエルが生まれた。紀元前926年ごろに、北のイスラエルと南のユダの2王国に分裂、紀元前722年に、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされた。これによってイスラエルは、国の名前としては消滅するが、宗教共同体の名前としては残った。
「滅ぼし尽(つ)くしてささげるべきこと」 焼き尽くす献(ささ)げ物。民族浄化。ホロコースト。組織的虐殺行為。燔(はん)祭(さい)。
「滅ぼし尽(つ)くす」 浄化する。神のために聖別する。根絶やしにして除く。聖絶(せいぜつ)する。
「ユダ」 ヤコブとレアの第4子。エルサレムから南東に延びる山岳地帯の土地を得た部族。ベツレヘムを中心とする。
「カルミ」 ユダの子孫。アカンの父。
「ザブディ」 ユダ族のゼラヘの子。アカンの祖父。
「ゼラ」 ユダとタマルの間に生まれた双子(ふたご)の一人。もう一人はペレツ。
「アカン」 ユダ族カルミの子。
「ヨシュア」 モーセの後継者。カナン征服の際の軍事的指導者。70歳ぐらいと推定される。エフライム族の家系の長エリシャマの子ヌンの子。ホシェアと呼ばれていたが、モーセによってヨシュアと改名された。ヨシュアはヘブライ語の発音ではイエーシューア(ヤハウエは救い)、ギリシア語ではイエースース(イエス)。110歳ぐらいで死。
「エリコ」 死海(塩の海)に注ぐヨルダン河口から北西約16キロにある、堅固(けんご)に城塞化(じょうさいか)された町。聖書巻末地図2および3参照。
「アイ」 ベテルの東南東3キロ、エリコの西北西18キロにあったカナン人の町。
「ベテル」 エルサレムの北19キロ。かつてルズと呼ばれていた。聖書巻末地図3参照。
「ベト・アベン」 ベニヤミン領の町。ベテルの東、アイに近い。
「衣服を引き裂き」「頭に塵(ちり)をかぶった」 悲しみと痛恨(つうこん)のしるし。
「主の箱」 契約の箱。十戒のはいった箱。
「ヨルダン川」 パレスチナ最大の川。北のヘルモン山(ざん)(聖書巻末地図3参照)に端(たん)を発し、ガリラヤ湖(こ)を経(へ)て南下し、死海に流れ込む。全長は直線距離で約217キロ(阪神間から名古屋付近まで)、蛇行距離では400キロ。ヨルダン峡谷(きょうこく)の幅(はば)は、5キロ(およそ小林と西宮北口
間)から20キロ(直線で小林と大阪城間)まで変化している。キリストが洗礼者ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けたのはヨルダン川であった。
「アモリ人(じん)」 パレスチナの山岳地方の先住民の総称。
「ヨルダン川の向こう」 ヨルダン川東岸。
「カナン人(じん)」 パレスチナの地中海沿岸、死海周辺、ヨルダン川以西などに住んでいた先住民。
「聖別」 神のために特別に取り分けること。
「滅ぼし尽(つ)くすべきもの」 けがれたもの。
「主の指摘(してき)」 籤(くじ)によって指名されること。
「シンアル」 バビロニアの古称(こしょう)。
「シェケル」 11.4グラム。
銀二百シェケルは2,280グラム。銀1キログラム46,500円として2,280グラムでは約93,000円。
金五十シェケルは570グラム。金1グラム3,020円として570グラムでは約1,721,400円。
金銀合わせて約1,814,400円。
「アコルの谷」 ユダの割り当て地の北側の境界線でエリコの南東に当たる。
「アカル」 『災いをもたらす』の意味。
「石打ち」 死刑執行の手段。石打ちの刑を求刑する証人は、死刑囚の頭に手を置き、証人が最初に石を投げ、他の人がこれに続く。
(2)アイの滅亡(8章1〜29節)
「裏手(うらて)」 町の西側。イスラエル人は東側から接近していた。
「伏兵(ふくへい)」 隠(かく)れ伏(ふ)している兵隊。
「長老」 分別盛りの年齢か老年にある権力者。
「平野(へいや)」 アイの下のほうにある谷の中。ヨシュアはそこで夜を過ごす。
「アラバ」 ヨルダン峡谷を含みパレスチナを縦断する低地。「荒れ野」「砂原」の意味。
「投げ槍(やり)」 攻撃の合図。
「木にかける」 『木』は死刑の道具。
(3)エバル山での律法の朗読(8章30〜35節)
「エバル山」 シケムの谷をはさんでゲリジム山と向かい合っている山で、ゲリジム山の北側にある。海抜(かいばつ)938メートル、シケムの谷からの高さは427メートル。(聖書巻末地図3参照)
旧約聖書申命記11章29節によれば、モーセは、ゲリジム山には祝福を、エバル山には呪(のろ)いを置くことを命じた。
紀元前720年に北王国イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、のちに北王国の住民はサマリア人(じん)と呼ばれる。彼らが南王国ユダの首都エルサレムの人々に対抗して保存しているモーセ五書は『サマリア五書』と呼ばれている。その『サマリア五書』によれば、旧約聖書申命記27章4節の『エバル山(やま)』を『ゲリジム山(やま)』と読み替えて、『エバル山(やま)』を祝福の山と解釈している。
「自然のままの石」 のみを当てない自然石が神聖と考えられた。
「和解の献(ささ)げ物」 献げ物の肉の一部を、ささげた人やその家族が会食する。酬(しゅう)恩(おん)祭(さい)。
「教えの写し」 旧約聖書申命記12〜26章のうちどれだけが書かれたか不明。
「寄留者(きりゅうしゃ)」 イスラエル人の間に居住する外国人。
「契約の箱」 十戒のはいった箱。
「レビ人(びと)・レビ族」 ヤコブの子レビの子孫。祭司の補助をする職務が与えられている。申命記では、レビ人(びと)・レビ族はすべて祭司であり、祭司はすべてレビ人・レビ族である。祭司とレビ人・レビ族との関係は解明されていない。
「祭司」 いけにえをささげ、律法を教える職務。
「こちら側とあちら側」 旧約聖書申命記27章12,13節によれば、ゲリジム山(やま)のほうに、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ヨセフ、ベニヤミンの各部族が立ち、エバル山(やま)のほうには、ルべン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリの各部族が立った。
「律法の書(しょ)」 旧約聖書申命記27章14節〜28章。
(4)ギブオン人の服従(9章1〜27節)
「シェフェラ」 平地(へいち)。中央の山岳地帯より海岸に向かって傾斜している、ユダの西部および南西部の丘陵(きゅうりょう)と平原地帯。
「レバノン山(さん)」 シリアの山脈。南端は北ガリラヤの丘陵に続く。「レバノン」はヘブライ語「白」の派生語。石灰岩の白さと、頂上の雪の白さに関係している。聖書巻末地図3参照。
「大海(おおうみ)」 地中海。
「ヘト人(じん)」 パレスチナ南部に住んでいた先住民族。ハムの子孫カナンの子。
「ペリジ人(じん)」 ヨルダン川の西、パレスチナ中部山岳地帯に住んでいた先住民。
「ヒビ人(じん)」 フーレ湖、レバノン山、ヘルモン山に囲まれる地の先住民。
「エブス人(じん)」 エルサレムの先住民。
「ギブオン」 『丘(おか)』の意味。エルサレムの北西9.6キロ。その住民はヒビ人(じん)。
「ギルガル」 ヨルダン川を渡った後、イスラエルの民が最初に宿営した地。エリコの東3キロの町。聖書巻末地図3参照。
「あなたたちは何者か、どこから来たのか」 イスラエルは、カナンの全住民を滅ぼし尽くすように神から命じられているので、和解することは不可能であった。
「ヘシュボン」 ヨルダン川の東方約29キロにあった町。エリコとほぼ同緯度。エルサレムから東へ約60キロ。ヤボク川とアルノン川の間にある。聖書巻末地図2参照。
「シホン」 アモリ人(じん)の王。旧約聖書民数記21章21〜24節参照。
「アシュタロト」 女神(めがみ)アシュタロト礼拝とかかわりを持つためにつけられた地名。ヨルダン川西岸に位置し、バシャンの王オグに属した主要都市の一つ。
「バシャン」 ヨルダン川の東、ヤボク川からヘルモン山(ざん)までの間、ゲネサレ湖(こ)(ガリラヤ湖)からハウラン山脈までの間の地帯を指(さ)す。聖書巻末地図3および5参照。
「オグ」 バシャンの王。巨人の種族レファイム人(じん)の生き残り。旧約聖書民数記21章33〜35節参照。
「男たち」 イスラエル人。
「主の指示」 託宣(たくせん)。
「共同体」 会衆。つどい。集会。
「彼ら」 ギブオン人。
「うちに」 領域内に。
「ケフィラ」 ギブオンの南西、エルサレムの北西13キロと推定される。
「ベエロト」 エルサレムの北14キロと推定される。
「キルヤト・エアリム」 バアル礼拝の中心地で、エルサレムの西11キロと推定される。
「わが神の宮」「主の祭壇」 共同体全体の中心。
「柴刈(しばか)りと水くみ」 最も低い奴隷(どれい)の仕事。
63 旧約聖書ヨシュア記4章1節〜6章27節 水 野 吉 治 2010/07/18
(1)記念の十二の石(4章1〜24節)
「ヨルダン川」 パレスチナ最大の川。北のヘルモン山(ざん)(聖書巻末地図3参照)に端(たん)を発し、ガリラヤ湖(こ)を経(へ)て南下し、死海に流れ込む。全長は直線距離で約217キロ(阪神間から名古屋付近まで)、蛇行距離では400キロ。ヨルダン峡谷(きょうこく)の幅(はば)は、5キロ(およそ小林と西宮北口間)から20キロ(直線で小林と大阪城間)まで変化している。キリストが洗礼者ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けたのはヨルダン川であった。
「祭司」 いけにえをささげ、律法を教える職務。
「ヨシュア」 モーセの後継者。カナン征服の際の軍事的指導者。70歳ぐらいと推定される。エフライム族の家系の長エリシャマの子ヌンの子。ホシェアと呼ばれていたが、モーセによってヨシュアと改名された。ヨシュアはヘブライ語の発音ではイエーシューア(ヤハウエは救い)、ギリシア語ではイエースース(イエス)。110歳ぐらいで死。
「イスラエル」 紀元前13世紀ごろパレスチナに形成された部族連合。旧約聖書創世記32章29節によれば、神によってヤコブにイスラエルの名が与えられた。ヤコブの12人の息子の子孫で形成された部族共同体がイスラエルと呼ばれた。紀元前1020年ごろに、サウルがイスラエルの王となり、紀元前1000年ごろに、ダビデのもとに統一王国イスラエルが生まれた。紀元前926年ごろに、北のイスラエルと南のユダの2王国に分裂、紀元前722年に、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされた。これによってイスラエルは、国の名前としては消滅するが、宗教共同体の名前としては残った。
「主の箱」 契約の箱。十戒のはいった箱。
「ヨルダン川の流れ」 一説によると、ヨルダン川はほとんど一年中歩いて渡ることができる。ただし、春の刈り入れの時期である3月から4月にかけて、ヨルダン川北方のヘルモン山(ざん)(聖書巻末地図3参照)の雪が溶(と)けて水量が増すので渡ることができなくなる。
「モーセ」 レビ人(びと)アムラムと妻ヨケベドの間に生まれた。上には3歳年上の兄アロンと姉ミリアムがいた。イスラエル民族を率いてエジプトを脱出し、カナンに入る前に、アロンもミリアムも死に、モーセも120歳で死んだ。
「ルベン」 ヤコブの長男。ルべン族は、トランス・ヨルダン(ヨルダン川以東)に定住。12部族の割り当て地については聖書巻末地図3参照。
「ガド」 ヤコブとジルパとの第1子。ヤコブの7番目の息子。ガド族はイスラエル最強の部族。
「マナセ」 ヨセフの長男。エフライムの兄。
「半部族」 マナセ部族は、ヨルダン川の東岸地区と西岸地区に分かれて入植したので、どちらか一方をさす場合、半部族と言った。ここでは東岸地区の半部族。
「エリコ」 死海(塩の海)に注ぐヨルダン河口から北西約16キロにある、堅固(けんご)に城塞化(じょうさいか)された町。聖書巻末地図2および3参照。
「第一の月」 アビブの月。ニサンの月。捕囚後のヘブライ人の宗教暦の1月。太陽暦では3月と4月。
「ギルガル」 1.ヨルダン川を渡った後、イスラエルの民が最初に宿営した地。エリコの東3キロの町。聖書巻末地図3参照。
2.ゲリジム山麓(さんろく)の東1.6キロあたりと考えられるが正確には不明。
3. アドミムの丘陵地帯にある町。
ここでは1を指す。
「葦(あし)の海」 1.出エジプトに際してイスラエル人が渡った海。ナイル川河(か)口(こう)。聖書巻末地図2参照。
2.シナイ半島の西側にあるスエズ湾。アカバ湾をさす場合もある。
(2)契約のしるし(5章1〜15節)
「アモリ人(じん)」 パレスチナの山岳地方の先住民の総称。
「カナン人(じん)」 パレスチナの沿岸平原地方の先住民の総称。
「割礼(かつれい)」 聖書巻末用語解説p.22「割礼」の項参照。現在でもユダヤ教、イスラム教、アフリカの諸民族などでも、宗教上の理由から割礼が行われていると言われる。成人男性が割礼を受けると、その3,4日目に激痛が襲うと言う。ユダヤ教の割礼はキリスト教の洗礼にあたる。
「ギブアト・アラロト」 『包皮の丘』。イスラエル人にヨシュアが割礼を施した場所。ギルガル付近。正確な場所は不明。
「乳と蜜の流れる」 豊かであること。
「エジプトでの恥辱(ちじょく)」 エジプトでは無割礼は非文明人のしるしであるとされていた。
「取り除いた(ガラ)」 『取り除いた』のヘブライ語が『ガラ』。カナン人の聖所ギルガルは石柱礼拝の痕跡を残しているから、それを消して、イスラエル化するための語呂(ごろ)合(あ)わせ。
「過越祭(すぎこしさい)」 聖書巻末用語解説p.32参照。全員が割礼を受けたので、シナイを去って40年ぶりに過越祭を祝うことができた。ユダヤ教の過越祭はキリスト教の聖餐式に当たる。
「酵母(こうぼ)を入れないパン」 聖書巻末用語解説p.31『除酵(じょこう)祭(さい)』参照。
「炒(い)り麦(むぎ)」 旧約聖書レビ記2章14節参照。
「マナ」 神が荒れ野でイスラエルの民に与えられた食物。旧約聖書出エジプト記16章1〜31節参照。民がそれを見て「これは一体何だろう」(マーン・フー)と言ったことによると言われる。
「履物(はきもの)」 地上のすべての罪とけがれの象徴。旧約聖書出エジプト記3章1〜6節参照。
(3)エリコの占領(6章1〜27節)
「七人」「七日目」「七周」 「七」は聖なる数。完全数。天地創造は七日目に完成しその日が安息(あんそく)日(び)とされた(旧約聖書創世記2章1〜3節)。徹底的復讐(ふくしゅう)は七倍、または七十七倍(旧約聖書創世記4章15、24節)。徹底的赦(ゆる)しも七の七十倍(新約聖書マタイによる福音書18章
21,22節)。清めも七度(たび)(旧約聖書レビ記4章17節、その他)。秘儀(ひぎ)も七の数(新約聖書ヨハネの黙示録5章1節、その他)。ちなみに音階が七であることは、人間の記憶容量が七であることに起因するという説もある。
「民(たみ)」 イスラエル全体ではなく、ルべンとガドの人々、およびマナセの半部族。
「その他(た)の民」 ルべンとガドの人々およびマナセの半部族を除くイスラエル全体。
「ラハブ」 『広い』の意味。エリコの遊女。キリストの系図に名前が加えられている(新約聖書マタイによる福音書1章5節)。おそらくヨシュアがつかわした二人の斥候(せっこう)をかくまったことが認められたためと思われる(旧約聖書ヨシュア記2章1〜24節)。
「宝物倉(ほうもつぐら)」 聖所(せいじょ)の祭儀(さいぎ)用備品を保管する倉庫。
「あなたたちが誓ったとおり」 ラハブが二人の斥候のことをだれにも漏(も)らさないなら、ラハブの一族に誠意を示し、彼らの命を救うこと。
付録1 「エリコの戦い」
1.黒人霊歌“The Battle of Jericho”「エリコの戦い」
Joshua fit the battle, yes, the battle of Jericho, (repeat)ヨシュアは攻めた、そうさ、エリコの戦い(繰り返し)
Joshua fit the Battle of Jericho, Jericho, Jericho. ヨシュアは攻めたりエリコ、エリコ、エリコ
Joshua fit the Battle of Jericho, ヨシュアは攻めたりエリコ
And the walls come tumbalin’ down. 崩れ落ちる城壁
(repeat) (繰り返し)
Joshua fit the battle, yes, the battle of Jericho, (repeat)ヨシュアは攻めた、そうさ、エリコの戦い(繰り返し)
Talk about your king of Gideon, ギデオンの王の話も結構
(Go on you can talk about,) (そうだ、話せばいいさ)
Talk about your men of Saul, サウルの男どもの話もいいが
(go on, yes, you can talk about him,) (そうよ大いに話せ)
None like good old Joshua at the Battle of Jericho. 何てったってヨシュアさ、攻め落とせりエリコ
Joshua fit the battle, yes, the battle of Jericho, (repeat)ヨシュアは攻めた、そうさ、エリコの戦い(繰り返し)
Right up to the walls of Jericho, (Jericho.) エリコの城壁めがけ
He marched with spear in hand. 槍持て進み
(Blow that horn, Joshua.) (角笛を吹けヨシュア)
“Go blow that ram horn !” Joshua cried.ヨシュアは叫べり「角笛吹き鳴らせ!」
‘Cause the battle am in my hand. 戦いはもうこちらのものさ
Then the lamb, ram, sheep horns begin to blow角笛鳴りわたり、ラッパも高鳴り
And the trumpet begins to sound. ラッパも高鳴り
Joshua commanded the children to shout ! 湧き起こるときの声に
And the walls come a tumbalin’ down. 崩れたり城壁
Joshua fit the battle, yes, the battle of Jericho, (repeat)ヨシュアは攻めた、そうさ、エリコの戦い(繰り返し)
The walls come tumbalin’ down. 崩れ落ちたり城壁↑
旧約聖書「ヨシュア記」に語られる「エリコの戦い」を歌った黒人霊歌です。モーセに率いられて囚われの地エジプトを脱出したイスラエルの民が、その後継者ヨシュアの統率のもと、約束の地カナンの目前に立ちはだかるエリコの城壁を攻め落とす話ですが、黒人奴隷たちがこの物語に心酔して歌に歌ったのは、やはり「奴隷の身からの脱出」への想いであり、それをはばむものを神の奇跡によって打ち崩す英雄的行為への喝采(かっさい)に他なりません。これはモーゼズ・ホーガンの数ある編曲の中でも白眉(はくび)といえるものの一つで、強烈なリズムとシンコペーションの中に勇壮な戦いの情景を見事に描き出しています。
2.エリコの町
1967年の第3次中東戦争以来イスラエルに占領されてきましたが、94年、ヨルダン川西岸(せいがん)地区でパレスチナの自治へ移行される最初の都市になりました。人口は1万4744人(1997年推計)です。
エリコは海面下約240mという世界でもっとも低いところにある都市のひとつです。気候は、夏は暑く乾燥し、冬はおだやかで、周辺ではナツメヤシ・バナナ・柑橘類(かんきつるい)が栽培されています。農地のほとんどが個人の小さな井戸で灌漑(かんがい)されています。また、町は古代から水を供給してきたアイン・アッスルタン泉の水をつかっています。農業に加えて、長年にわたる観光産業があります。エルサレムや他のイスラエル北部の都市からの道路網はエリコに集中し、さらに南へ死海やネゲブ砂漠へとつづいています。また、ヨルダン国境を横断するアレンビー橋からの道路もこの町に通じています。
エリコの名所としては、原形をほぼ完璧にのこしたモザイクのある6世紀のシナゴーグや、現存する初期イスラム建築のひとつであるヒシャーム宮殿があります。この宮殿はウマイヤ朝カリフ(イスラム教の最高権威者)であるヒシャームが冬をすごす宮殿として700年代にたてられたものです。近くには「誘惑の山」があり、新約聖書によれば、悪魔がイエス・キリストを誘惑した場所となっています。また、1947年に死海写本が発見されたクムランの洞窟も近くにあります。
エリコは、前6世紀にはペルシャ人の行政拠点でした。前4世紀にはアレクサンドロス大王のための行楽地になりました。ローマ皇帝アウグストゥスは、前30年ごろ、エリコをヘロデにあたえました。ヘロデは、新しい送水路を整備し、避寒(ひかん)用の冬宮殿(ふゆきゅうでん)をたてました。
4〜7世紀にはエリコは多くの巡礼者がおとずれる場所となり、人口が増加しました。都市は7世紀になるとアラブ人による支配にかわりました。12〜13世紀には十字軍がエリコを支配し、この地域にサトウキビの栽培が広まりました。イスラム教の指導者サラーフ・アッディーンが十字軍をやぶった後は活気をうしないました。1840年にはエジプトの将軍イブラーヒーム・パシャの軍隊が撤退するときに町は破壊されました。
1920年パレスチナがイギリスのパレスチナ委任統治領(いにんとうちりょう)になったとき、エリコはその一都市となりました。47年国際連合(国連)のパレスチナ分割案で、パレスチナはユダヤとアラブの2つの国に分割されることとなり、エリコはアラブの支配下にわりあてられました。イスラエルが48年に独立を宣言すると、まもなくイスラエルと近隣のアラブ諸国との間に戦争がおこりました。第1次中東戦争として知られているこの戦争は49年までつづきました。その結果、強制退去させられたパレスチナ人のエリコへの人口流入が生じ、エリコの経済が発展することになりました。
エリコは、1949〜67年にはヨルダンの統治下におかれました。その間にパレスチナ人の民族主義者、ムーサー・アラーミーが農業学校を創設し、実験農場でパレスチナ難民のための農業研修をおこないました。67年の第3次中東戦争の後に、エリコや他のヨルダン川西岸地区は、イスラエル政府に占領されました。
ヨルダン川西岸地区の人口集中地域から離れていて人口が比較的少ないために、エリコはヨルダン川西岸地区とガザでおこったパレスチナ蜂起(ほうき)(インティファーダ(1987〜93))の反イスラエル運動からの影響は小さいものでした。こうした理由で、1993年イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の間でおこなったパレスチナ暫定自治原則宣言をうけて、ヨルダン川西岸地区でのパレスチナ自治を開始する場所としてえらばれました。
1994年5月、イスラエル軍管理からPLO指導のパレスチナ自治政府(PNA)への移行に関する詳細をさだめたパレスチナ暫定自治協定がカイロで調印されました。協定の条項では、PNAは、エリコ地区でのパレスチナとしての業務遂行に責任を持つとなっています。エリコ地区とは、エリコの都市部、その周辺地区、エリコの北にのびる細長いアウジャー地区をさしています。一方、イスラエル政府はイスラエル人居住者とイスラエル人観光客や、外交問題に権限をもつことになりました。99年5月までにおわる予定のヨルダン川西岸地区に関するイスラエル・パレスチナ交渉での枠組みの中で、エリコのおかれる立場がきめられることになっていましたが、この交渉はすすんでいません。
付録2 「皆殺しの論理」
1.民族浄化
民族浄化(じょうか)(ethnic cleansing)とは、複数の民族集団が共存する地域において、ある民族集団を強制的にその地域から排除しようとする政策を言います。直接的な大量虐殺や強制移住のほか、各種の嫌がらせや見せしめ的な暴力、殺人、組織的強姦、強制妊娠などによって地域内からの自発的な退去を促す行為も含まれます。また、直接的暴力を伴わない同化政策も広義には民族浄化に含まれるという見方もあります。
第二次世界大戦時のナチス・ドイツの傀儡(かいらい)ファシスト国家であったクロアチア独立国の教育大臣ミレ・ブダクは「われわれは、セルビア人の3分の1を殺害し、3分の1を追放し、3分の1をカトリックに改宗させてクロアチア人にする」と言いました。これは、セルビア人に対する民族浄化を示唆(しさ)した発言であり、民族の3分の1ずつの大量虐殺、強制移住、同化政策によってセルビア人を根絶(こんぜつ)することを意図(いと)するものでした。
「民族浄化」という言葉は、1990年代にボスニア紛争を契機にして使われ始め、1992年頃から世界の主要メディアでも広く使用されるようになりました。アメリカの広告代理店「ルーダー・フィン社」は当初、セルビア人による虐殺を非難するための言葉として「ホロコースト」を使用しましたが、この言葉をナチスによるユダヤ人虐殺以外に使わせることをユダヤ人団体が認めようとせず不快感をあらわにしたので、これに代わる言葉を見つけ出す必要がありました。ルーダー・フィン社は、ボスニア紛争以前に契約していたクロアチア側が、セルビア人を非難するために「民族浄化」という言葉を使っていたことを知り、 セルビア側を非難する際に使用するようになりました。
2. ダルフール紛争
ダルフール紛争は、アフリカ・スーダン西部のダルフール地方で、2009年現在も進行中の紛争です。特に近年では、ダルフール地方の反政府勢力の反乱を契機に、スーダン政府軍とスーダン政府に支援されたアラブ系の民兵組織「ジャンジャウィード」が、地域の非アラブ系住民に対して大規模な虐殺や村落の破壊を行いました。
この紛争により、2003年2月の衝突から2006年2月までの概算で、18万人が殺害され、現在進行中の民族浄化の事例として広く知られるようになりました。2004年6月3日の国連事務総長の公式統括(とうかつ)によれば、1956年以来、(1972年から1983年の11年間を除いて、)200万人の死者、400万人の家を追われた者、60万人の難民が発生しているとされます。
ダウド・ハリはダルフールの非アラブ系のザガワ族の出身ですが、英語に堪能(たんのう)なので、通訳として、外国のジャーナリストたちをダルフールに案内し、ダルフールの惨状を外国に伝えてもらうことを自分の使命と感じていました。ダウド・ハリ自身の村も焼き討ちされ、兄をはじめ多数の親族が殺されました。その手記「ジェノサイドの目撃者―ダルフールの通訳」という本は、2008年に出版されました。
その中で語られる「民族浄化」の現実は悲惨です。
ある男が「ジャンジャウィード」と呼ばれる民兵につかまり、木に縛りつけられました。処刑されようとしたのです。それを遠くから見ていた4歳の娘は、「お父さん、お父さん」と叫びながら走ってきました。それを見た民兵は、銃剣で娘を突(つ)き刺(さ)しました。お腹(なか)に刺さった刃(は)が娘の背中まで突き通りました。民兵は娘を突き刺したまま銃を高く持ち上げました。娘の体から噴(ふ)き出す血を全身に浴(あ)びながら、民兵は娘の体を空中に掲(かか)げて踊りまわっていたと言います。娘は苦しみながら死んでゆきました。
こんな惨劇が毎日のように繰り返されたというのです。その背景には宗教対立があります。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人(セルビア正教徒)によるボスニャク人(イスラム教徒)に対する民族浄化策は国際的に非難を浴びました。
民族対立の陰(かげ)には、必ず宗教対立があります。現代において、際立(きわだ)っている宗教対立は、ユダヤ教対イスラム教と、キリスト教対イスラム教でしょう。パレスチナで火花を散らす紛争は、すべてユダヤ教とイスラム教の対立に根差(ねざ)していると言えるでしょう。
3. 究極の民族浄化―原爆と人類の「業(ごう)」
1945年8月6日広島、次いで8月9日長崎と、相次いで2発の原子爆弾が日本に落とされました。その残酷な非人間性こそ「究極の民族浄化」と呼ぶにふさわしいものです。
広島の原爆は、熱線(ねっせん)と衝撃波(しょうげきは)によって、わずか10秒間で広島の町を壊滅させました。上空で6000度、地上で2000度の熱線は、鉄筋の屋根を吹き飛ばしました。さらに風速500メートルの衝撃波(しょうげきは)は瞬時にビルを破壊しました。熱線を浴びた人々は焼き殺され、上空に吹き上げられ、地表にたたきつけられました。死者の数は15万人に達し、生き残った被爆者は数10万人に及びました。被爆者は放射線によって、その後60年以上苦しんで死んでゆきました。
当時19歳の新見愛枝(にいみいと(え)は、爆心地から1.3キロの自宅で母といっしょに掃除をしていました。8月6日の朝でした。突然、夜の稲妻(いなずま)のような光を感じました。腰のあたりを大きな丸太(まるた)ん棒で殴(なぐ)られたような感じがして前に倒れました。気がついたら周囲は真っ暗で、妙にシーンとしていました。家の屋根は飛ばされて一部が垂れ下がっていました。家を出て南に向かうと、4キロ以上離れた所にある三菱造船所で働いていた男子学生が向こうから、よろよろ歩いてきました。ガラスの破片が頬(ほほ)を突きぬけて口の中まで刺さっていました。
1時間もたたないころ、黒い土が空から降ってきました。1分くらいの時間でしたが、当たるととても痛かったそうです。
歩いて川の近くまで来ると、たくさんの死体が浮いていました。さらに歩いてゆくと神社があって、大きな楠(くすのき)が、根っこのあたりまで燃えていました。そこでは人が焼かれて骨だけが残り、目・鼻・口の中がお粥(かゆ)を炊(た)いているようにぶつぶつ煮えたぎっていました。周りに火はないのに骨だけで熱くなっているようでした。
その先では軍服を着た一人の兵士が大きな声で、
「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。」
と、軍人勅諭(ちょくゆ)を何回も何回も繰り返していました。気が狂ってしまったのでしょう。
翌日から愛枝(いとえ)は父と弟とを探しに出ましたが、丸焦(まるこ)げの死体ばかりでした。その中を探し回ると、突然父のほうから声をかけてきました。胸から上は大やけどで、顔はくずれて見分けがつかなくなっていました。父に「弟の行方が分からない」と言うと、父は
「若いのにかわいそうにのう。代わってやりたかったのう。わしはいいから、お前は防空(ぼうくう)壕(ごう)へ行って避難(ひなん)せい」
と言いました。それから父にずっと付き添っていましたが
「砂糖水が飲みたい。トマトや桃が食べたい。医者を呼んできてくれ」
と言います。でも愛枝(いとえ)は何一つしてやれませんでした。最後は声もほとんど出なくなり、水ものどを通らなくなりました。そして8月13日に亡くなりました。弟の消息はいまだに分かりません。
その後愛枝(いとえ)は高熱に苦しみましたが、1946年には働けるようになりました。
やがて結婚して男児が産まれました。ところが子どもの心音がおかしいのです。普通は「ドクッ、ドクッ」というのに、「ジャーッ、ジャーッ」という雑音が聞こえるのです。しかし、さいわい子どもは無事に成人し、結婚し、子どもを授かりました。ところが、その子は、生まれて20日目に熱を出し、顔が腫(は)れて目がふくれ上がってきました。えんじ色のような色でした。医者は
「骨髄炎(こつずいえん)です。心臓にも雑音があります。身内に被爆者はいませんか」
と言います。それでも、子どもは生き延びました。次いで女児も生まれました。ところが、その孫娘が24歳になったとき、生殖器に異常があることが分かりました。さらに、その2歳年下の孫娘には片方の卵巣に腫瘍(しゅよう)が見つかって切除しました。
こうして原爆の呪(のろ)いは孫子(まごこ)の代(だい)まで尾(お)を引いています。これで呪いが終わったのかどうかは分かりません。民族浄化は、1民族1代きりのものではないのです。人類の続く限り、終わることがありません。それを人類の「業(ごう)」と言います。その解決は、「究極的な生きる意味」を追求する以外にありません。
引用・参考文献
「昭和の記憶を掘り起こす」中村正則著 小学館 2008年
「空爆の歴史」荒井信一著 岩波新書 2008年
「日本民衆の歴史9 戦争と民衆」藤原彰編 三省堂 1975年
「封印されたヒロシマ・ナガサキ」高橋博子著 凱風社 2008年
「ダルフールの通訳―ジェノサイドの目撃者」ダウド・ハリ著 ランダムハウス講談社 2008年
「戦争と民衆―イラクで何が起きたのか」小倉孝保著 毎日新聞社 2008年
62 旧約聖書ヨシュア記1章1節〜3章17節 水 野 吉 治 2009/07/16
(1)モーセの後継者ヨシュア(1章1〜18節)
「モーセ」 レビ人(びと)アムラムと妻ヨケベドの間に生まれた。上には3歳年上の兄アロンと姉ミリアムがいた。イスラエル民族を率いてエジプトを脱出し、カナンに入る前に、アロンもミリアムも死に、モーセも120歳で死んだ。
「ヌン」 エフライムの子孫。ヨシュアの父。
「ヨシュア」 モーセの後継者。カナン征服の際の軍事的指導者。70歳ぐらいと推定される。エフライム族の家系の長エリシャマの子ヌンの
子。ホシェアと呼ばれていたが、モーセによってヨシュアと改名された。ヨシュアはヘブライ語の発音ではイエーシューア(ヤハウエは救い)、ギリシア語ではイエースース(イエス)。110歳ぐらいで死。
「ヨルダン川」 パレスチナ最大の川。北のヘルモン山(ざん)(聖書巻末地図3参照)に端(たん)を発し、ガリラヤ湖(こ)を経(へ)て南下し、死海に流れ込む。全長は直線距離で約217キロ(阪神間から名古屋付近まで)、蛇行距離では400キロ。ヨルダン峡谷(きょうこく)の幅(はば)は、5キロ(およそ小林と西宮北口間)から20キロ(直線で小林と大阪城間)まで変化している。キリス
トが洗礼者ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けたのはヨルダン川であった。
「イスラエル」 紀元前13世紀ごろパレスチナに形成された部族連合。旧約聖書創世記32章29節によれば、神によってヤコブにイスラエルの名が与えられた。ヤコブの12人の息子の子孫で形成された部族共同体がイスラエルと呼ばれた。紀元前1020年ごろに、サウルがイスラエルの王となり、紀元前1000年ごろに、ダビデのもとに統一王国イスラエルが生まれた。紀元前926年ごろに、北のイスラエルと南のユダの2王国に分裂、紀元前722年に、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされた。これによってイスラエルは、国の名前としては消滅するが、宗教共同体の名前としては残った。
「レバノン山(さん)」 シリアの山脈。南端は北ガリラヤの丘陵に続く。「レバノン」はヘブライ語「白」の派生語。石灰岩の白さと、頂上の雪の白さに関係している。聖書巻末地図3参照。
「ユーフラテス」 西アジア最大の川。全長約2800キロ。日本最大の川信濃(しなの)川でも369キロ。淀川にいたっては79キロ。
「ヘト人(じん)」 パレスチナ南部に住んでいた先住民族。ハムの子孫カナンの子。
「大海(おおうみ)」 地中海。
「ルベン」 ヤコブの長男。ルべン族は、トランス・ヨルダン(ヨルダン川以東)に定住。12部族の割り当て地については聖書巻末地図3参照。
「ガド」 ヤコブとジルパとの第1子。ヤコブの7番目の息子。ガド族はイスラエル最強の部族。
「マナセ」 ヨセフの長男。エフライムの兄。
「半部族」 マナセ部族は、ヨルダン川の東岸地区と西岸地区に分かれて入植したので、どちらか一方をさす場合、半部族と言った。ここでは東岸地区の半部族。
ルべン人(じん)、ガド人(じん)、マナセの半部族は、すでにモーセによってヨルダン川の東岸の地を与えられることを約束されていました。しかし、それは彼らがヨルダンを渡り、他の部族の戦闘を助けることが条件でした。
(2)エリコを探る(2章1~24節)
「シティム」 『アカシヤの木』の複数形。ヨルダンの東岸、モアブの平原にあり、エリコの対岸10キロあまり南東に位置する地。(エリコの位置は聖書巻末地図2参照)
「エリコ」 死海(塩の海)に注ぐヨルダン河口から北西約16キロにある、堅固(けんご)に城塞化(じょうさいか)された町。聖書巻末地図2および3参照。
「ラハブ」 『広い』の意味。エリコの遊女。キリストの系図に名前が加えられている(新約聖書マタイによる福音書1章5節)。おそらくヨシュアがつかわした二人の斥候(せっこう)をかくまったことが認められたためと思われる。
「葦(あし)の海」 1.出エジプトに際してイスラエル人が渡った海。ナイル川河(か)口(こう)。聖書巻末地図2参照。
2.シナイ半島の西側にあるスエズ湾。アカバ湾をさす場合もある。
「アモリ人(じん)」 パレスチナ先住民の総称。
「シホン」 アモリ人(じん)の王。旧約聖書民数記21章21〜24節参照。
「オグ」 バシャンの王。巨人の種族レファイム人(じん)の生き残り。旧約聖書民数記21章33〜35節参照。
「城壁(じょうへき)の内側(うちがわ)」 エリコは、2.5メートルないし4.5メートルの間隔をおいて二重の城壁をもって囲まれていた。ラハブの家は二つの城壁の間に材木を渡してその上に建てられていたと思われる。
(3)ヨルダン川を渡る(3章1〜17節)
「契約の箱」 十戒のはいった箱。
「レビ人(びと)・レビ族」 ヤコブの子レビの子孫。祭司の補助をする職務が与えられている。申命記では、レビ人(びと)・レビ族はすべて祭司であり、祭司はすべてレビ人・レビ族である。祭司とレビ人・レビ族との関係は解明されていない。
「祭司」 いけにえをささげ、律法を教える職務。
「アンマ」 約45センチ。二千アンマは約900メートル。
「聖別」 身を清め、衣服を洗い清め、性的禁欲を守ること。
「カナン人(じん)」 パレスチナ先住民の総称。
「ヘト人(じん)」 パレスチナ南部に住んでいた先住民族。ハムの子孫カナンの子。
「ヒビ人(じん)」 フーレ湖、レバノン山、ヘルモン山に囲まれる地の先住民。
「ペリジ人(じん)」 ヨルダン川の西、パレスチナ中部山岳地帯に住んでいた先住民。
「ギルガシ人(じん)」 エリコ付近にいたカナン人(じん)。
「アモリ人(じん)」 パレスチナ先住民の総称。
「エブス人(じん)」 エルサレムの先住民。
「ヨルダン川の水」 一説によると、ヨルダン川はほとんど一年中歩いて渡ることができる。ただし、春の刈り入れの時期である3月から4月にかけて、ヨルダン川北方のヘルモン山(ざん)(聖書巻末地図3参照)の雪が溶(と)けて水量が増すので渡ることができなくなる。
「天幕を後(あと)にした」 天幕をたたんで出発した。
「ツァレタン」 ヨルダン峡谷(きょうこく)の町。
「アダム」 ヨルダン東岸、モアブの平原の町。エリコの30キロ北、ヤボク川がヨルダンに注ぐ地点に近い。聖書巻末地図3参照。
「アラバ」 ヨルダン峡谷を含みパレスチナを縦断する低地。「荒れ野」「砂原」の意味。
「塩の海」 死海。
付録 領土分割と先住民
1.アフリカの場合
アフリカ大陸の地図を見て気がつくことは、アフリカ大陸に直線の国境が多いことです。普通の国境は、民族の境界線に引くことが多いので、山や川に沿ってジグザグの形ですが、アフリカはきれいな直線で引かれています。
アフリカ大陸によく見られるまっすぐな国境というのは、実はアフリカの悲しい歴史を反映したものなのです。
16世紀に大航海時代が始まると、探検家たちがヨーロッパ以外の土地を次々と植民地にしていきました。アフリカにはポルトガルとスペインが進出していきました。最初は平和的な交易(こうえき)が行われていましたが、アメリカ大陸における労働力不足が深刻となり、奴隷交易が始まりました。原住民を拉致(らち)して、アメリカ大陸に奴隷として売り飛ばしたのです。(ちなみにオバマ大統領は黒人奴隷の子孫ではありません。父はケニアからアメリカにやってきたエリート留学生です。母はカンザス州出身の白人です。のちに両親は離婚しています。)
16世紀から17世紀にスペインとポルトガルが没落(ぼつらく)して、代わりにイギリスやフランスがアフリカに触手(しょくしゅ)を伸ばしていきました。19世紀になると、ドイツやイタリア、ベルギーなどの新興国までアフリカへ触手を伸ばして行ったのです。こうして当時のアフリカは、列強による領土争いの場にされてしまいました。
その混乱を収(おさ)めるために、1884年にドイツのビスマルクが主催した「ベルリン会議」が行われました。この会議には、当時のヨーロッパ列強13か国が参加しました。そこで「植民地分割の基本原則」が同意されました。
この原則によると、アフリカ大陸の沿岸部を支配している国が、後背地(こうはいち)も植民地に出来るようになりました。その結果、列強によるアフリカ植民地分割で植民地の境界線が決定し、アフリカの植民地の境界線は直線が多くなったのです。
第2次世界大戦が終わってアフリカに独立運動が起こり、新しい国がどんどん出来ていきました。その際植民地時代の直線の境界線が国境になりました。列強が引いた国境線は、当然アフリカの民族とは無関係なので、同じ民族が離れ離れになったり、対立する民族が一緒になったりすることが多くありました。そしてアフリカでは民族対立による戦争が相次(あいつ)ぐ結果になったのです。
2.アメリカの場合
アメリカの場合を考える際に忘れてはならないことがあります。それはピューリタン(清教徒)のことです。
英国には西暦597年以来カトリックが伝わっていましたが、ヨーロッパ大陸のルターやカルヴァン(カルビン)の宗教改革の影響を受けて16世紀ごろローマ教皇の指導を離れて自立しました。しかし英国教会の改革が不徹底であるとして、牧師のガウンや祭壇の装飾などが聖書的でないと批判するピューリタンたちの多くは、英国を捨てて新大陸アメリカに渡り始めます。その代表的な例が、1620年9月に帆船(はんせん)メイフラワー号で出帆した102人のピルグリム・ファーザーズ(父祖(ふそ)巡礼者(じゅんれいしゃ))でした。約2ヶ月後新大陸アメリカに到着しますが、そこは見渡す限り未開の荒野(こうや)でした。間(ま)もなく冬を迎えた一団は、厳寒と病気に苦しみます。そして春までに半数以上が死亡し、生き残ったのはわずか五十人ほどであったと言われます。しかし彼らは、献身的に病人の看病にあたり、仲間を励まし守り合いました。やがて春になると、地元の先住民(インディアン)から、トウモロコシの栽培や、タラの漁の方法も学びました。秋には先住民と収穫感謝祭(サンクスギビング)を祝いました。トウモロコシやタバコの栽培を教えてくれたのも先住民でした。
ところがその後、新大陸で広大な土地を手に入れることができるという開発業者の宣伝を信じて、アメリカにやってきたのは、イギリスで食い詰めた移民たちでした。彼らは我先(われさき)にと無知な先住民をだまして土地を取り上げました。1830年にジャクソン大統領は、「野蛮人」(先住民)の一掃(いっそう)のためと称して強制移住法を制定し、すべての先住民をミシシッピー川以西(いせい)に立ち退(の)かせます。ところが探検や調査が進むにつれて、ミシシッピー川以西も、以東(いとう)に劣(おと)らぬ資源の宝庫であることが判明し、移民たちは幌馬車(ほろばしゃ)を駆(か)って西へ西へと殺到(さっとう)したのです。悪名高き「西部開拓時代」の始まりです。
アメリカ合衆国建国以来、土地所有をめぐって先住民と移民との間に結ばれた条約・協定は300を超(こ)えたと言われますが、そのすべては次々に移民によって一方的に破られました。その上、先住民の大切な資源であるバッファローを、移民たちは面白半分に撃ち殺しました。
アメリカの言う「フロンティア」(未開拓地)とは実際には「アメリカ先住民の掃討(そうとう)の最前線」であり、スー族に対する「ウンデット・ニーの300人の虐殺(ぎゃくさつ)」があった1890年に「アメリカ先住民の掃討が完了した。」としてアメリカ政府は「フロンティアの消滅」を宣言しました。そして先住民たちは狭い保留地(ほりゅうち)に閉じ込められました。最初北米の先住民の人口は200万人から500万人でしたが、殺戮(さつりく)と白人のもたらした伝染病とによって、1890年ごろには35万人にまで減(へ)ってしまいました。1924年「インディアン市民権法」が制定されて、ようやく人間扱いされるようになり、1990年には北米インディアン人口は310万人まで回復しました。 アメリカの州は一部を除けば、多くが買収(ばいしゅう)や割譲(かつじょう)により獲得された州です。そのため支配者同士が地図上で境界線を「ここからここまで」と決めるため直線的になります。明確に州境として使える山や川がないのも原因といえるかも知れません。アメリカとカナダの国境もそのような理由で直線部分が大きいのです。
約330年前にアメリカが建国されました。移民たちは、先住民がいたにも関わらず土地を略奪し、国を創(つく)りました。先住民を尊重して州境を作っていたのなら直線にはならなかったでしょう。
3.敗戦時の日本分割案
第二次世界大戦において、ドイツやオーストリアが降伏後、米・英・ソ・仏4カ国に分割統治されたように、敗戦後の日本も、北海道・本州・九州・四国を連合国それぞれが統治しようとしました。
アメリカ国立公文書館に現存する日本の分割統治計画によると、北海道と東北はソ連占領地域、関東・中部・福井県を除く北陸及び三重県付近はアメリカ占領地域、四国は中華民国占領地域、中国・九州はイギリス占領地域として統治し、首都東京の23区は米・中・ソ・英の共同管理、福井県を含む近畿は中華民国とアメリカの共同管理下に置くという計画でした。
結局この計画は実行されませんでした。実際には、連合国軍最高司令官総司令部(通称GHQ、実質はアメリカ)によって1952年(昭和27年)まで統一した占領(せんりょう)統治下(とうちか)におかれ、分割されることはありませんでした。仮に日本が、ドイツや朝鮮半島やベトナムのように、資本主義を支持する国と社会主義を支持する国で分割統治された場合、最悪の場合は朝鮮戦争やベトナム戦争のように、日本人同士が相(あい)討(う)つ事態になる可能性がありました。また東京の共同管理にもベルリンと同様の困難を伴(ともな)ったでしょう。また、すべての困難を乗り越えてドイツのように国家の再統合を達成しても、旧西ドイツと旧東ドイツのように、互いの国民の精神や生活水準に著(いちじる)しい差異(さい)が生じ、日本人同士の対立や差別が残ることになったでしょう。
4.ダンス・ウイズ・ウルブズ
『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(Dances with Wolves「狼(おおかみ)と踊(おど)る」)は1990年のアメリカ映画で、監督・主演・製作はケビン・コスナーです。第63回アカデミー賞作品賞ならびに第48回ゴールデングローブ賞作品賞を受賞しています。先住民の問題を考えるときの重要な視点を提供しています。
1861年から繰り広げられた南北戦争時代のフロンティアを舞台に北軍の中尉と、スー族と呼ばれるインディアンとの間で交わされる心の交流を描いた西部劇です。先住民族を虐殺しバッファローを絶滅寸前に追いやった白人中心主義のアメリカ社会に対して警鐘(けいしょう)を鳴らすと同時に、フロンティアへの敬意・郷愁(きょうしゅう)を表(あらわ)している点で従来の西部劇とは大きく一線を画(かく)し、また作品の中でたびたび用いられるインディアンのラコタ語に対し英語の字幕が充(あ)てられているという点でも異色の作品です。
マイケル・ブレイクによる原作小説は、発表当初、白人を批判するという内容に嫌悪感(けんおかん)を抱いた多数の出版関係者により発売を拒否されていました。しかし、俳優のケビン・コスナーは原作の内容に好感を持ちました。コスナー自身もチェロキー・インディアンとドイツ、アイルランドの混血だったのです。コスナーは原作者ブレイクに対し、自(みずか)らが監督も兼任するという形での映画化をねがいました。1988年にようやく原作が一般に向けて発売されるのと並行して、コスナーは『アンタッチャブル』『フィールド・オブ・ドリームズ』の成功により、アメリカを代表する2枚目スターの地位を確立し巨大な富を得ていました。それらの作品で得た私財の全てを継ぎ込んで、1989年7月に撮影が開始され、1990年に完成し、日本では1991年に劇場公開され、そのあとテレビでも放映されました。
あらすじは次のようになっています。
1863年秋、テネシー州は南北戦争の激戦地と化(か)しており、北軍の中尉であったジョン・ダンバーはその際右足に重傷を負(お)う。その足を切断されると思ったダンバーは意を決して馬を駆り、自殺的行為とも取れる囮(おとり)となって南軍兵士達の注意を逸(そ)らした。その隙(すき)を突いた北軍は一斉に進撃を開始し勝利を収めた。その後囮(おとり)としての功績を称(たた)えられ一躍英雄となり、見返りとして自由に勤務地を選ぶ権利を与えられたダンバーは、「失われる前にフロンティアを見ておきたい」とサウスダコタ州のセッジウィック砦(とりで)への赴任(ふにん)を直訴(じきそ)。見渡す限りの荒野の中で荒れ果てた「砦(とりで)」で自給自足の生活を始めた。開拓と食事、そして愛馬のシスコと「トゥー・ソックス(2つの靴下)」と名付けた狼(おおかみ)と戯(たわむ)れる生活が続いていたある日、スー族と呼ばれるインディアンがシスコを盗みに来たためダンバーは銃で威嚇(いかく)して追い払った。自(みずか)らの集落で「不思議な生活をしている白人がいる」と話をしたインディアンは、部族の将来のためにもダンバーと接触を試みたほうがよいとの結論を出した。またダンバーもインディアンとの接触を望んだ。翌日、軍服に身を包み星条旗を掲(かか)げたダンバーはインディアンが暮らす集落へと向かった。その道中(どうちゅう)、大怪我(おおけが)を負(お)って倒れている女性と遭遇(そうぐう)。インディアンの服装を身に纏(まと)っていたがよく見ると彼女の目は青い色をしていた。ダンバーがその女性を助けようとすると彼女は恐怖に震(ふる)えながら必死に抵抗した。しかし怪我が悪化し意識を失ってしまったため、ダンバーがスー族の集落まで彼女を送り届けた。
当初(とうしょ)集落の者たちは、白人に対する先入観からダンバーに不信感を抱(いだ)き彼を拒絶したが、彼の人柄を見込んだ長老の計らいで、後日それぞれ「蹴(け)る鳥」「風になびく髪」と呼ばれる二人の男を、返礼も兼ねてダンバーの元に遣(や)った。言葉も通じない自分たちを受け容(い)れたうえ精一杯(せいいっぱい)もてなすダンバーに、集落の中心的人物でもある「蹴(け)る鳥」は好感を抱いた。以降、スー族の面々は頻繁(ひんぱん)に彼の元を訪(おとず)れ、またダンバーも先住民族である彼らに白人文化を伝えようと試みることで徐々(じょじょ)に互いの友好を深めていった。
言葉がなかなか通じず、もどかしい思いをしていた双方の通訳を買って出たのは、ダンバーが以前助けた「拳(こぶし)を握(にぎ)って立つ女」と呼ばれる青い目の女性である。彼女は幼(おさな)いころ、ポーニー族とよばれる先住民族に家族を殺され逃げ延びたところをスー族に拾われ育てられた。そのため、ラコタ語を問題なく話す一方で、幼いころに身につけていた英語はたどたどしくなっていた。それでも彼女の養父である「蹴(け)る鳥」とダンバーの助けにより意思の疎通(そつう)が図(はか)れるようになった。
ある夜、凄(すさ)まじい物音で目を覚ましたダンバーが外に出てみるとそこにはバッファローの大群が群(む)れを成(な)して移動していた。バッファローはスー族にとって格好(かっこう)の狩猟(しゅりょう)相手(あいて)である。ダンバーは急いでスー族に報告。スー族は歓喜に沸(わ)き、目撃者であるダンバーは一躍(いちやく)彼らの知るところとなった。翌朝ダンバーはスー族と共に狩(か)りに出た。毛皮と角(つの)だけ剥(は)ぎ取り死体を放置する白人の暴挙(ぼうきょ)に心を痛めながらも、神聖な儀式でもあるスー族様式の狩りに参加する中でダンバーは今まで感じたことのない安らぎを覚えるとともに自分とはどんな存在であるかということに目覚めていく。
交流を深める中でダンバーは「拳(こぶし)を握(にぎ)って立つ女」を愛し、また彼女もダンバーを愛し始めていた。しかし「拳(こぶし)を握(にぎ)って立つ女」は前の夫を殺された後(あと)から喪(も)に服(ふく)していたため、仲間の前で想いを悟(さと)られないように努めていた。それに気づいた養母は「蹴(け)る鳥」に、「拳(こぶし)を握(にぎ)って立つ女」がダンバーと深く愛し合えるように彼女の喪(も)を明(あ)けさせることを提案。「蹴(け)る鳥」も快諾(かいだく)し、やがてダンバーと「拳(こぶし)を握(にぎ)って立つ女」は結婚し自(みずか)らのテントも授(さず)かった。さらに、ダンバーは他のスー族の者と同様に「狼(おおかみ)と踊(おど)る男(※砦(とりで)でトゥー・ソックスがダンバーに戯(たわむ)れていたところを、スー族の男に目撃されたことから)」というインディアン名(めい)までもらい、スー族の一員となると同時に一人の人間としての誇(ほこ)りを取り戻す。
やがて冬が到来し、山(やま)籠(ごも)りするために集落を移動する日が来た。しかし、ダンバーはスー族の足取りを白人に知られないよう、日々の出来事を克明に記録した日記を取りに、ひとりセッジウィック砦(とりで)に戻った。ところが砦(とりで)には既(すで)に嘗(かつ)て自(みずか)らが所属した騎兵隊(きへいたい)が大挙(たいきょ)して来ており、インディアンの服装を身に纏(まと)っていたダンバーは狙撃(そげき)され捕虜となってしまう。騎兵隊出身であるということを明(あ)かしたダンバーに対し、騎兵隊は反逆者として処刑を宣告する。なかなか帰って来ないダンバーの身を案じたスー族の勇者たちがダンバーを捜索(そうさく)すると、彼を護送(ごそう)する馬車を発見。奇襲(きしゅう)攻撃(こうげき)を仕掛け、ダンバーの命は救われた。しかし、インディアンの大量虐殺を目論(もくろ)む合衆国軍は目前(もくぜん)まで迫(せま)っていた。これ以上仲間たちに迷惑をかけるわけにはいかないと感じたダンバーは、別れを惜しむスー族に背を向けながら愛する妻を伴(ともな)って雪山の奥深くへと分け入(い)っていった。
この物語は、先住民と白人(移民)との間に引き裂かれ、自分のアイデンティティーをなくした一人の男の魂(たましい)の軌跡(きせき)を描(えが)きながら、「文明とは何か」「愛とは何か」「人間とは何か」という問いを私たちに突きつけてきます。そして、「生きる」という原点とその意味を探究することを私たちに迫(せま)るのです。
他の文化を否定することなしに、自分たちの文化を築(きず)くことはできないのでしょうか。他のいのちを殺すことなく「生きる」ことはできないのでしょうか。人間とは「動物である自分」を超えることではないのでしょうか。愛とは自分を超えることではないのでしょうか。これらの永遠のテーマを私たち自身が自分に対して絶えず問い、人生の意味をたずねつづけることを、あの「狼(おおかみ)と踊(おど)る」姿は私たちに求めているように思われるのです。
引用・参考文献
「新聖書注解 旧約2」 いのちのことば社 1977年
「舊約聖書註解ヨシュア記(全)」馬場嘉市著 日曜世界社 1935年
「旧約聖書U」旧約聖書翻訳委員会 岩波書店 2005年
「口語旧約聖書略解」ヨシュア記 田中理夫(としお) 日本基督教団出版部 1960年
「ヨシュア記 原文校訂による口語訳」フランシスコ会聖書研究所 中央出版社 1991年
「新・民族の世界地図」 21世紀研究会 文藝春秋社 2006年
「地図で知る世界の国ぐに 新訂第2版」正井泰夫監修 平凡社 2006年
「侵略の世界史―この500年、白人は世界で何をしてきたか」 清水馨(けい)八郎(はちろう)著 祥伝社 1998年
「破約の世界史―この1000年、白人はいかに騙(だま)し、裏切ったか」 清水馨(けい)八郎(はちろう)著 祥伝社 2000年
「ダンス・ウイズ・ウルヴズ」(文春文庫)マイケル・ブレイク著 文藝春秋社 1991年
61 旧約聖書申命記31章1節〜34章12節 水 野 吉 治 2009/07/16
(1)ヨシュアの任命(31章1~8節)
「イスラエル」 紀元前13世紀ごろパレスチナに形成された部族連合。旧約聖書創世記32章29節によれば、神によってヤコブにイスラエルの名が与えられた。ヤコブの12人の息子の子孫で形成された部族共同体がイスラエルと呼ばれた。紀元前1020年ごろに、サウルがイスラエルの王となり、紀元前1000年ごろに、ダビデのもとに統一王国イスラエルが生まれた。紀元前926年ごろに、北のイスラエルと南のユダの2王国に分裂、紀元前722年に、北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされた。これによってイスラエルは、国の名前としては消滅するが、宗教共同体の名前としては残った。
「ヨシュア」 モーセの後継者。カナン征服の際の軍事的指導者。エフライム族の家系の長エリシャマの子ヌンの子。ホシェアと呼ばれていたが、モーセによってヨシュアと改名された。ヨシュアはヘブライ語の発音ではイエーシューア(ヤハウエは救い)、ギリシア語ではイエースース(イエス)。
「アモリ人(じん)」 パレスチナ先住民の総称。
「シホン」 アモリ人(じん)の王。旧約聖書民数記21章21〜24節参照。
「オグ」 バシャンの王。巨人の種族レファイム人(じん)の生き残り。旧約聖書民数記21章33〜35節参照。
(2)七年ごとの律法の朗読(31章9~13節)
「契約の箱」 十戒のはいった箱。
「レビ人(びと)・レビ族」 ヤコブの子レビの子孫。祭司の補助をする職務が与えられている。申命記では、レビ人(びと)・レビ族はすべて祭司であり、祭司はすべてレビ人・レビ族である。祭司とレビ人・レビ族との関係は解明されていない。
「祭司」 いけにえをささげ、律法を教える職務。
「長老」 分別盛りの年齢か老年にある権力者。
「仮庵祭(かりいおさい)」 太陽暦の10月初旬ごろ7から8日間行われた祭り。イスラエルの民が荒れ野で天幕に住んだことを記念する。聖書巻末用語解説p.23参照。
「主の選ばれる場所」 中央聖所が設けられる場所。エルサレム。
(3)神の最後の指示(31章14~29節)
「臨在の幕屋」 神が、イスラエルの民と会う幕屋。会見の幕屋。
「雲の柱」 荒れ野を旅するイスラエルの民を導いた神の顕現。昼は雲の柱、夜は火の柱で導かれた。旧約聖書出エジプト記13章21、22節参照。
「顔を隠す」 知らん顔をする。見捨てる。
「あなたたち」 モーセとヨシュア。
「ヌン」 エフライムの子孫。ヨシュアの父。
「天と地を証人とする」 壮大な法廷。
(4)モーセの歌(31章30~32章44節)
「わたし(1節)」 モーセ。
「帰せよ」 与えよ。
「もはや神の子らではない」 『あなたたちは傷のあるものをささげてはならない。それは主に受け入れられないからである。』(旧約聖書レビ記22章20節)傷のあるもの・欠陥のあるものは、神への献げ物としては受け入れられない。
「彼(6節、12節)」 神。
「あなた」 イスラエルの民。
「嗣業(しぎょう)」 相続財産。
「割りふられた」 イスラエルの部族ごとの人口に従い、土地の広さを決められた。
「神の子」 イスラエルの民。
「ヤコブ」 イスラエルの民。
「主に定められた嗣業」 神のものとされた財産。
「彼(10節)」 イスラエルの民。
「巣を揺り動かし」 雛(ひな)を鍛(きた)えるため巣から落とす。
「岩から野(の)蜜(みつ)」 蜂(はち)が岩陰(いわかげ)に巣を作り蓄(たくわ)えた蜜。
「彼ら(14節)」 イスラエルの民。
「硬(かた)い岩から油」 岩地(いわち)に育ったオリーブの油。
「凝乳(ぎょうにゅう)」 乳にレンネット(凝乳(ぎょうにゅう)酵素(こうそ))または酸(さん)(食酢(しょくす)、レモン汁など)を加え、静置(せいち)するとふわふわの白い塊(かたまり)と上澄(うわず)みの水分(乳清(にゅうせい)、ホエー)に分離する。この白い塊はカード(凝乳)と呼ばれ、これを絞(しぼ)るなどしてさらに水分を除いたものがフレッシュチーズと呼
ばれるチーズの原型である。
「バシャン」 ヨルダン川の東、ヤボク川からヘルモン山(ざん)までの間、ゲネサレ湖(こ)(ガリラヤ湖)からハウラン山脈までの間の地帯を指(さ)す。聖書巻末地図3および5参照。肥沃な地で、強い雄(お)牛(うし)・雌(め)牛(うし)・高い木などとともに語られる。
「エシュルン」 神がイスラエルを呼ぶ時の愛称。「正しい者」・「高潔な者」の意味がある。
「わたし(20節)」 神。
「むなしいもの」 偶像。
「民ならぬ者」 異邦の民。非イスラエル民族。
「愚かな国」 異邦の民。非イスラエル民族。
「陰府(よみ)」 すべての死者が集められる所。旧約聖書の世界像は、天と地と陰府(よみ)とから成っており、大空は固い半球状のものであって、山々によって支えられている。陰府は、地下にある暗い領域で、死者たちが眠っているところ。
「地を這(は)うもの」 毒蛇(どくへび)。
「苦しめる者」 かたき。仇(あだ)なす者。
「誤解」 イスラエルの滅亡が敵の怒りによってもたらされた、と敵が誤解すること。
「我々」 敵。
「一人で千人を追い、二人で万人(まんにん)を破りえた」 少人数の敵がイスラエルを負かした。
「彼らの岩」 イスラエルの敵が頼みとしている神(偶像)。
「我々の岩」 イスラエルの神。
「ソドム、ゴモラ」 古代イスラエルの悪徳都市。アブラハムの甥ロトとその家族が移住した低地の邪悪な町ソドムとゴモラを、神は硫黄の火をもって滅ぼした。ロトは妻と二人の娘とともに事前にソドムを逃れるが、妻は途中で後ろを振り向いたため塩の柱になった。現在は死海南部の水深の浅い地域に沈んでいるとされる。(旧約聖書創世記18章16節〜19章29節)
「蓄(たくわ)えてあり、倉(くら)に封じ込めてある」 神がイスラエルの敵に対して報復する日のために。
「報(むく)いをする(35節)」 =『報(むく)いをする日まで。』
「僕(しもべ)ら」 イスラエルの民。
「彼らは(38節)」 イスラエルの敵が頼みとしている神(偶像)。
「それ(39節)」 神。救い。
「わたしの永遠の命にかけて」 =『わたしの永遠の命にかけて誓う。』
「髪を伸ばした」 『髪を垂らしている』(新改訳)。『髪を乱している』(新改訳第3版)。『ぼうぼうとした』(American Translation)。
「贖(あがな)う」 埋め合わす。償(つぐな)う。買い戻す。
「ホシェア」 ヨシュアと改名する前の旧姓。
(5)モーセの最後の勧告(32章45〜47節)
間もなく死んでゆくモーセは、地上のわずかの期間生きている生命は重要でなく、永遠に生きるいのちこそ重要であるということを、最後の言葉とする。永遠のいのちは、律法を守ることによって神と一つになることであると告げる。
(6)ネボ山(やま)に登れ(32章48〜52節)
「ネボ山(やま)」 死海東方のモアブ高地を北東から南西に延びているアバリム山脈のいちばん北にあるピスガ山(さん)。モーセ終焉(しゅうえん)の地。聖書巻末地図2参照。
「エリコ」 死海(塩の海)に注ぐヨルダン河口から北西約16キロにある、堅固(けんご)に城塞化(じょうさいか)された町。聖書巻末地図2および3参照。
「モアブ」 ヨルダン川と死海の東。アルノン川とゼレド川の間の高原地帯を指す。聖書巻末地図2参照。
「アバリム山(さん)」 モアブ高地の西端にある山岳地帯。死海の水面から平均1000メートルのモアブ高地から、さらに200メートル隆起している。アバリム山(さん)の主峰(しゅほう)ネボ山(やま)(ピスガ山(さん))でモーセは死ぬ。
「アロン」 モーセの兄。最初の大祭司。モーセと共に荒れ野でイスラエルの民を率(ひき)いた。123歳で死んだ。
「ホル山(さん)」 1. エドムの国境の山。聖書巻末地図2参照。
2. カナン北境の山。レバノン山脈の一つの峰。レバノン山(さん)は聖書巻末地図3参照。
いずれも正確な位置は不明。
ここでは1を指す。
「あなたたち」 モーセとアロン。
「ツィン」 死海の西南の荒れ野。聖書巻末地図2参照。
「カデシュ」 パレスチナ南端のパランの荒れ野にあった土地。聖書巻末地図2参照。
「メリバ」 カデシュ・バルネア付近でイスラエルの民が水を求めてモーセと争った地。
(7)モーセの祝福(33章1〜29節)
「神の人」 神の特別の霊感を受け、神の権威を授けられた人。旧約聖書では、モーセ、サムエル、シェマヤ、エリシャ、ダビデなどが神の人と呼ばれている。
「シナイ」 シナイ山(ざん)。ホレブ。モーセが神から律法を与えられた山。
「セイル」 エドムにある山。死海からアカバ湾にかけてのヨルダン地溝(ちこう)(アラバ)と砂漠との間にある山岳地帯で、標高1500〜1700メートル。
「パランの山」 正確な位置は確定できない。『パラン』は「洞穴(どうけつ)の多い地」の意味。
「千(ち)よろず」 幾千万(いくせんまん)。
「聖者」 献(ささ)げ物。奉献物(ほうけんぶつ)。
「燃える炎(ほのお)」 天使たち(七十人訳=ギリシア語旧約聖書)。
「モーセは(4節)」 モーセが語っているのに、そのモーセに対して「彼」という3人称が用いられている。33章の祝福の言葉は、古い詩の形で伝えられた伝承を編纂(へんさん)したものだからであろう。
「ルベン」 ヤコブの長男。ルべン族は、トランス・ヨルダン(ヨルダン川以東)に定住したが、数が減少し、近隣の敵の圧力で絶滅の危機に瀕(ひん)していた。12部族の割り当て地については聖書巻末地図3参照。
「ユダ」
1. ヤコブの第4子。イエス・キリストはその子孫。
2. 部族名。
3. イスラエル王国分裂後の南王国の名称。北王国の名称はイスラエル。
4. ゼルバベルといっしょにバビロン捕囚から帰還したレビ人(びと)。(旧約聖書ネヘミヤ記12章8節)
5. バビロン捕囚から帰還後、エズラの勧告に従って異民族の妻を離縁したレビ人(びと)。(旧約聖書エズラ記10章23節)
6. セヌアの子。(旧約聖書ネヘミヤ記11章9節)
7. バビロニアによって破壊されたエルサレム神殿の再建に際し、城壁の落成式に参与した長(ちょう)たちの一人。(旧約聖書ネヘミヤ記12章34節
8. 上記7の際の祭司で楽人(がくじん)。(旧約聖書ネヘミヤ記12章34節)
9. イエス・キリストの祖先の一人。バビロン捕囚前の人物と思われる。(新約聖書ルカによる福音書3章30節)
10. 紀元7年ごろの住民登録のとき反乱を起こしたガリラヤ人。(新約聖書使徒言行録5章37節)
11. イエスを裏切ったイスカリオテのユダ。シモンの子。
12. ヤコブの子。イエスの12弟子の一人。
13. イエスの兄弟の一人。
14. 使徒パウロがダマスコで滞在した家の主人。
15. バルサバと呼ばれるユダ。エルサレム教会の指導者の一人。
16. 新約聖書ユダの手紙の著者。
ここでは2を指す。
ユダ族は北方の他の部族から分離していた。
「レビ」 ヤコブとレアの間に生まれた第3子。
「トンミムとウリム」 大祭司が神の前に出る時にトンミムとウリムを胸当てに入れ、これによって神の意志を宣言した。一種のくじのような物。
「マサ」 シナイ山(ざん)付近のレフィデムの岩と思われるが正確な位置は不明。ヘブライ語では「試(ため)し」の意味。旧約聖書出エジプト記17章1〜7節参照。
「自分の父母について『わたしは彼らを顧(かえり)みない』と言い」 神にそむいて偶像に仕(つか)え、不道徳の罪を犯す者が自分の父であっても母であっても、レビ族はその者を許さない。
「完全に焼き尽(つ)くす献(ささ)げ物」 いけにえの全部を焼くことによって、人間の全面的な献身を表す献げ物。燔(はん)祭(さい)。
「ベニヤミン」 ヤコブの末子(まっし)。ヨセフの弟。
「ヨセフ」
1. ヤコブの第11子。兄弟から憎まれ、エジプトに売られる。そこで宰相(さいしょう)となり、飢饉に悩むヤコブ一家をエジプトに移住させる。ヨセフからマナセ族とエフライム族が出た。
2. 部族名。通常ヨセフ族の代わりにエフライム族とマナセ族が部族名として用いられる。
3. イサカル族で、イグアルの父。
4. アサフの子。
5. バビロン捕囚から帰還後、エズラの勧告に従って異民族の妻を離縁したバニ族の一人。(旧約聖書エズラ記10章42節)
6. ヨヤキム時代の、シェバンヤ家(け)の祭司。
7. イエス・キリストの祖先の一人。(新約聖書ルカによる福音書3章24節)
8. イエス・キリストの祖先の一人。(新約聖書ルカによる福音書3章30節)
9. イエス・キリストの母マリアの夫。
10. イエス・キリストの兄弟。(新約聖書マタイによる福音書13章55節)
11. イエス・キリストの母マリアの姉妹で、名をマリアという女性の子。(新約聖書マタイによる福音書27章56節)
12. アリマタヤ出身の金持ち。イエス・キリストの遺体を引き取った。(新約聖書マタイによる福音書27章56節)
13. バルサバともユストとも呼ばれるヨセフ。
14. バルナバと呼ばれるヨセフ。
ここでは2を指す。
「淵(ふち)の賜物(たまもの)」 地下から流れ出る泉や川の水。
「月ごとに生み出される賜物」 毎月の産物。
「いにしえの山々」「とこしえの丘」 世界が創造された時から存在している山や丘。
「柴(しば)の中に住まわれる方」 神。モーセに呼びかけられた神は、燃える柴の中におられた。
「雄牛の初子(ういご)」 エフライムのこと。
「エフライム」 ヨセフの第2子。
「マナセ」 ヨセフの長男。エフライムの兄。
「ゼブルン」 ヤコブの第10子。
「海に漕(こ)ぎ出す」 旅路(たびじ)に出る。漁(りょう)や外国貿易にたずさわる。
「イサカル」 ヤコブの第8子。
「天幕の中で」 定住する。農業や牧畜に従事する。
「彼ら(19節)」 ゼブルンとイサカル。
「山(19節)」 タボル山(さん)かカルメル山(さん)か(聖書巻末地図3参照)、またはそのほかの山か不明。
「海の富」 海上貿易から得られる富など。
「砂に隠(かく)れた宝」 海岸の砂からガラス製品などを作ることができたらしい。
「ガド」 ヤコブとジルパとの第1子。ヤコブの7番目の息子。ガド族はイスラエル最強の部族。
「ガドの土地」 ガド族は非常に多くの家畜を持っていたので、ルべン族、マナセの半部族とともに、モーセに対して、相続地として家畜に適したヨルダン川の東を求め、与えられた。
「指揮者」 ガド族。
「ダン」 ヤコブの第5子。
「ナフタリ」 ヤコブの第6子。
「湖(みずうみ)」 ガリラヤ湖。
「アシェル」 ヤコブとジルパとの第2子。ヤコブの8番目の息子。
「油(24節)」 祝福のしるし。
「かんぬき」 防備。
「いにしえの神」 アブラハム、イサク、ヤコブの神。
「ヤコブの泉」 多くの子孫を生み出すイスラエル。
(8)モーセの死(34章1〜12節)
「ピスガ山(さん)」 死海東方のモアブ高地を北東から南西に延びているアバリム山脈のいちばん北にあるネボ山(やま)。モーセ終焉(しゅうえん)の地。聖書巻末地図2参照。
「ギレアド」 ヨルダン川東の山地。
「ネゲブ」 ヘブロン南方の放牧地帯。聖書巻末地図2でカナンと記されているあたりを指す。
「なつめやし」 しゅろ科の常緑(じょうりょく)喬木(きょうぼく)。高さ15メートル以上にも達し葉は1.5メートルに達することもある。果実は食べられる。葉で、かごや、むしろや、網をあむ。イエスが十字架につけられる前、エルサレムに入るときに、群衆は、なつめやしの枝を持って、「ホサナ」と歓呼して迎えた。(新約聖書ヨハネによる福音書12章12〜15節)
「ツオアル」 ヨルダンの低地に位置する。
「アブラハム」 故郷カルデア(現イラク)のウルを離れて、神の命ずるままに、「行き先も知らずに」(新約聖書ヘブライ人(じん)への手紙11章8節)出発し、約束の地カナン(現パレスチナ)に入り、イサクの父となった。
「イサク」 アブラハムの子で、エサウとヤコブの父。
「ヤコブ」 イサクとリベカの子。のちにイスラエルと改名。
「ベト・ペオル」 ネボ山の北、シティムの南東4キロ。モーセが約束の地を望みつつ死んだ場所。
「預言者」 神の言葉を語る者。ただし「予言者」は、未来のことについて語る者。詳しくは申命記13章1〜5節のレジメpp.307、308参照。
「顔と顔を合わせて」 『主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。』(旧約聖書出エジプト記33章11節)なお『だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。』(新約聖書コリントの信徒への手紙一13章12節)を参照。
「ファラオ」 エジプトの王。出エジプト当時のエジプト王は、アメンホテプ2世、あるいは、トウトメス3世、また、ラメセス2世とする諸説がある。
付録 寿命と死
1.長寿の記録
モーセは120歳で死にましたが、旧約聖書では長寿とは言えません。
旧約聖書創世記に登場する長寿者を調べてみると次のようになります。
メトシェラ 969歳(創世記5章27節)聖書では最長寿者
イエレド 962歳(創世記5章20節)
ノア 950歳(創世記9章28節)
アダム 930歳(創世記5章5節)
最短は エノク 365歳(創世記5章23節)となっています。
したがって120歳で死んだモーセは「短命」ということになります。
ちなみに「古事記(こじき)」に出てくる歴代天皇の長寿者は以下のようです。
崇(す)神(じん)天皇 168歳 古事記では最長寿者
垂(すい)仁(じん)天皇 153歳
神武(じんむ)天皇 137歳
景(けい)行(こう)天皇 137歳
応(おう)神(じん)天皇 130歳
雄略(ゆうりゃく)天皇 124歳
最短は 継体(けいたい)天皇 43歳
では現代の最長寿者は何歳まで生きたのでしょうか。
ギネス世界記録として認定されたものは次の2名です。
日本の泉(いずみ)重(しげ)千代(ちよ) 男性 120歳と185日
男性としての世界最高齢記録保持者(ただし実際の死亡年齢は105歳だったという説もある)
フランスのジャンヌ・カルマン 女性 122歳と164日
女性としての世界最高齢記録保持者
参考までに、日本では以下に記(しる)す長寿の祝い歳(どし)があります。(すべて『数え年の年齢』。ただし、現在は満年齢で祝う場合も多いようです。)
61歳 還暦(かんれき)(干支(かんし)は60年で一巡し、生まれた年の干支にかえるため)。華(か)甲(こう)(「華」の字を分解すれば、十が6個と一とになるため。「甲」は十干(じっかん)のいちばん初めであるため)
70歳 古希(こき)(中国の杜(と)甫(ほ)の詩句「人生七十古来(こらい)稀(まれ)なり」からできたため)
77歳 喜寿(きじゅ)(「喜」の字の草書体(そうしょたい)は七を3つ、森の字のように配置した形になっており、七十七に読めるため)
80歳 傘寿(さんじゅ)(「傘」の字を略すと、八十と読めるため)
88歳 米寿(べいじゅ)(「米」を分解すると、八十八になるため)
90歳 卒寿(そつじゅ)(「卒」の字を略すと「卆(そつ)」になり、九十と読めるため)
99歳 白寿(はくじゅ)(「百」の字から「一」を取ると「白」になることから、あと一歳で百歳になるため)
100歳 百寿(ひゃくじゅ)(「ももじゅ」とも読む)。(人の上寿(じょうじゅ)は百歳、中寿(ちゅうじゅ)は八十、下寿(げじゅ)は六十とされ、このことから「上寿(じょうじゅ)」とも言う)。紀(き)寿(じゅ)(「紀」は一世紀のこと)。
108歳 茶寿(ちゃじゅ)(「茶」という字を分解すると、十が二つ(くさかんむり)と八十八(人が八、ホが十八)になるため)
111歳 皇寿(こうじゅ)(「皇」を分解すると、「白」が九十九(「百」の字から一をとると「白」になる)「王」が一と十と一に分解され、たすと111になるため)。川寿(せんじゅ)(「川」は111と書くため)
112歳 珍寿(ちんじゅ)(112才まで生きることは非常に珍しいことから珍寿と呼ばれる。この年からすべて珍寿として毎年最大にお祝いをする)
120歳 大還暦(だいかんれき)。昔寿(せきじゅ)(「昔」を分解して十が二つ(くさかんむり)と「百」でたして120になる)
モーセが死んだのは満年齢で120歳だから、数え年の120歳を1年過ぎていたことになります。現代の標準からすると長寿者に入ります。
2.生物界の寿命
植物に寿命というものはあるのでしょうか。
現存する世界最古の樹とされているのはイガゴヨウマツ(アメリカ合衆国カリフォルニア州、樹齢約4,800年)、また根の組織としては、オウシュウトウヒ(スウェーデンダラルネ地方、樹齢約9,550年)とされているようです。
根の組織を考えるとすると、どうなるでしょうか。竹などは地下茎でつながっていますから、竹の大家族全体が一つの生命体と見なされます。一本の竹が枯れて死んだとしても、地下茎が生きている限りは死んだとは言えないでしょう。寿命は決め難(がた)いことになります。
千葉市の縄文(じょうもん)遺跡(いせき)の近くで、1951年に植物学者大賀(おおが)一郎が地下6メートルの地層から三粒のハスの種を発掘(はっくつ)しました。このハスの種は1500年から2000年前のものと推定されました。そのうちの一粒が発芽し、今では「大賀(おおが)ハス」として国内外(こくないがい)に広がっているそうです。いったい、このハスの寿命は何千年なのでしょうか。種が発生した時期がわからない上に、この種の「親」の生きた期間、そのまた「親」の期間までたどって行くと無限の「寿命」が考えられます。
人間も、一人の個体の背後に人類全体の歴史があることを考えると、個人の「寿命」だけを問題にする観点を、改めなければならなくなってきます。
個体が死んでも、一部の細胞だけは生きていると言われます。土葬にした死体の髪の毛や爪が伸びていたという話を聞いたことがあります。
また死刑囚が絞首刑によって殺された時、すでに意識はなくなっているはずですが、体はまだ生きていて、十数分間暴れたり痙攣(けいれん)したりし続けると言われます。
加賀乙彦(かがおとひこ)は東京拘置所医務部(いむぶ)技官(ぎかん)であった時に、死刑執行の現場に立ち会った経験があり、その時の様子を次のように描(えが)いています。
「くびれた頚(くび)の上では、死んだ頭が重たげに垂(た)れ、下では、躯幹(くかん)と四肢(しし)が、まだ生きていて、苦しげに身をくねらせていた。それは、釣(つ)り上げられた魚がピンピン跳(は)ねるのに似ていた。落下の加速度を得たロープで頚骨(けいこつ)が砕(くだ)かれ、意識はすぐに失われるけれども、体はなおも生きようとして全力をつくす。胸郭(きょうかく)は、ふくれてはしぼみ、呼吸を続けようと空(むな)しくあがく。腕は、何かをつかもうとまさぐり、脚(あし)は、大地を求めて伸縮(しんしゅく)する。やがて筋肉の荒い動きがおさまり、四肢(しし)は躯幹(くかん)と平行に垂れ、ぐっぐと、こまかい痙攣(けいれん)をはじめた。ついに脈(みゃく)が触(ふ)れなくなり、弱った心臓が最後の鼓動(こどう)を打つ。『所要時間14分15秒』と報告される。」(加賀乙彦『宣告』)
つまり個体は死んでも細胞レベルではなお生きようとあがいているのです。
では細胞の寿命はどれぐらいなのでしょうか。一説によると最長で150年だそうです。一般的な癌(がん)細胞は無限に増殖するので寿命は無い、つまり不老不死である、とも言われるそうです。その場合、癌が発生している人体は癌によって死にますので、人体が死ねば当然癌も死ぬわけで、その意味では癌は不老不死ではなくなります。
他の生物の寿命を見てみましょう。
ほとんどの昆虫類は、産卵すると一生を終えるようです。 魚類では、サケの寿命は4年、タコは1年半、チンパンジーは子を産むと5年で死を迎え、推定で150年以上生存した記録のあるカメも平均15年ほどと言われます。
3.人間の寿命
では人間の寿命はどれくらいでしょうか。
まず心拍数(しんぱくすう)から見てみましょう。
現代人の安静時(静かにうつむきに寝ている状態)の心拍数は、男性で1分間に60〜70程度、女性で65〜75程度、最大心拍数(激しく運動してもうこれ以上がんばれないという限界の心拍数)は年齢が高くなるほど下がる傾向があり、一般的に成人では「220−年齢数」程度であると言われます。(60歳の人なら160)ほ乳類の心拍数は一生涯で20億回程度だそうです。心臓が20億回動悸(どうき)を打てば、そこが死ぬ時ということです。
これをもとに人間の寿命を計算してみると次のようになります。
1日は60(分)×24(時間)=1,440(分)、1年で1,440(分)×365(日)=525,600(分)ですから、1分間に70心拍ある人なら、1年に打つ心拍数は70(心拍)×525,600(分)=36,792,000(心拍)になります。一生涯に20憶心拍として、これを1年分の36,792,000(心拍)で割ると、2,000,000,000(心拍)÷36,792,000(心拍)≒54.4(年)となり、寿命は約54年ということになります。
織田信長(おだのぶなが)は、部下の明智光秀(あけちみつひで)に本能寺(ほんのうじ)で襲撃を受けた時、炎(ほのお)の中で、「人間五十年 化天(けてん)(下天(げてん))の内をくらぶれば 夢幻(ゆめまぼろし)のごとくなり」という幸若舞(ゆきわかまい)の『敦盛(あつもり)』の一節を歌いながら死んでいったと言われています。時に49歳でした。現在からすれば夭折(ようせつ)と言うべきでしょうが、当時としては寿命にわずか足りなかったと言えるかも知れません。
40歳のことを「初老(しょろう)」と言いますが、縄文(じょうもん)時代の寿命が14.6歳だったそうですから、それから飛躍的に寿命が延びて終戦直後の男子の寿命が50.06歳、女子は53.96歳になった時代でも、やはり40歳は「初老」と言うべきだったのでしょう。
では世界の平均寿命はどうでしょうか。
世界保健機関(WHO)の世界保健報告発表によると、2008年の統計のうち、平均寿命が80歳以上の国々は、寿命の長い順に、日本、スイス、サンマリノ(イタリア内の小国)、オーストラリア、モナコ、アイスランド、イタリア、スウェーデン、スペイン、フランス、カナダ、アンドラ(フランスとスペインにはさまれた小国)、イスラエル、シンガポール、ノルウェー、ニュージーランド、オーストリアの順で17カ国となっています。日本人全体の平均寿命は82.6歳で世界一です。
日本の女性の平均寿命は85.99歳で世界一、2位香港85.4歳、3位フランス84.1歳と続いています。日本の男性の平均寿命は79.19歳で世界3位、1位はアイスランドで79.4歳、2位香港79.3歳です。平均寿命が最短なのは男性がシエラレオネ(アフリカ)、女性がスワジランド(アフリカ)で、それぞれ37歳です。
4.死とは何か
一応常識的には、心臓、肺、脳の働きが止まった状態を死とします。現在では、救命救急医療の発達により、生命維持や延命が可能になっていますが、患者本人には苦痛を長引かせ、家族には心身の疲労と医療費の負担をもたらすため、延命医療を拒否するケースが増えてきています。
生命体にとって生命活動の停止である死は、圧倒的な力で私たちに問いかけてきます。「生きるとはどういうことか」。「何のために生きるのか」。その問いの前では、「延命か、延命拒否か」という選択はまったく無意味です。生きることの意味が全然分かっていないのに、「生きるか、死ぬか」と問うことはナンセンスです。まず「生きる」とは何か、「死ぬとはどういうことか」という問いに答えねばなりません。
これに対しては、きっと「答えるためには、まず生きていなければならない」と言う人がいるでしょう。その人は、すでに答えを出してしまっています。つまり「生きる意味は、とりあえず生きることだ」という答えを出してしまっているのです。
私たちは毎日毎日「生きる意味は、とりあえず生きることだ」と言いながら生きています。それが「オトナの答え」、「トシヨリの答え」です。その答えから一歩も出ることなく、「とりあえず生きている」うちに、「とりあえず死んでしまう」のです。それは人間の死とは言えず、動物の死と言わねばならないでしょう。
本で読んだり、人から聞いたりした答えではなく、自分の答えを出さなければなりません。「有名人」とか「大学教授」とかいう「権威」や「ブランド」のかげにかくれて、自分に向けられた鋭い問いを避けてはなりません。意外なことに、仏教の僧侶や教会の牧師といえども、自分自身の答えを持っていない場合が多いのです。鋭い問いが自分に向けられるのを恐れて、宗教的権威に逃げ込んで身の安全を図(はか)っている宗教家がほとんどではないでしょうか。彼らはひたすら「生きたい」だけなのです。その「生(せい)」は「否定」を含まない「生(せい)」、「死」を含まない「生(せい)」です。
5.プログラムされた死
しかし、死は生の外側にあるのではありません。生の中に死があるのです。「私たちはやがて死ぬ」のではなく、「今すでに死をかかえている」のです。
1972年、スコットランドのアバデーン大学のカー、ワイリー、キュリーという3人の病理学者は、「アポトーシス‐組織(そしき)動態(どうたい)に広範(こうはん)に関与(かんよ)する基礎的生物現象」という論文をイギリスのガン学会誌に発表しました。それまでは、細胞が死ぬ原因は火傷(やけど)や毒物(どくぶつ)によるものしか知られていませんでした。しかし、この論文は、もっと大切な役割を果たす細胞死を発見したのです。彼らはそれを「アポトーシス」または「アポプトーシス」と名付け、火傷(やけど)や毒物(どくぶつ)による細胞死「ネクローシス」(壊死(えし))と区別しました。
「アポトーシス」とは、赤ん坊が母親の胎内にいる間に、だんだん人間らしい体になって行くときに、手の指と指の間の細胞を死なせて、隙間を広げて指をはっきりした形に形成してゆく働きをするものです。つまり、本来細胞の中に死のプログラムが埋め込まれていて、時が来るとそのプログラムが実行されて、正常な体を形成することになるのです。これは人間だけではなく、あらゆる生物に内在しているプログラムであると考えられます。
もしも「アポトーシス」が働かなければどうなるのでしょう。赤ん坊の奇形が起こるでしょう。癌(がん)細胞は、まさに「アポトーシス」が働かなくなり、細胞が死ぬことを忘れてしまった状況だと考えられます。癌細胞が無限に増殖し、宿主(しゅくしゅ)(癌に寄生(きせい)されている人体)を死に至らしめるまで暴走することをやめないのです。宿主(しゅくしゅ)が死ねば当然癌細胞も死ぬわけですが、癌細胞だけを取り出して、試験管培養すれば何年でも生き続けるらしいです。
1959年、アメリカのジョンスホプキンス大学病院でヘンリエッタ・ラックスという若い黒人女性が子宮頚癌(しきゅうけいがん)で死亡しました。ジョンスホプキンス大学の研究者ゲイは、彼女の子宮頚癌の細胞の一部を試験管内に移しました。それ以来その癌細胞はまだ生き続けていると言われます。
それでは本当に癌細胞は不老不死なのでしょうか。そんなことはあり得ません。癌細胞は宿主を失うか、培養液が補給されなくなると死んでしまうからです。
6.宇宙の死
細胞に不老不死がないとしても、この世界全体は不老不死なのでしょうか。そんなはずはありません。存在するものには必ず終りがあるということぐらいは、普通の常識を備えた大人なら想像がつくはずです。しかし、「次の瞬間に宇宙がなくなる」という情報が入ったとしても、「それでもまだ終わりは来ない」とがんこに信じ続けるのが人間の愚(おろ)かさです。ちょうど「もうすぐあなたは死にます」と言われても、死ぬ瞬間までは「一秒後はまだ生きている」と思ってしまうのと同じです。ものごとを自分に都合がよいように考えてしまう習性があるため、本当の認識や判断ができなくなるのが人間だからです。
でも、ここは一つ冷静に考えてみましょう。自分が死んだあともこの世界はそのまま残っていると、だれでも思っているでしょう。しかし、自分が死んでしまったら、それを確かめる方法はないのです。自分の死と同時に宇宙がなくなるかもしれないのに、「そんなはずはない」とがんばり続けたいのが、私たち人間です。「そんなはずはない」と信じる根拠は何一つないのに。「他人が死んだあとも、この通り世界は残っているじゃないか」というのが根拠になるでしょうか。「他人」ではなく「私」が死んだあと宇宙が残っているか消えてしまっているか、どうやって確かめるのでしょうか。
「世界」とは、私の認識を構成する舞台なのです。認識がなくなったあとは、当然舞台も消えてしまっているでしょう。宇宙が残っているか消えてしまっているかということも、その舞台の存在を前提にした上での話です。カントは早くからそのことに気づいていました。
さて、「宇宙」も「世界」も「舞台」(仮説)として立てながら、話を進めてきましたが、実はすべては実在ではなく、作業仮説なのです。そしてその作業仮説も、いずれは消えてゆく運命にあります。作業が終われば用なしになるからです。いわば「消滅」というプログラムが埋め込まれているのです。
では実在とは何でしょうか。いくら打ち消そうとしても消えないものが本当の実在でしょう。「宇宙」も「世界」もいくら打ち消そうとしても消えないものではないかと思われるでしょうが、「宇宙」とか「世界」という観念は消えませんが、それはあくまで観念であって、実在ではありません。人間の頭が生み出す「妄想」もいくら打ち消そうとしても消えないものですが、実在ではありません。
その意味では「死」でさえも実在ではないのです。今私は死んでいないし、死んでしまえば「死」を認識することもできなくなるからです。
では何を認識することができるのでしょうか。それは「今」しかありません。しかし、刹那(せつな)主義とは違います。刹那主義は感覚的(かんかくてき)陶酔(とうすい)を実在とするからです。感覚を舞台とする仮説の一つです。仮説である限り「消滅」というプログラムが埋め込まれていることに変わりはありません。
ともすれば「今」から浮き上がり、希望的観測にすがりつこうとする愚(おろ)かな人間を、実在へと引き戻してくれるのがイエス・キリストの十字架と復活です。いわばそれは「復活プログラム」です。人間の中に埋め込まれている「復活プログラム」こそ、人間を実在へと目覚めさせてくれるプログラムなのです。
引用・参考文献
「寿命論」高木由臣(よしおみ)著 日本放送出版協会 2009年
「アポトーシスの科学‐プログラムされた細胞死」
山田武・大山ハルミ著 講談社 1996年
「現代用語の基礎知識」 自由国民社 2009年
60 旧約聖書申命記28章1節〜30章20節 水 野 吉 治 2009/07/16
(1)神の祝福(28章1〜14節)
「あなた」 イスラエル。
「わたし」 モーセ。
「これらの祝福」 28章3節以下の祝福。
「入るとき」 カナンの地に入るとき。
「出て行くとき」 カナン定住後、そこから出て行くとき。
「七つの道に逃げ去る」 壊滅的な打撃を受け、ちりじりに逃げて行く。
「主が与えられる土地」 カナン。
「主の御名が付けられる」 イスラエルが主(ヤハウエ)の所有であることを宣言する。
(2)神の呪い(28章15〜68節)
「戒め」 ヘブライ語はミツワー。規定。命(めい)。
「掟(おきて)」 ヘブライ語はフッカー。さだめ。ならわし。風習。
「これらの呪い」 28章16節以下の呪い。
「疫病」 ヘブライ語はデベル。災(わざわ)い。死。
「まといつかせ」 ヘブライ語はダーバク。すがりつかせ。つき従わせ。付きまとわせ。
「黒穂(くろぼ)病」 立ち枯れ病のことか。
「赤さび病」 うどん粉病(葉や茎がうどん粉をかけたように白くなる)、またはべと病(葉などに褐色の斑点が現れて広がり、進行すると羽毛状の胞子ができる)のことか。
「赤銅(しゃくどう)」 ひでり。旱魃(かんばつ)。
「鉄」 耕地が水分を失って硬くなること。
「地の雨を埃(ほこり)とされ」 強い風によって地表からちり・ほこり・砂粒・花粉などが舞い上がること。
「天から砂粒」 砂あらし。黄砂(こうさ)。シロッコ(熱風(ねっぷう))。
「エジプトのはれ物」 旧約聖書出エジプト記9章8〜11節。
「皮癬(ひぜん)」 膿を持つ皮疹(ひしん)。疥癬(かいせん)など。皮癬(ひぜん)ダニが皮膚に寄生して、発疹・激しいかゆみ・赤いぶつぶつ・しこり・みみずばれなどを起こす。
「蹂躙(じゅうりん)され」 しいたげられ。
「かすめ取られて」 略奪されて。
「慕って衰える」 疲れ衰える。力衰える。尽き果てる。むなしくなる。
「労苦の作」 労働の実り。労して得たすべてのもの。
「悪いはれ物」 象皮病か。象皮病とはフィラリアの寄生による後遺症。体の末梢部の皮膚や皮下組織の結合組織が増殖し硬化して象の皮膚状の様相を呈する。
28章36節「あなたも先祖も知らない国に行かせられる」
この預言は次のような形で実現する。
紀元前13世紀の出エジプトの出来事があった後200年して、紀元前11世紀ごろイスラエル王国が建国される。紀元前928年にイスラエル王国は北王国イスラエルと南王国ユダの二つに分裂する。
北王国イスラエルは紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、南王国ユダは紀元前587年バビロニアに滅ぼされ、南王国の王ヨヤキンと主要な民はバビロンに移送される。いわゆる「バビロン捕囚」である。
それ以後幾度となく周辺の大国の支配を受け、ついに紀元後70
年にエルサレム神殿が破壊された。かくてイスラエル民族の長きに
わたる全世界への離散(ディアスポラ)が始まる。
28章38〜40節
農作物へのわざわい。穀物、ぶどう、オリーブ、この三つはパレスチナの主要作物であった。
「油」 オリーブ油は、薬用、食用、化粧用、製造工業用に使われた。
「寄留する者」 外国人。旅行者ではない。ヘブライ人とともに住んでいた者。
「その言葉を聞いたこともない国民」 アッシリアやバビロニアの国民はアラム語を使っていた。「バビロン捕囚」以後はイスラエル民族も
アラム語を使った。ヘブライ語は日常生活では使われなくなり、「宗教語」になった。
「実に大切に扱われ、ぜいたくに過ごしてきた男」 優美でごく上品な男。最も上品でやさしい男。
「足の裏を地に付けようともしなかった者」 常に乗り物で運ばれ、自分の足で歩いたことのないようなぜいたくな生活をしている者。
「この書」「この律法の書」 申命記5〜26章、または12〜26章を指す。
「エジプトのあらゆる病気」 エジプトのはれ物、潰瘍(かいよう)、できもの、皮癬(ひぜん)など(申命記28章27節)。
「散らされる」 ギリシア語ではディアスポラ(離散)。
「諸国民の間にあって一息つくことも、足の裏を休めることもできない」 「バビロン捕囚」の状態を指すが、現代に至るまでのユダヤ人の状態をも思わせる。
「自分の身を男女の奴隷として敵に売ろうとしても、買ってくれる者はいない」 エジプト人も、イスラエルに対する神の怒りを見て恐れ、イスラエルを奴隷として買おうともしない。
(3)モアブで結ばれた契約(28章69節〜30章20節)
「ホレブ」 シナイ山(ざん)。モーセが神から律法を与えられた山。
「ホレブで結ばれた契約」 出エジプトの後に、神がシナイ山(ざん)でイスラエルと結ばれた契約。旧約聖書出エジプト記19章4〜6節、24章3〜8節。
「イスラエル」
@ ヤコブに神より与えられた名前。
A ヤコブの12人の子らで形成された12部族の宗教連合体の名前。
B イスラエル分裂後の北王国の名前。南王国はユダ。
C バビロン捕囚から帰還した人々。
ここではAを指す。
「ファラオ」 エジプトの王。出エジプト当時のエジプト王は、アメンホテプ2世、あるいは、トウトメス3世、また、ラメセス2世とする諸説がある。
「ヘシュボン」 ヨルダン川の東方約29キロにあった町。エリコとほぼ同緯度。エルサレムから東へ約60キロ。ヤボク川とアルノン川の間にある。聖書巻末地図2参照。
「シホン」 アモリ人(じん)の王。旧約聖書民数記21章21〜24節参照。
「バシャン」 ヨルダン川の東、ヤボク川からヘルモン山(ざん)までの間、ゲネサレ湖(ガリラヤ湖)からハウラン山脈までの間の地帯を指す。聖書巻末地図3および5参照。
「オグ」 バシャンの王。巨人の種族レファイム人(じん)の生き残り。旧約聖書民数記21章33〜35節参照。
「ルベン人(じん)」 ヤコブの長男ルベンから出た部族。
「ガド人(じん)」 ヤコブとジルパとの第1子ガドから出た部族。
「マナセ」 ヨセフの長男。エフライムの兄。
「半部族」 マナセ部族は、ヨルダン川の東岸地区と西岸地区に分かれて入植したので、どちらか一方をさす場合、半部族と言った。ここでは東岸地区の半部族。
「嗣業(しぎょう)」 相続人が受け継ぐ財産。神から与えられる土地。
「呪いの誓い」 誓いを履行しない場合必ず降りかかる災厄を示し、契約の順守を促すもの。
「潤(うるお)っている者も渇(かわ)いている者とともに」 潤っている植物も渇いている植物も、ともに砂漠の熱風に襲われるというたとえ。
「主の怒りとねたみ」 神に対して向けていた真実と愛を、神以外のものに向ける人間に対しては、神からの真実と愛は、怒りとねたみとなって現れる。
「名を天の下から消し去られる」 存在が絶滅される。
「ソドム、ゴモラ」 古代イスラエルの悪徳都市。アブラハムの甥ロトとその家族が移住した低地の邪悪な町ソドムとゴモラを、神は硫黄の火をもって滅ぼした。ロトは妻と二人の娘とともに事前にソドムを逃れるが、妻は途中で後ろを振り向いたため塩の柱になった。現在は死海南部の水深の浅い地域に沈んでいるとされる。(旧約聖書創世記18章16節〜19章29節)
「アドマ」 ソドム、ゴモラとともに滅亡した、低地の町々の一つ。現在はソドム、ゴモラとともに死海南部の湖底に沈んでいるとされる。
「ツェボイム」 ソドム、ゴモラ、アドマとともに死海南部の湖底に沈んでいるとされる。
「分け与えられたこともない神々」 先祖から受け継いだこともない神々。
「隠されている事柄は、我らの神、主のもとにある」 人間にはまだ見えない未来の事柄は、すでに神のもとにあって、実現の時を待っている。
「啓示」 現すこと。告げ知らせること。開くこと。示すこと。過去および現在における神のわざ。歴史にあらわれた神のさばきのあと。
「心」 ヘブライ語はレーバーブ。意志。考え。志。
「魂」 ヘブライ語はネフェシュ。息。いのち。思い。精神。
「心に割礼(かつれい)を施し」 『割礼』は男子の性器の包皮を切り取ること。『心に割礼を施す』とは神の民であることを自覚すること。
「業(わざ)」 仕事。働き。
「御(み)言葉はあなたの口と心にある」 あなた自身が戒めであり、掟である。
「法」 ヘブライ語はミシュパート。慣例。正義。道。
「命を得る」 神に祝福され、存続を許される。
「ヨルダン川」 パレスチナ最大の川。北のヘルモン山(ざん)(聖書巻末地図3参照)に端(たん)を発し、ガリラヤ湖(こ)を経(へ)て南下し、死海に流れ込む。全長は直線距離で約217キロ(阪神間から名古屋付近まで)、蛇行距離では400キロ。ヨルダン峡谷(きょうこく)の幅(はば)は、5キロ(およそ小林と西宮北口間)から20キロ(直線で小林と大阪城間)まで変化している。キリス
トが洗礼者ヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けたのはヨルダン川であった。
付録 一粒の麦 ― モーセと北原怜子
1.蟻(あり)の街(まち)
1960年(昭和25年)12月初旬のたそがれ時(どき)、冷たい小雨の中を傘もささずに、21歳の少女が「蟻(あり)の街(まち)」という名前のバタヤ街(がい)(廃品回収業の部落)を探して歩いていました。少女の名前は北原怜子(さとこ)といいます。
当時の東京は、アメリカ空軍の無差別爆撃によって焦土(しょうど)と化(か)していました。家族を殺され、家を焼かれ、仕事を失った人たちが「浮浪者(ふろうしゃ)」となって路頭(ろとう)に迷いました。その数は7千人とも8千人とも言われます。戦争が終わっても、この人たちには帰る家がありません。やがて寒い冬が来ても、寒さから身を守るところがなくなったのです。多くの人が、身を切る寒風の中で食べる物もなく、凍死してゆきました。
そんな中をようやく生き延びた人たちは、隅田川の河川敷でホームレス生活を始めました。そこへ外地から引き揚げてきた小沢求(もとむ)という人物が入ってきて、都民の捨てる紙屑(かみくず)・ボロ・空きビン・縄(なわ)・わらなどを拾い集めて仕分けし、「寄せ屋」に買い取ってもらうことを考えつきました。いわゆるバタヤ業・廃品回収業です。小沢のもとにバタヤたちが集まってきて一つの部落ができました。その運動に協力して、「蟻(あり)の街(まち)」と命名したのが松居桃楼(とおる)でした。やがて松居も「蟻(あり)の街(まち)」に住むようになります。
2.北原怜子(さとこ)
北原怜子(さとこ)は、「学問の神様」と言われている菅原道真(すがはらみちざね)の子孫です。怜子(さとこ)の祖父は、明治のころ、九州から新天地を求めて北海道に渡りました。父金司(きんじ)は、北海道大学(当時は東北帝国大学農科大学。札幌(さっぽろ)農学校の後身(こうしん))に学んでいる間に、貧民窟(ひんみんくつ)のセツルメント(施設)に泊まりっきりで自宅にも帰らず、そこから学校へ通(かよ)いながら社会事業に熱中したということです。母媖(えい)は、大きな山林や牧場を経営する北海道の豪農家に育ちました。
怜子(さとこ)は、1929年(昭和4年)8月29日東京都杉並区阿佐ヶ谷(あさがや)で生まれました。
1931年(昭和6年)怜子が2歳になった時、すぐ上の姉悦子(えつこ)が脊椎(せきつい)カリエスのために夭折(ようせつ)します。姉を慕っていた怜子はその死を大変悲しみ、骨壷の前に坐りこんで、絵本を広げ、くり返しくり返し何事かを話しかけていたといいます。
小学校3年生の時日中戦争が始まりました。そして太平洋戦争が始まった時桜蔭(おういん)高等女学校に入りました。1944年(昭和19年)、4年生になった年の5月に学徒動員を受けて三鷹(みたか)市の中島飛行機工場で旋盤工(せんばんこう)として働きます。そのころには1日に何回も空襲があって、再三米機から機銃掃射を受け、防空壕(ぼうくうごう)に避難するひまもなく命を落としそうになった時がありました。
ようやく終戦を迎えますが、兄哲彦(てつひこ)は肺炎を起こし、帰らぬ人となってしまいます。
1946年(昭和21年)昭和女子薬学専門学校(現昭和薬科大学)に入学します。1949年(昭和24年)同校を卒業した時、妹はカトリックの光塩(こうえん)女子学院に入ります。この学校の名前は、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」という新約聖書マタイによる福音書5章13,14節の言葉から来ています。メルセス宣教修道女会の修道女マドレ・マルガリタが1931年(昭和6年)に創立した学校です。
メルセス会の歴史は古く、1218年、聖ペトロ・ノラスコによってスペインに創立されました。イスラム教徒に捕らえられ、信仰を捨てるように迫られていたキリスト教徒をあがなうという緊急の必要性に応えるのが、創立の目的でした。さらに、「一人を救うために一人が死んでゆく」運動となり、「もし自分の命を捨てることによって、だれかを本当の意味で幸せにできる場合には、その相手が異教徒であっても、喜んで命をささげる」という誓いを立てることが求められました。
怜子は、妹肇子(はつこ)が光塩(こうえん)女子学院に通うのに付き添って行った時、メルセス修道院を訪問します。そこで待ち時間にカトリックの「公教要理(こうきょうようり)」(カトリックの教えの大要)を学び、聖書の勉強をするようになって、とうとう1950年(昭和25年)10月30日21歳の時、洗礼を受けるのです。「エリザベト」というのが洗礼に際して与えられた霊名(れいめい)で、堅信(けんしん)の際には「マリア」という名前が与えられました。
3.ゼノ修道士
怜子の一家が、花川戸(はなかわど)の大きな履物問屋(はきものどんや)の隣に引っ越してきた時のことです。問屋(とんや)の番頭(ばんとう)が「お嬢(じょう)さん、サンタクロースみたいなおじいさんが来ていますよ」と告(つ)げに来ました。怜子が出てみると、その「サンタクロース」が、怜子が帯締(おびじ)めにはさんでおいたロザリオを目ざとく見つけ、「アナタ、シンジャデスカ」と人懐(ひとなつ)っこい笑顔(えがお)で話しかけてきました。怜子も微笑(ほほえ)みながらうなづくと、彼は満足そうに「カワイソウナヒトノタメ、オイノリタノミマス」と告げると、あっという間(ま)にどこかへ行ってしまいました。その後新聞にあの時の「サンタクロース」が写真入りで出たのです。新聞には「ゼノ神父」と紹介されていましたが、「神父(ファーザー)」ではなく、「修道士(ブラザー)」だったのです。
新聞の見出しには、「蟻(あり)の街(まち)に十字架、神父さんも一役(ひとやく)」とあり、子どもたちに囲まれてニコニコしている神父の写真の下に、「蟻の街を訪(おとず)れたゼノ神父」という説明が添えてありました。記事を読んでみると、「浅草言問橋(ことといばし)のほとり、バタヤの集団部落“蟻の街”に、神父の援助のもとに教会設立の話が進められている」という書き出しで、
1.ゼノ神父は、長崎の“聖母の騎士”修道院に属しているポーランド人だ。
2.この夏に上京した時には、上野の浮浪者(ふろうしゃ)たちのために、篤志家(とくしか)から材木の寄贈(きそう)を受けて、夜のうちに仮小屋を造ってやったことがあった。
3.今度は、蟻の街の人々が「教会を建てたい」と言っているのを聞いて、ただちに手伝うことになった。
という意味のことが書いてありました。
その記事を読んだ日から、怜子はもう一度ゼノ神父に会いたいと思うようになりました。
4. コルベ神父
1930年(昭和5年)4月に、ポーランド人宣教師マキシミリアノ・コルベ神父が、ゼノ修道士、ヒラリオ修道士とともに長崎に上陸した時から、聖母の騎士修道院の歴史が始まります。
コルベ神父は長崎の地に、修道院、教会、印刷所、小神学校を次々建てて行きました。1936年(昭和11年)に故国ポーランドに戻り、出版やラジオを通じて布教活動を行います。しかし1941年(昭和16年)5月にナチスに捕らえられました。
当時のナチスは、ユダヤ人だけでなく、ポーランドの有力な人物も弾圧の対象にしていたのです。
コルベ神父は、アウシュビッツの強制収容所に送られました。
その年の7月末、アウシュビッツから囚人が一人脱走しました。そのため見せしめとして囚人の中から10人が無作為(むさくい)に選ばれ、餓死室に送られることになりました。10人のうちの一人フランシスコ・ガヨヴニチェクが「私の妻よ、子供たちよ」と声をあげて泣き崩れました。
この時驚くべきことが起こりました。10人に選ばれていなかったコルベ神父が自分の列を離れ、前に進み出たのです。ナチス親衛(しんえい)隊員は自動小銃を構え、犬は、命令があれば飛びかかる姿勢をとりました。フリッツ大佐と下士官のパリッチはピストルに手を当てました。然し不思議なことに、だれも発砲しませんでした。奇跡でした。
神父は、収容所の規則に従って、帽子を脱ぎ、直立不動の姿勢を取り、静かに、「副所長殿にお願いしたいことがございます」と言いました。
大佐は「何事か」と尋ねました。
「あの人の身代わりになりたいのでございます」と神父は答えました。
大佐は「お前は何者か」と重ねて尋ねると、神父は、「カトリックの司祭です」と答えました。
これまで、フリッツ大佐は、囚人の願いなど聞き届けたことはありませんでした。言葉をかわしたことさえありませんでした。然し、神父の申し出は受け入れました。
こうしてコルベ神父は他の9人の犠牲者とともにはだしになり、死の監房と呼ばれていた13号棟の地下の18号室に連れて行かれました。
この時の様子を、ガヨヴニチェクは次のように回想しています。
「私は、ただ目で感謝を送るだけでした。ぼうぜんとなって、何が起こっているのか、わずかに理解することが出来るだけでした。そして自分に次のように問いかけていました。
『ありえないことだ。死の宣告を受けた私は生きており、だれかが私のためにみずから進んで命を捧げる。見知らぬ人が私の代わりに死んでくれるのだ。これは夢ではないだろうか』と。」
この時から、10人の犠牲者には一滴の水も与えられませんでした。一人また一人と死んでいきました。2週間後には、18号室には神父と他の3人が残るのみとなりました。収容所当局は、4人の死を早めるために、彼らの腕に石灰水の注射を打ちました。こうして、コルベ神父は1941年(昭和16年)8月14日、息絶えました。47歳でした。
5. 一粒の麦が地に落ちて死ななければ
怜子がゼノ修道士を通して蟻の街にかかわるようになったのは21歳の時でした。それから蟻の街に住むようになり、命を削って子どもたちのために尽くします。病弱で何度も倒れ、慢性的な疲労と睡眠不足で体を酷使したため、ついに起き上がれなくなるまで働き続けたのです。その弱った体に、最期の致命的な打撃を与えた事件がありました。
1956年(昭和31年)ごろ、浮浪者を一掃しようという行政の動きは全国におよび、浮浪者が二度と住み付けないようにするために、彼らの掘っ立て小屋などを焼き払うという強引な手段を取るようになりました。
阪神間でも同じようなことが起こりました。
「武庫川の橋の下に暮らすある中学生の手記」(要約)
家に帰ってもお父さんがお酒を飲んで母をいじめて、家の中にあるものを割ったり投げつけたりして暴れるので夜は寝られず、父のいないうちにそうっと布団を河川敷までもってきて、寒い冬の日に川原(かわら)で母と姉妹3人が寝るのです。私はよく泣きながら冬の日に川の中へ入って、学校生活や家庭生活のことを神に祈りました。いつも川原で一人で泣いていました。2回も自殺を図ったこともありました。
私は学校から帰るとすぐ、小さいかごを持って「もらいや」に行き、夜は学友たちに見つからないよう午前1時まで、妹と二人で大きな車を引いてバタヤに行きました。拾った紙くずやかんかんを、寄せ屋に売り、そのお金で妹弟の服を買ったり、学用品を買いました。
私がいちばん楽しい時は、ブラザー・ゼノ神父先生が私たちのところに来てくれる時です。橋の下の部落の子どもを集めて、いろいろな洋服、お菓子などを子どもたちにあげます。日曜日は運動会などを開いて楽しく過ごせます。橋の下の部落の人たちはみんな涙を流して喜んでいました。子どもたちの遊び場がないのでかわいそうだと言って、ブランコを作ってくれました。たくさんの童貞(どうてい)様(さま)(修道女)が来て、私たちに祈りを教えたり歌ったりしてくれました。
瓦木(かわらぎ)中学の先生方はとてもいい先生ばかりで、私の力になったり慰めてくれました。いい幸福が来たのに、今年の6月10日、私たちの橋の下の部落は立ち退きしなければいけないことになりました。橋の下の部落の人は生活の苦しい人ばかりで、子どもが多くいて、3万円のお金をもらって立ち退きをしても、それだけの金では家を借りることもできなくて、子どもがたくさんいるのにお金もなく家もなく、私たちはどうして生きて行けばいいのでしょうか。私たちの家をこわされるというので、私は今1ヶ月ほど学校を休んで働いています。学校もやめなければなりません。家をこわすのは、どうか二、三か月ほど待ってほしいのです。
蟻の街にも立ち退きが迫りました。怜子は陳情書その他数知れぬ届け出書類を連日、夜を徹して書き続けました。肺結核、腎臓病など、体に多くの疾患を持ち、刻々と病魔にむしばまれてゆくのを押し隠して、仕事場のろうそくのもとで、蟻の街を、子どもたちを守ろうと必死に、ボロボロになった体に鞭打(むちう)つようにして、書き続けたのでした。しかも、疲れたような様子は見せず、その顔から微笑(ほほえ)みを絶やしたことはありませんでした。そして、とうとう力尽きて、最期の日を迎えるのです。
みんなの努力が実って、蟻の街の移転代替地が与えられたのは、1960年(昭和35年)8月4日でした。その喜びの日に怜子の姿はありませんでした。2年前の1958年(昭和33年)1月23日に、彼女はバタヤ部落のクズ倉庫の片隅の仕事部屋でみんなに微笑(ほほえ)みを投げかけながら、息を引き取っていたのです。
新しい蟻の街を見ることもないままに死んでゆくことに悔いはなかったのでしょうか。彼女の目に最後に映っていたのは、あのモーセの姿ではなかったでしょうか。40年イスラエルの民を引き連れて苦難の生涯の果てに、今まさに約束の地に入ろうとする寸前に、モーセはピスガの山から約束の地を見下ろして、深い満足感を味わっていたに違いありません。
モーセの姿とダブって、アウシュビッツの餓死室の中で一人の囚人の身代わりとなって死んでいったコルベ神父の姿も見えたに違いありません。「一人を救うために一人が死んでゆく」というメルセス修道会の理念も鮮やかによみがえっていたことでしょう。そして、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(新約聖書ヨハネによる福音書12章24節)と言ったイエス・キリストに迎えられて、微笑みのメッセージを私たちに残していったのです。
引用・参考文献
「アリの町のマリア北原怜子」松居桃楼著 春秋社 1998年
「シリーズ福祉に生きる15 ゼノ神父」枝見静樹著 大空社 1998年
「シリーズ福祉に生きる22 北原怜子」戸川志津子著 大空社 1999年
「ゼノ死ぬひまない」松居桃楼著 春秋社 1966年
「アリの町の天使」生源寺美子著 PHP研究所 1984年
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