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如是
一九七六年(昭和五十一年)法話 大智禅師仮名法語 (十六) 池部素子 2010/07/30

 「道を行ずるには、必ず魔の来たりてこれを遮ることあり、道を行ずることなければ、遮ることなし。」
 『これから坐禅という道をやりましょう』と言うから、『道を行ずる』って言うからいけないんです。行道にならなければいけない。行そのものが道なんだから。道というものがあってそれを行ずるんではないから。「行即道。行道。行佛。行持。」なんて言いますね。みんな行が先に付いてる。
 「坐功つもらば、自然にこれをしるべし、」
 一所懸命に坐っていたら、だんだんそれが分かってくる。
 そう言うと「まあ、今日はしんどいからちょっとゆるくやっといて、明日しっかりやろうか」って。もうそういってはいけないわけです。もう今よりない、っていう。「今坐ったけど今度は立てるかどうか分からない」っていった気構えでやらなくちゃならない。けれども人世は、だんだん年取っていくんですから、やっぱり年々そこに、進歩ではない、変化ですね、はじめはダメだったのが、だんだん坐功っていうのが積もっていって、いいことになってくる、っていう。そこに進歩っていう文字を持ってくるとおかしいことになりますけれど。
 ちょうど「路遥かにして馬の力を知り」とあるように、遠い遠い道を行くのには、馬に乗るとか、あるいは馬を引いて荷物を載せて行くとか、そしたら、ほんとに有り難いことがわかる。
 また「事久うして人の心を知る。」永いお付き合いのうちには、相手の人情っていうのがほんとによく分かってくる。
 そういうふうに「佛道は順逆の中に長遠の志を堅く持つを、真実担当の人というなり。」順運・逆運、どっちが出てきてもかまわない。それは出合いなんだから。自分のかつての業が出合いに結果として出て、それを生活するんだから。いけないことが出てきたら、「ああ、これはかつての業なんだから、ここで懺悔し、あるいは感謝して、それを果たせばそれでいいんだ。これでもうきれいになったんだ。楽になったんだ。有り難い」って、よくても悪くても有り難いでなければいけない。それが「真実担当の人というなり。」まことを担当して行く人である、と。
 「生死の根本は、我を本とするなり。」と。我というものが根本になっている。生き死にの根本ですから。この相対世界の一切は、我というものが本になっている。
 「行道の日つもらば、吾我名利の心は、自然に生ぜず」。本当にひとりでに、坐禅という坐功が積もって行ったら、そういうものは自然に消えて行く。自然に出てこない。
 「若し生ぜずば、先ず担当のしるしと知るべし。」吾我の心が出なかったら、有り難いことだと感謝しなくちゃいけない。
 「行道の人、在家の菩薩としては、随分に五戒を行持すべし。」これはこのお説法なさった相手の菊池寂山入道におっしゃってある。

   ◇  ◇  ◇  ◇

自分なるものの実相を観よ「瞑想せよ」 池部康白

 肉体から真理は生まれない。苦行の信心誇りは笑止だ。心外無別法である。
 而もその心とは自分に他ならない。自分自ら自分の心に悟りを開いて自分を救うのである。そして自分が生きてくれば、一切生きて価値がわかる。だからキリストは「汝の信仰が汝を救うのだ」と云われた。
 神を見た者の瞑想には、必ず神も共に瞑想し給う。祈りとは、所詮一人静かに神を相手に瞑想することで、瞑想は神と一つに生きる生活である。従って若し願う事のある場合は、祈るというより語るのである。この心境が、祈りの至れる境地である。故に真の祈りは瞑想から出て言葉になり、再び瞑想に入る。
 瞑想は神に近づき、神と一つになる道でもあるが、父なる神と吾と一体であるという自覚は、祈りよりも瞑想から得られるものである。
 瞑想に意念を集注すれば、やがて透関するとも云われておる。故に透関するという言葉は、瞑想の纏まった一段落に過ぎない。意念に一毫の私慾も交えず凝聚融結する心思の結果、その誠意が天地の大心霊と瞑合出来るのである。
 物質への執着は人間自ら縛ることになるから、生命が自由を失って自分で自分を破壊する。而もすべての人欲は物質に関係している。嫉妬や羨みの感情も、従って自分で自分を縛ることになるので、結局人間は、純粋に霊であること、神より放射された光であることを自覚して、物質を超越せねばならないのである。

如是221 一九七六年(昭和五十一年)法話 大智禅師仮名法語(十五) 池部素子 2010/07/19

 『坐禅に参った』と内山先生がおっしゃってあります。この参の字は、参拝とか礼拝とかいうふうに、尊いお方に拝謁するというのも参ですから。坐禅という尊いものに自分が一つになったというそういうこと。
 「又祖師の活句に参得すともいうなり。」いろいろこういったりっぱなお言葉を拝読し耳にし、そしてその句によって自分が頷きを得る。そういうこと。
 「たとい伎倆をもて自己の本地風光、本来の面目を見得して、分明に疑いなしとおもうものあるも、この三昧の妙處現前せざる底は、みな随身のカ旧あり、真実の禅にあらず。」これはさっきのところです。
 「会に誇り、悟に豊かにして、瞥地の智通を獲、道を得、心を明めて、衝天の志気を挙し、入頭の辺量に逍遥すと雖も、殆ど出身の活路を虧闕す。」ここんところですね。
 それだから、『ああ、自分は悟ったんだ。もうりっぱなもんだ』なんて言って、歯糞をつけて『甘い、甘い』って言ってるのといっしょ。それはとても悟りの分際と言うことができない。本当の坐禅ではない。
 「近世本朝には活句という名字だにも聞かず、悲しむべし。」
 本当に、真実が生きているという言葉なんかを聞くことができない。悲しむべきことである。
 「初心の坐禅のときは、必ず昏乱することあり、」
 はじめはみんなそうです。だれも通ってきた道ですからよく分かりますね。
 「これは坐禅に打ち向こう時に起こるなり。」
 坐禅と取っ組むからです。『さあ、これから坐禅をやりましょう』と言って、ひとつ坐禅と相撲を取るような気でいるから、そういうことになる。打ち向こう時に起こってくる。もうこれ相対見ですから。相対的に坐禅を考えている。この己を征服しようなんて考えてるから。
 「必ずしもわざと坐禅をばせずとも、坐の見聞覚知ただ尋常にかわることなく、静かにうちいたるばかりにて、道にむこうこと勿れ、昏乱はすべてきたらぬなり。」
 「坐禅に打ち向こう時に起こる。」打ち向こうっていうこと、ここのとこが大事です。相対的に向かい合ってはならないということ。必ずしも坐禅と言って、坐った時ばっかりではない。
 「坐の見聞覚知ただ尋常にかわることなく、静かにうちいたるばかりにて、」
 ただ坐禅の中から見守られ、導かれて、一切をただする。本当に、自分がたださせてもらうといった、にぎらないでする、妄想をやめるだけという、そういう尊い如来禅を坐らせてもらう、それだけです。「これから坐禅をやる」と言って坐禅と取っ組むような姿勢でやるのはいけない。「道にむこうこと勿れ」と言ってある。そういう坐り方を注意していましたら、「昏乱はすべてきたらぬなり。」いろんな妄想なんかの起こり方が違ってくるわけです。ただするといったこと。ほんと、これただするというのは、大切なことです。

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物(肉体的人慾)に憑かるる人は仏縁浅い
池部康白

 屈身俯仰して、肉体的労苦を辞せざるほどの志が無いと、心身清浄となって神明に通じ、神と一体なる自分を成就することは出来にくいと云われておるが、肉体とは物によって生きている我であるから、物慾以外には生活を知らぬものである。
 此処に囚われた人間の根本無明があるので、一度心霊を自覚した者のみが、真実神の子としての人生生活に復帰出来ることになるのである。
 而も、無始以来の無明妄想は、習性となって容易には消えないために、種々さまざまな努力的働きをしているものである。
 求道久しき者も、正縁に結ばれない間は、徒に苦行もする。苦行は悟りの因にあらずと、仏説にはあっても、それがわからないから一大事因縁である。
 釈迦、キリスト、孔子、陽明、其の他聖人と云わるる人々は、誰にとっても先覚であり尊師であるのに、何故それがわからぬかと云えば、矢張りこれも因縁で、種性邪なれば誤って知解すという道理である。
 自分は神仏の慈悲を被って、今日この真理を蒙ったことを感謝します。
 これら先覚の教えるところは、皆宇宙に実在するものは、唯一つ霊智無限の大生命ばかりで、本来完全なものである。従って、人間もその一元から顕現したものであるから、これを自覚して我意の妄想を捨て去れば、本来の面目に復帰して安穏無事、迷いを克服できて、生死も超えられると云うのである。


如是220一九七六年(昭和五十一年)法話 大智禅師仮名法語(十四)  池部素子 2010/07/19

 「自然に月ゆき年つもれば、この人にむかいうちいたる底の自己おのずから忘れて、通身行道する人となるなり。」そういうふうにしていたら、はじめは人にうち向かって、『ただ』しているといった、一所懸命意識して、精進努力してやっていますね。それだけど、それがもう今度は楽に、本当に『ただ』できるようになってくる。
 「この人にむかいうちいたる底の自己」。向かい合っているという相対的な、そういう相対見も取れてしまうということ。そしてこの身それぐるみで、ただ行を道としてゆく、そういう人になってゆくということ。
 道を行じてゆくんではない。それでは、道というものがあるから、それを行じてゆく、となります。ただあるのは行だけです。
 この地上に、時間・空間というのがある。そうすると、時間というのはどこにあるかといって、ただそれは、この地球が一回りして一日一夜が過ぎてゆくけれど、あちら側から見たら、時間・空間は無いです。それだから相対の見というものは、本当は無いんだから。
 「行道とは、道を行ぜよというにあらず」。道を行じて行くっていうのが、行道ではない。道を行じるんだったら、道行かもしれません。道というものが主体にあるんではない。行だけがある。ひとりでにあるんだからしかたがない。一切が行です。『自分は何も行じない』なんて言っても行じている。何かを人間は行じさせられている。
 「咳唾屈伸ことごとく西来意なるをいうなり。」咳をしても、唾を吐いても、あくびをして伸び縮みしても、みんなそれが「祖師西来意」である。達磨様がどこから来たか。西から来たって言う。それは坐禅を持っておいでになった。それだから『坐禅だけがある』っていうこと。坐禅ということが祖師西来意ということ。達磨様はこの坐禅の祖です。インドから中国にいらっしゃった。それで祖師がインドからお越しになったのはどういう意味か、って。
 ただ坐禅という「この三昧の不可思議現前するときは、地水火風分散し、五根六賊昏昧なる中にも、生死の路頭においては主宰となるなり。」本当にこの坐禅三昧というそれに自分がなりきったときには、一切が、この地水火風という現象の物質世界・やりとり世界の、五根六賊、眼耳鼻舌身そして六つ目の意識という、その暗がりの中にあっても、三昧に徹底してきたら、生死の路頭においては主人公になる。本当にこの世でどんな生活をしていても、それはどうでもいいということ。あってもなくても、苦楽も、是非憎愛も、それを心にかけるのは、こっち側の話ですから。ただ、そういうことは心にかけて、出合いのままに行じて行けばいいということ。三界の主人公になる。
 「この三昧現前するを坐禅に参得すという。」本当に坐禅に参じ、得るということ。参禅などという、この参の字は参るという字です。

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実相観
人間知識は意念上の記憶であって
  霊的悟りでは無い
池部康白

 一如の共通的生命が観えない者は、心眼の盲人で、皆利己的なものである。
 利己は我意の妄見であって、衆生の迷い心である。
 衆生とは、自分自身佛でありながら、佛たることを知らないものの仮名であるが、衆生は、ただ我意の仮作した作為、即ち、はからいの力によって生きる力を得ようとしている者である。
 しかし、真人は一如を観て、如来のお働きが必ず最善にお導き下さるものと信じ、朝夕感謝しつつ自然に完全に生きているものである。自をまたず、他をまたずにである。
 それは、悩める人が来る時に、自分が相談になってはやるものの、実は救う自分も無く、救わるる相手もなく、差別即平等のうちに、如来の御いのちが生きて働いておられるようにである。
 観普賢菩薩行法経の中に、「端坐して実相を想え」とあるが、実相には坐す者無くて坐するのである。観らるるものと観るものは、一つ生命が坐す。
 一切如来神通の御ちからのみが在して、本来無我清浄法身である。だから、有我にして、自分の欲心や我意我執に仕えている人間は、皆偶像を拝んでいる者ばかりである。
 一時聞法し読経して、自覚したと思っても、時間・空間の中から出る我意の分別では、肉体物質と同じ表裏一体であるから、五蘊皆空で、其の意も亦無いのである。其の無い意で、生命に随順 してみたところが、観念の上のみで、実を得ることは出来ない。つまり、解ったと思っても生きて来ない。神に対しては無明でしかない。

如是219 一九七六年(昭和五十一年)法話 大智禅師仮名法語(十三) 池部素子 2010/07/19

 坐禅中に、もうくたびれて、溜息がでそうになったら、しんぼうして出さないように、はっきりと、いっぺん目を開いて、息を細々と工夫して出すとか、何とかそこで工夫して、みんな一つの禅堂で、一つ息を吸うているようなあんばいに坐らなければならない。
 十人、二十人いても、一人よりいないような気持ちで坐らなければならない。安泰寺あたりだったら四、五十人いても、ほんと、もう、一人のような感じですから。それはみんなが一つになるから、もうそこで一体感というものが味わえるわけです。
 それだから、いつでもみんな一つだから、一つ行動を取って行かなければならない。それが僧堂生活です。僧というのは和合という意味ですから。頭をまるめて、黒い着物を着てるのが僧ではない。頭まるめたのは、ほんと、まるい「和」というしるしが、頭をまるめたというしるしですから。伸びていたら、いろんな好きな格好にしますでしょ。「和」だからもうどうすることもできない。それぎりのまるい格好。それが「和」です。それでそれを僧というわけです。
 もう坐禅にすぎた大切な道はない。
 「いわゆる坐禅は、静かなる処 に蒲団一枚を安じ、その上に端身正坐して、身になすことなく、口にいうことなく、意に善悪をはからず、唯しずかに坐して壁に面い、坐して日を送る。この外に何の奇特玄妙の道理なし。」と。
 これは、坐り方の極意を言われてありますね。「身になすことなく、口にいうことなく、意に善悪をはからず」と。本当に身口意をかざったりしないで、白紙になって坐る。そして日を送る。この外に何の変わった道理があるんではない、と。ただそうやって坐って、そしてそれを生活すればいい。
 「然れども光陰虚しく度らざるなり」と。一所懸命にそれを生活しなければならない。
 「身心内外中に生死の二法いずれのところにありや、点検して知るべし。」この身・この心の内にあるのか、外にあるのか、中にあるのか。生きるとか、死ぬるとか、っていうことは、どこにあるんだ、ってよく調べてみるがよろしい。生き死にというのは、この身のどこにあるのか。 もしこの身心の中に、内外に、生き死にということがあるならば、持ってきて見せてみろ、っておっしゃっている。もしなかったら、「尋常人にむかいてうちいる底の自己をおこたらず、忘れずして護持荷担すべし。」と。そう言ってたずねられたら、どこに生死があるということは、言うことができない。無いものだから。表現のしようがありませんでしょ。
 そうするとふだん人に向かって、自己がただ向かい合っているんですよね。そういった自己をおこたらず、「ただ」という手垢の付かないことを忘れないで、「護持荷担すべし。」それを大切に行 じてゆかなくちゃならない。

     ☆ ☆ ☆ ☆

一如を生かす者は生かされる  池部康白

 与えることの出来る者は、与えられたいと思う者より豊富な人であるから、幸福にちがいない。
 神は与える愛である。神の愛が自分にめぐって来るためには、自ら愛なる生命の一如を生かすからである。
 自分が愛されたい、自分が幸福になりたいとばかり思っている者は、肉体に囚われている人か、或いは物に憑かれている人間で、その人の霊魂は飢餓か乞食のように貧しい。
 心通りに成る世界と知ったら、先ず他に親切を与える愛を現してみるがよい。
 法則と智慧とは神に於いては一つであるから、富が湧き出て来るのには、智慧によって法則を理解することが大切である。
 而も自分は常に法則のうちに生かされている。法則は神であり、神のあらわれが自分なるもので、自分の生活に於いては、自分以外は無いのである。
 自分の生きかたが全てであって、彼と見ゆるも実は吾なのである。外界は内界の投影で、一つ生命のあらわす世界で、自分の心の見る通りに現れているのである。
 つまり、自分の見るものは、自分の心から発したもののみであるから、自分なるものは絶対者ということになる。従って自分が愛されないのは、愛しないからで、自分が自分を不幸にしているものである。
 利己的な我意は、大生命(父なる神)から離れている心で、法華経にも説かれている貧窮子の心である。
 本来、与えんとする自分と、与えられんとする相手は、神に於いては一体である。

一九七六年(昭和51年)法話 夢窓国師二十三問答 (2)  池部素子 2010/04/19

 「いよいよ佛(ほとけ)の道に入りたると思いとりて、御法(みのり)を信ずる」心をおこす、それが道心(どうしん)である。佛の道といって何か特別に変わった道があるんではない。
 佛 。ほどける。解脱(げだつ)。涅槃(ねはん)。それが悟(さと)りに入(い)る道である。一切にサラサラとしてほどけること。すぐ人間はにぎってしまうから。一つにぎっていたら、次のものを取ろうと思ったら、にぎっている手を広げなくちゃ取られませんね。にぎってはいけない。ほどけなくちゃいけない。それが佛なんです。佛の道というのはそういうこと。そして道心(どうしん)をおこす。いちばん始めは無常(むじょう)を観(かん)じなければならない。
 それだから、水野さんのお父さんがお亡くなりになった、って、人事(ひとごと)ではない。

○  ○  ○  ○

一九七六年(昭和51年)法話 大智禅師仮名法語 (12) 池部素子

 時間・空間の意識。ほんとは一つのものなんだから。自他(じた)の区別意識が生まれてくる。それがもう罪のはじめですから。そこまで返らなくちゃいけない。朕兆已前(ちんちょういぜん)とか父母未生已前(ぶもみしょういぜん)と言って、そこまで返らなくちゃいけない。朕兆(ちんちょう)の朕(ちん)は、「朕(ちん)思うに」という お勅語(ちょくご)の朕(ちん)、あれは昔(むかし)は、自分ということなんだそうです。中国では自分のことをみんな、だれもかれもが朕(ちん)と言うた、って。それがおしまいには皇帝だけの専有物(せんゆうぶつ)になったけれど。
 朕(ちん)というものの兆(きざ)し以前。自分というものをフッと感じた、それ以前に返らなくちゃいけない。そのフッと感じた、っていうそこまでさかのぼって行く、っていうことは、妄想(もうぞう)をやめにするということです。はじめ自分という意識が生まれたんだから。それは妄想(もうぞう)ですから。坐禅の中で妄想(もうぞう)をやめさえしたら、もうその朕兆已前(ちんちょういぜん)、そこへ返ったわけなんです。
 「それでも、分からないじゃないか」って言います。分からないのはあたりまえです。分かるのはアタマで分かってんだから。分かっていたら、もうそれはまだ返ったことにはならない。分からなくていいんです。
 ただ如来(にょらい)がお坐(すわ)りになったお姿を真似(まね)て坐(すわ)る。そして、如来(にょらい)の仰(おお)せ、祖師方(そしがた)のなさったそのお言葉どおりに坐って、妄想をやめたら、それでいい。もうそれで坐禅が成就(じょうじゅ)しているんです。
 「まだ坐禅は下手(へた)だ」っていうところは妄想があるから。自分が坐って、やらなくちゃならないのは、妄想をやめることだけ。妄想をやめたら、それでいい。そのあとはおまかせしておけばいいんです。ただ妄想をやめる。
 「今日の坐禅はちょっとましだった」とか、「今日は足が楽だった」とか、そんなことを思いながら坐ってたんでは何にもならない。足が痛かったら、こっそり、両 端(りょうはし)の人にじゃまにならないようにソーっと、とっ替(か)えればいい。

   ◇  ◇  ◇  ◇

吾常住(われじょうじゅう)神と在(あ)るなり   池部康白

 人間の本心が開顕(かいけん)されたら、誰でも自分の身(み)(中(なか))が神の宮殿と自覚されて、悪いことは絶対に働きかけることは出来なくなるものである。
 本心は神であり、至善(しぜん)そのものであるから、何ものによっても、犯(おか)されるものではない。何故(なぜ)なら、この本心こそ天地の主人公(しゅじんこう)たる久遠(くおん)の実在(じつざい)だからである。而(しか)も自体(じたい)が法則であるから、それに従っているものは必ず護(まも)られる。
 だから、若(も)し自分が全(すべ)ての人々に、この真理を知らせ、人々は神の子だから心配するな、と、その法則によって護(まも)ってやるなら、その法則は、全(すべ)ての人々から、喜びと感謝を打ち返して来て護(まも)られるのである。これは自分の体験から言っている。
 この通り、法則としては、悪は悪に対してのみ働き得(う)る。害を受けるものは、害を受けるに相応(そうおう)した意念(いねん)がある。利己的な我慾(がよく)か、他(た)に対する攻撃精神かが必ずある。
 故(ゆえ)に、一如(いちにょ)大調和の実相(じっそう)を想(おも)うて、よくない観念は捨てて、犯(おか)し合いのない人生哲学を受け容(い)れねばならない。
 自分の本心が法則であるのに、自分が怒ったり憎んだりしては、一如(いちにょ)から隔(へだ)てるものは自分自身だからである。これは愚痴(ぐち)であり、無智(むち)に相違(そうい)ないのである。世間(せけん)の礼拝信仰と自分の信心(しんじん)とは、斯(こ)うして何のかかわりもない。神の宮と偶像と何の一致があろう。
 自分は、今、生ける神の宮である。而(しか)も我(われ)無(な)く我(わ)が物も無(な)い。在(いま)すは救い主(ぬし)キリストであり、佛如来(ぶつにょらい)であり、天にある父なる神にまします。
 吾(われ)常に神と偕(とも)に在(あ)り。

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