人生・教育・宗教の広場
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[35] ホームページ更新再開 投稿者: 投稿日:2010/03/19(Fri) 15:01  
今日、やっとホームページの更新に取り掛かりました。


[34] 無題 投稿者: 投稿日:2009/07/02(Thu) 23:54  
こんばんは。
本日、「はまなす」「如是」そして、新老人の会でご発表の原稿、拝受いたしました。
「はまなす」のスポーツの関するテーマはまったく同感です。「餌に釣られるのはみじめだなぁ」、そして、悲しいなぁと思います。ちょっと前までは、もう少し毅然とした人が多かったのではないでしょうか。どうしてこんなに「欲」が幅を利かすようになったのでしょう?
水野さんのご体験していらっしゃる「変化」についてのご報告は誰にとっても現実味のあることです。そういう意味でたいへん有り難いレポートであると同時に、人間の認識のあり方など、脳と心の分野への貴重な報告になると思います。どうぞ、くれぐれもご自愛くださって、これからも語り続けてくださいますように、お願いいたします。


[33] Re:[32] [31] [30] [29] 仏教とキリスト教 投稿者: 投稿日:2009/06/24(Wed) 21:42  
> 「何かが違う」ので「妙に不安定な気持ち」になってしまいます。→ そうですか! 私だけではなかったのですね。安心できました。

> 「追わず、払わず」、ただ坐る。→ ああ、そうですねぇ。私も静かに「ただ坐る」時間をたいせつにしたいと思います。


[32] Re:[31] [30] [29] 仏教とキリスト教 投稿者: 投稿日:2009/06/24(Wed) 09:54  
私もこの世の組織に属しておりません。
キリスト教会の伝道師を1年勤めましたが、「何かが違う」と思って、公立学校の教師になりました。
やはり「何かが違う」という思いは無くなりませんでした。
教会にいても、世俗にあっても、「何かが違う」という思いは同じでした。
「何かが違う」ので「妙に不安定な気持ち」になってしまいます。
それは坐禅をしても変わりません。
坐禅をすれば「無念無想」になれるのかと思ったりしましたが、やはり「無念無想」を追いかけ、「妙に不安定な気持ち」を追い払おうとして、ますます「無念無想」から遠ざかり、「妙に不安定な気持ち」に沈み込んでしまいます。
このグルグル舞いから抜け出そうとあがけばあがくほど、体に巻きついた呪縛はほどけなくなります。
結局疲れ果てて坐り込むより仕方がなくなりました。
坐り込んだ「そこ」が実は坐禅でした。
「追わず、払わず」、ただ坐る。
今は、この「与えられた坐」に絶えず帰り、帰り、また帰り、しつづける毎日です。


[31] Re:[30] [29] 仏教とキリスト教 投稿者: 投稿日:2009/06/23(Tue) 23:20  
早速にお返事をいただき、ありがとうございます。

> 私たちは生まれた瞬間から、有無を言わさず、ある「舞台」の上に立たされている。

そのとおりだと思います。また、舞台というのは「世間の約束事」であって、「本当は無いもの」である、ということも、まったくそのように感じています。

そのいろいろな「約束事」(虚仮なること)がはらっと落ちて解けて、空まで自分が広がっていくような感じをふと味わうことがあります。しかし、その軽快な気持ちはいつの間にか、また「約束事」の縛りに取って代わられ、あれやこれやの気がかりが頭をもたげてきます。

水野様はキリスト教の信仰をずっとお持ちになっていらしたのですね。私も神さまへの信仰を失ったとは思っていませんが、ニンゲンが作る教会という組織に躓き、またいかなる組織も、キリスト教の教会と同じ病を抱えていると感じて、未だに如何なる組織にも所属していません。こんな躓きから脱していない私は「本当の大人」には遠く及ばないものだと思います。
分からないところは分からないままに、これからも歩き続けたいと思います。分からないまま人生を終わるかもしれないという恐怖は、ある日ふと何もかも明らかになるかもしれないという希望に変えて、一足ひとあし歩き続けていきたいと思います。
これからもどうぞよろしくご教示のほどを、お願いいたします。


[30] Re:[29] 仏教とキリスト教 投稿者:水野吉治 投稿日:2009/06/23(Tue) 09:23  
あなたのおっしゃる「妙に不安定な気持ち」というのはとても大切なことであると思います。
その「妙に不安定な気持ち」に気づくために、この人生に生まれてきたような気がするのです。

私たちは生まれた瞬間から、有無を言わさず、ある「舞台」の上に立たされていると思います。
その舞台は「時間」「空間」「因果律」「自分という存在」などで構成されています。
そしてその舞台の上で、誕生から死までの演劇を演じさせられているのです。
しかし、舞台というのは「世間の約束事」であって、「本当は無いもの」であることに気づく時が来ます。
私は、高校3年生の時に漠然とその予感のようなものを感じて、キリスト教に入り、椎名麟三を読み、坐禅をするようになりました。
では私にとって「舞台」は余計な回り道だったのかというと、その回り道のおかげで、「世間人」とはならず、「本当の大人」になることができたのです。

今後はその舞台の上で、「本当の大人」を演じて行きたいと願っています。
どうぞご贔屓にお願いいたします。


[29] 仏教とキリスト教 投稿者: 投稿日:2009/06/23(Tue) 00:01  
前回初めてコメントさせていただいてから、もう2ヶ月が過ぎ、
2009年も後半に入ろうとしています。ほんとうに時間は年々
加速しているようで、人生はあっという間に終わりを迎え
そうな気が強くしています。そうなってみると、「若い頃、
キリスト教に惹かれ、中年を過ぎる頃、二項対立的世界に
限界を覚え、仏教的な考え方に共感を覚えるようになった」
という越し方に果たしてどんな意味があったのだろうか...
どちらでもよかったのかしらと、ふと肩の力が抜けるような
妙に不安定な気持ちに襲われることがあります。その一方で、
ほんとうに人生を終わるときには、「真面目によくやって
きたね」と言ってやさしく迎えてくれる大きな存在を期待
する気持ちがあったりします。これは年齢的に、考えること
が億劫になっているだけなのでしょうか?


[28] Re:[27] 同じ地平 投稿者: 投稿日:2009/04/03(Fri) 10:38  
ご投稿ありがとうございました。
「宗教的多元主義」の問題は、いわゆる「一神教」を信じている人にとっては、とうてい受け入れられない主張であるでしょう。
私自身がキリスト教に入信したころ、やはり「宗教的多元主義」などをとなえる人に対して、ヒステリックに反応していました。
そのころからすると、今の私は少しは「大人」になったかなという感じです。
これから時間をかけて、遠藤周作とヒックについて考えて行きたいと思っています。
またご教示ください。


[27] 同じ地平 投稿者: 投稿日:2009/04/03(Fri) 00:33  
遠藤周作さんとヒックの「宗教的多元主義」は気にかかる問題で、本も入手していながら、深く考えることなくぼんやりきてしまいました。
宗教や文化の違いはあっても、人間はみな「生・老・病・死」という時間軸に交わる「同じ地平にあって苦楽を共にする絶対平等な存在」という感じがいたします。その絶対平等という立場から理解し合えないものでしょうか。
これから、どうぞよろしくお願いいたします。


[26] 遠藤周作とヒックの出会い 投稿者:水野吉治 投稿日:2009/03/20(Fri) 18:30  
遠藤周作が小説「深い河」を構想している時に、ヒックの「宗教的多元主義」に出合います。
遠藤は「『深い河』創作日記」の中で、次のように書いています。

「ヒックはキリスト教神学者でありながら、世界の各宗教は同じ神を、違った道・文化・象徴で求めていると述べ、キリスト教が第2公会議以後、他宗教との対話と言いながら結局他宗教をキリスト教の中に包括する方向にある、と批判している。そして本当の宗教の多元主義は、イエスをキリストとする神学をやめ、つまりイエスの受肉の問題と三位一体の問題にメスを入れるべきだと敢然として言っているのである。」

また、グリーン「ヒューマン・ファクター」から、主人公カースルの次の言葉を引用しています。

「おれはキリスト教の神もヒンズーの神も半分信じる気持ちになった。大事なのは宗教の形ではなく、イエスの愛を他の人間のなかで発見した時だ。イエスはヒンズーのなかにも仏教信者のなかにも無神論のなかにもいる。」

そして、遠藤自身の考え方として、次のように言っているのです。

「私自身はキリスト教徒だけれども、これは私の環境とか偶然がそうさせたのであって、私の意思というよりは、そうなる運命にあったわけです。私が仏教徒に変わることは不可能だと思う。というのは、日本の中では非常に特殊な例でしょうが、私はそういう環境(キリスト教的)の中で育ってきているから。
各宗教の中にはそれぞれの文化的背景がある。あえて言うけれども、キリスト教だって、ヨーロッパのキリスト教と東洋のキリスト教とは信じ方が違ってくるとさえ私は思っている。またそのために私は悪戦苦闘してきたわけですが・・・。
だから、今、ヨーロッパの学者たちがだんだんこの問題に気づき始めて、『神は多くの顔を持つ』とか、『宗教的多元主義』とかいった本を書かれている神学者もいて、私はそれに非常に共鳴している。
というのは、宗教で一番大事なのは、先ほどから言うように、自分を包んでくれて生かしてくれる無意識の存在であり、多くの日本人の場合にはそれが仏(ほとけ)様であって、私の場合はキリストだとしても、それは、根底では共通しているものだ、だから、その共通してあるもの同士が憎み合うのは、宗教の第二義的、第三義的なことだろうと思う。その第二義的、第三義的なことを表面に持ち出して、『おれたちの宗教とは違うんだ』と言う時代は、既にもう終わりかけていると思うのです。
もう一度問題を整理するならば、宗教性と宗教とは違うということです。宗教性は思想でも何でもなくて人間の無意識にあるものであるから、それをたとえばマルキシズムといった思想と同じように考えてはいけない。
それから、宗教性の上でどの宗教を選ぶかは、その人の環境、文化、歴史的背景が大きく働く。しかし、そこに説かれていることは、根底においてはどの宗教でも結局は同じだろうと思う。同じ頂きを目指して、北から登るか、西から登るか、南から登るかの違いである。」

遠藤周作とヒックの出会いの問題は、今後さらに深めて考えてみたいと思います。


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