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如是
一九七六年(昭和51年)法話 大智禅師仮名法語(7) 池部素子 2010/03/21

 「坐功(ざこう)つもらば、自然にこれを知るべし」。
 「まあ、だんだんうまくなるだろう」じゃなく、今という時よりない。それを念々刻々に。人世(じんせい)はやっぱり積んで行かなくちゃならないんですから。

 眼と耳と鼻と口と身。これを五つの根と言うんです。根っこのようなもの。根本になっているもの。
 人間は目が覚めてるときは、いつでも何かに出合ってますね。眠ってるときは眠りに出合っているわけでしょ。生まれてから息の根がとまるまで、人世(じんせい)はこれ出合いです。一切(いっさい)が出合いです。その出合い出合いの相手だから、対境(たいきょう)ですね。向かい合った境界(きょうがい)。この対境(たいきょう)とのやりとり。
 それが、あることを、眼を通し、耳を通し、鼻、口、身を通し、この五つの根を通して、人間の心に受け取る。
 暖かい火にあたったら、火というものは暖かくて、寒いときにはいいものだ、って喜びましょう。そしてその心が「火というものは身を暖めてくれて有り難(がた)い」と思う。また夏なんか、かんかん照(で)りのときだったら、「ああ、熱いのはたまらない」と思ったり、そんなふうに同じ火でも使い方によって、また火事なんかになったら大変でしょうしね、熱が出たらつらいし、火でも使いようによっていろいろ受け取り方が違ってくる。
 そして、五根(ごこん)と対境(たいきょう)の五塵(ごじん)(境界(きょうがい))の出合いを、六番目の意識(六識)が受け取って、もう一つ奥の第七の意識(七識)がそれを分別する。好きだとかきらいだとか、暑いとか寒いとか、って言って現象的な分別をする、その意識に持ち込んで行く。
 そうするとその意識が、この身を通しての経験として、まあ何か好きなものを食べたとすると、それをいちばん奥の意識、潜在(せんざい)意識という八識(はっしき)に入れて置くんです。そこにちゃんとしまい込んで置く。倉(くら)のようなものですわね。いくらでもそこへしまわれて行きます。 人間の、この現象世界に出てきたいちばんの始め、アメーバであったかゾウリムシであったか、そういったいちばんの微生物として出てきて、今日(こんにち)ここに幾十百千万(いくじゅうひゃくせんまん)年経(へ)て、人間として真理に触れるところまで出入(ではい)りしてきた。数(かず)しれない経験をみんな潜在(せんざい)意識に入れてある。そして入れてあるものが、ちょうど出るにふさわしい縁(えん)に触れたら、出るんです。出たら消えるんです。潜在(せんざい)意識もふくれるばかりではなく、出たり入ったりしているわけですけれど。
 それが音楽なんかが好きで、楽しい音楽を聴(き)いたとしますわね。そうすると今度は、どこかでそういうレコードの盤(ばん)を見つけた、それをほしい、と思いましょう。ほしいというのは、前に聴いたことのあるものだから、またちょいちょい楽しみたいというのでほしくなる。未経験だったら、そんな盤を見てもほしくないかも知れない。でも、何々の曲なんて書いてあったらほしくなる。

○  ○  ○  ○

個(こ)の清浄心(しょうじょうしん)と宇宙真心 (うちゅうしんしん)と符合(ふごう)す
(その一)

池部康白

 宇宙は法則のもとに流動している。この大法(だいほう)が、自分の心に摂取(せっしゅ)されていることを悟(さと)れば、想念(そうねん)の力が、人間の生活にとって如何(いか)に重大なものであるかがわかるのである。
 仏説(ぶっせつ)にも、「一切の現象は、念(ねん)の所現(しょげん)にして、本来(ほんらい)無(む)なり。無より一切を生)しょう)ず」とあるように、心に悪を想念(そうねん)すれば、吾(われ)自身悪に成(な)る。
 想念とは生命の波で、生命そのものが活動する方法であるから、想念は、想念した通りに現象する力がある。それを三界唯心所現(さんがいゆいしんしょげん)とも説法(せっぽう)されている。
 而(しか)もこの真理は、現象(げんしょう)顕現(けんげん)の法則であって、時間・空間の一面である空間的横(よこ)の真理として、人間生活百般(ひゃっぱん)の相(そう)を支配するものではあるが、現象は本来空(くう)である。想念の幻影であって実在ではないのである。
 本当に在(あ)るものは唯(ただ)生命だけ、人の本心だけ、良心とも云(い)わるる心霊(しんれい)、即(すなわ)ち神の子、佛の子なるいのちだけであると悟了(ごりょう)すれば、業障(ごっしょう)本来空(くう)だとわかるのである。
 了々(りょうりょう)として、見るに一物(いちもつ)も無(な)い。人間も無いから、我(われ)も無く彼(かれ)も無い。聖凡一如(しょうぼんいちにょ)海中(かいちゅう)の泡(あわ)。而(しか)も斯(か)く自覚した当体(とうたい)の吾(われ)は、彼ではないけれど、生命に於(お)いて彼は正(まさ)に吾(われ)である。
 ここに到(いた)って煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)の境地(きょうち)も開けるが、同時に法執(ほうしゅう)すら消えて了(しま)う。いわんや世執(せしゅう)をや。
 この道理(どうり)、有意(ゆうい)を以(もっ)ても得(う)べからず、無意(むい)を以(もっ)ても得(う)べからず。ただ日常の誠意功夫(せいいくふう)による浄心(じょうしん)と宇宙の心と符合(ふごう)しなければ、見性(けんしょう)の実(じつ)があがらないのだ。

一九七六年(昭和51年)法話 大智禅師仮名法語(6)  池部素子 2010/03/20

 自分が山に登った、それより上からの展望はそこまで行かなければ開けてこないでしょ。自分は自分の立っているそれより上のことは分からない。そこから下のことはよく分かりますけど。悟(さと)りというものもそうです。自分の程度しか理解ができないんだから。
 それで先頃(せんころ)Y子さんが東京から来ていて、あの方は東京にいて「坐禅をしたい」と言ってどこかのお寺に行ったそうです。そこのお寺はたいへんりっぱだっていうので行ったところが、そこでいろんなお話を聞いていたら、どうも疑問が起きてきた、って。
 そのお師家(しけ)さんが言われるのには、「赤ひげ」っていう映画ですか、何かあった、って。それのたとえを引っぱり出して、「人間はみんなから信頼されるような人物になる、それが人生のいちばんの幸せでしょうね」ってそう言われた、って。Y子さんが「それだから、もうがっかりして帰ってきました。どうしたらいいでしょうか」って言って手紙くださったから、「危(あぶ)なっかしいところへ行かない方がいいですよ」って、私は言ったんです。
 「既に人身(にんしん)の機要(きよう)を得たり」。
 本当に今、大切な自在(じざい)を働くことができる、この因果(いんが)の縁(えん)を持つことができるのは、人間に生まれてきたからです。そこで真実道(しんじつどう)を行(ぎょう)じてゆかなくちゃ、どこに行道(ぎょうどう)があるでしょうか。出合いの、この因果歴然(いんがれきねん)として現れてきた、そこをどう渡ってゆくか、そこを大切にして行かなくてはならないんです。
 作り物の象(ぞう)だの竜(りゅう)だのを珍重(ちんちょう)して、骨董品(こっとうひん)を大事にしていて、本当の竜(りゅう)だの象(ぞう)だのが出てきたら肝(きも)をつぶしてしまったっていうような、そんな間違ったことがあってはならない。
 「直指端的(じきしたんてき)の道(どう)に精進(しょうじん)し、絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴(そんき)し、仏仏(ぶつぶつ)の菩提(ぼだい)に合沓(がっとう)し、祖祖(そそ)の三昧(ざんまい)を嫡嗣(てきし)せよ。久(ひさ)しくインモなることを為(な)さば、須(すべか)らく是(こ)れインモなるべし。宝蔵(ほうぞう)自(おのずか)ら開けて、受用如意(じゅようにょい)ならん。」
 こう普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)のおしまいにおっしゃってありますね。ほんと、そうです。
 「直指端的(じきしたんてき)の道(どう)」。ほんと真実の坐禅です。本当の坐禅に出合わなくてはならない。
 そして「絶学無為(ぜつがくむい)の人を尊貴(そんき)し」。「自分は偉いんだ」なんて言ってる、そういったお方に聞いたり、そんな人の書いたようなものを尊(とうと) んではならない。
 「絶学無為(ぜつがくむい)の間道人(かんどうにん)」と言ってあります。本当に無学無為(ぜつがくむい)の人が真実道人(どうにん)ですから。学というのはこの地上のアタマにただ入ったものだから。死んだらおしまいのもの。そこにはなんの価値もない。よくそこのところを弁(わきま)えて真実道(しんじつどう)に入って、もう如是(にょぜ)。生命そのままがそのままの坐禅。それを一心に生活していったら、「宝蔵(ほうぞう)自(おのずか)ら開けて、受用如意(じゅようにょい)ならん」とおっしゃってくださってありますね。もうひとりでにそうやって開けて行きますから。有り難(がた)いことです。

すべて分身(ぶんしん)、
霊の大海  その二

池部康白

 いのちがただ一つある。
 宇宙には大生命(生きている心)が在(あ)るだけで、そのいのちが千差万別のすがたにあらわれているから、本来渾一体(こんいつたい)である。この一如(いちにょ)が本当のすがたであると、心のドン底から自覚されて来ると、自然に一切に対して親しみある慈愛の念が湧(わ)き出すものである。
 「神は愛なり」、「佛は慈悲なり」、「天は仁(じん)なり」と言った聖者たちは、此(こ)の一つの天地の心に冥合(めいごう)し、融会(ゆうえ)した人々であった。
 だから、すべての人間も、永遠の価値ある完全な生活を今の此(こ)の世界に実現しようと志(こことざ)すならば、神、仏如来(ぶつにょらい)をすべての存在の根源者(こんげんしゃ)であると認めなくてはならぬ。霊智的(れいちてき)宇宙大生命は、即(すなわ)ち父なる神、佛であるから、すべては自分と同じもの、分身(ぶんしん)であると悟(さと)るべきである。
 人間には誰にでも良心が宿っている。この良心がいのちなる心霊(しんれい)で、神の子とか佛の子という聖霊(せいれい)であって、其(そ)の他には何も無いのである。
 而(しか)も人間は、物質に囚(とら)われているがために、我意我見(がいがけん)を生(しょう)じて、良心の霊明(れいみょう)・霊力(れいりょく)をさまたげ、押し込め、包みかくして、自分で自分を不幸に突き落としているものである。
 たまたま縁(えん)あってこの真理を聞き、良心が神の子たる本当の自分であったのかと「知る」ことは出来ても、「致(いた)す」こと能(あた)わずで、前々(まえまえ)からの習慣の意念(いねん)によって、ハッキリと悟(さと)れないのである。これは祈りのこころが不足して整(ととの)わないから一切(いっさい)の意念(いねん)も整(ととの)わないのである。何故(なぜ)なら祈りの心は、生命の息宣(いの)りで、生命の根元(こんげん)に於(お)いて祈り心(ごころ)が生きないからである。

大智禅師仮名法語 一九七六年(昭和51年)法話(5) 2010/03/19

         池部素子

 そういうふうに、本当の「度(ど)」というのは、「ああ、お前は悟ったから、やる」っていう、そういうものではない。お互いに得た者と得た者の通い合いがあるんです。そこんところは、そうなって見なければ言うことのできないものですから。
 坐禅をするようになっていらっしゃったら、気をつけて行(ぎょう)じなければなりません。
 よくこれからなんか、山に遊びに来る人で、若い人なんかでも道を歩くのに、ただ山道を歩いたらよさそうなものだのに、あっちへフラフラこっちへフラフラして、きれいな花が道ばたに出てきたら、それをシューっとしごいてパッと捨てるでしょ。またこっちに花があったら、また、それを取って捨てる。「なんのためにちぎって捨てるんだろう。かわいそうなことして」と思いますね。ほんと心なしのことをしている。
 そういうのは、人間・自分というものがそこにやってきた。そしてただこの身心が、その時の何とも言われないうれしい衝動を、そういう形で出して見せる。それしかできない表現なんでしょうけれど。それだから、ま、それを見たら「とても喜んでいるんだなあ」と思いますね。それでも「おなじことなら、そんなことをしないで、花に話しかけるような愛情を持ってもらいたいものだ」と思う。
 そこんところが、坐禅をするようになってくると、道ばたの一つの草の花を見ても、そこに話しかけるような、いとおしみの心がわいてきて、何とも言われない、「ほんとに花というものが、自分と同じように唯一の生命から生まれてきた片割れなんだな」って、「ほんとになつかしいね」っていった生命感情がわいてくる。そういうふうに、だんだんそれが広く大きくなってくるんです。必ず、そこのところはみなさんがだんだん深く体験してきていらっしゃると思います。
 それだけど、悟りっていうものは、何かそこからコロッと三百六十度転回した、違ったことが、摩訶不思議(まかふしぎ)が、出て来るんじゃないかって、そんなこと思ったら間違いです。ちっとも違わないんです。はたから見たら分からない。分からないけど、そういった所作(しょさ)にも、一切を祝福して喜ぶという心を重ねることができるようになってくる。そしてそれに適応した身のふるまいができてきますでしょ。それが真実の姿なんです。
 「古聖(こしょう)既に然(しか)り、今人(こんじん)盍(なん)ぞ弁ぜざる。所以(ゆえ)に須(すべか)らく言(げん)を尋(たず)ね語(ご)を逐(お)うの解行(げぎょう)を休(きゅう)すべし。」と言ってある。
 「須(すべか)らく言(げん)を尋(たず)ね語(ご)を逐(お)う」と言いますから、これは、右往左往して、あっちの師匠(ししょう)に行き、こっちの有名人に行きして、いろんなことを聞いたり見たりして、悟りを乞食(こじ)いて歩くことです。悟り乞食(こじ)きをして歩く。
 そう言って「分かった!」と言って悟りを握っている。お師家(しけ)さんの提唱(ていしょう)に「ああ。この方(かた)の話しはよく分かった」なんて。「分かる」というのは自分の程度だけしか分からないんですから。みんなそうなんです。

  ○  ○  ○  ○

すべて分身、
霊(れい)の大海  その一

池部康白

 大宇宙は霊の大海であって、人間の肉体をはじめ森羅万象(しんらばんしょう)、物質はすべて霊の幻影に過ぎないのである。
 霊こそ唯一の実在であるのに、物質が固定して実在するものの如くみるから、其処(そこ)から迷いが生(しょう)ずるのである。又(また)此(こ)の世界を、精神と物質の混合だと観(み)るのも間違った見惑(けんわく)で、本当は唯一大心霊のみが存在するのである。これを霊智的大生命と云(い)ってもよいが、宇宙はこの大生命が展開しておる芸術的創作である。
 従って、人間・自分なるものの本体、実相も亦(また)生命の顕現(けんげん)せる霊的存在であって、生命は人の肉体に於(お)いては、息、即(すなわ)ち文字の組み立てから見ても、「おのずから心」で、人間は心霊的存在である。故に、「自分は肉体ではない、霊的なものだ」と自覚し得た程度にしたがって解放され、自由を得るのである。
 しかし普通では、この信念がなく、現象の差別相に囚(とら)われているから、私意私慾(しいしよく)の利己のみであって、渾一(こんいつ)なる共通的生命を知らず、見えもせず、従って、また生命の法則にそむいて、みずから不幸を招いている者が多数の人々である。
 実際、すべては自分と同じいのちに生かされている分身である。兄弟姉妹のようなもので、万物同根(どうこん)自他一体である。この真理を知らない者を、凡夫衆生(ぼんぷしゅじょう)の無明(むみょう)と云(い)い、知って、その心持ちを人生生活に顕現した人達を、聖人とも、生き神とも、真人(しんじん)とも、達人とも、佛とも云う。(続く)

1976年(昭和51年)法話 大智禅師仮名法語(四)  池部素子 2009/07/04

 それですから、坐禅をして、「ああ、自分は悟った」とか、「得た」とか、そんなことを思って、「会に誇り、悟に豊かにして」、「仏法が分かった」「悟った」と思い込んでいても、それはただチラッと真実の影を見たに過ぎないものだから。
「光を見た。あ、これが実相というものか。生命というものか」なんて言って。

 ちょうどこのあいだ受食五観の序文のところで、いちばん初めにありましたね、「著味の一念」という。
本当に、何かおいしいものを食べて「おいしいなあ」と言った。それと同じこと。

 坐禅をして、いい気持ちになっていて、「ああ、自分は分かったんだ」なんて思っているのは、まだまだ、口の中に甘い味わいを歯にくっ付けて喜んでいるような、それといっしょだって言ってあります。
そういうところで安心しては大変なあやまちになってくる。
もうそうなったら、とても鼻息が荒くなってうぬぼれてしまいますから。
見性だとか悟りだとか言って握っているようなことになったら大変なことであると。
まあどうしようもないことになってしまう。

 「矧んや、彼の祇園の生知たる、端坐六年の蹤跡見つべし」。
これはお釈迦様のこと。
 「少林の心印を伝うる、面壁九歳の声名尚聞こゆ」。
これは達磨様のこと。

 お釈迦様も達磨様もどんなでいらっしゃったか。
本当に真実の坐りをお坐りになった。
そうであるからこそ、それが今日まで嫡々として、一人から一人へ伝えられてきた。

 この伝えるというのは「ああ、お前は悟ったから印可をやりましょう」っていうそれではない。
世尊のお弟子になり、達磨の弟子になり、またお弟子となって、教えを聴き、坐禅をし、そこで修行が満ち足りて、本当に「ああ、これなんだ」っていう、そういったいわゆる悟りというものが、中からひとりでに開けるようになってくる。

 その時に、師匠と対座したときに、お互いの中のものが通じ合う。
そして、頷(うなず)き合うことが出来る。
それが本当の悟りを伝えたという印可だと言われてある。

 お釈迦様と大迦葉の、拈華微笑の一場面がよく言われてありますね。
お説法の時、大衆がみんなそこに座をたまわっていたら、お釈迦様は座にお着きになって、なんにもおっしゃらない。
一輪の花をこうやってお見せになった。
「拈華」ですからこうやってお見せになった。
そしてみんな怪訝な顔をして「何をおっしゃり始めるだろうか」と思って、みんなの見方が相対的ですから、「ああ、花をお見せになった。何をおっしゃるだろうか」って。
全部この世の見(けん)というものは相対的なものです。
それだけど大迦葉一人が、そこでニコッとして頷(うなず)いた、って。

 お釈迦様は「わが法は摩訶迦葉に付嘱す」とおっしゃって、
「本当に世尊の仏法というものを、頷き、体得し、それを行じて、またそれに応えて行くことができる。
それがこの大迦葉である」
と言って、そこでみんなに仰せになった。

○  ○  ○  ○

すべて分身、霊の大海  池部康白

 大宇宙は霊の大海であって、人間の肉体をはじめ、森羅万象、物質はすべて霊の幻影に過ぎないのである。

 霊こそ唯一の実在であるのに、物質が固定して実在するものの如く見るから、其処から迷いが生ずるのである。

 又、此の世界を精神と物質の混合だと観るのも間違った見惑(けんわく)で、本当は、唯、一大心霊のみが存在するのである。
これを霊智的大生命と云ってもよいが、宇宙は、この大生命が展開しておる芸術的創作である。

 従って、人間自分なるものの本体実在も亦、生命の顕現せる存在であって、生命は人の肉体に於いては、息、即ち、文字の組み立てから見ても、「おのずから心 」で、人間は心霊的存在である。
故に、自分は肉体ではない、霊的なものだと自覚し得た程度にしたがって解放され自由を得るのである。

 しかし、普通ではこの信念がなく、現象の差別相に囚われているから、私意私欲の利己のみであって、渾一なる共通的生命を知らず、見えもせず、従ってまた生命の法則にそむいて、みずから不幸を招いている者が多数の人々である。

 実際、すべては、自分と同じいのちに生かされている分身である。
兄弟姉妹のようなもので、万物同根自他一体である。
この真理を知らない者を凡夫衆生の無明と云い、知ってその心持ちを人生生活に顕現した人達を聖人とも、生き神とも、真人とも、達人とも、佛とも云う。

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1976年(昭和51年)法話 大智禅師仮名法語(三) 池部素子 2009/07/04

 「宗乗自在、何ぞ功夫を費さん。」
本物の働き、生命の働きっていうものは、本当に自由自在なものだ、って。
何も功夫はいらないんだ、って。
どうしなくちゃならないなんて、そういうむつかしいものはない、っていうわけです。

 「況んや、全体はるかに塵埃を出ず。」と。
それはこの相対世界を超えたものだから。
この人間の人世というのは、また塵の世と書いて、塵世だって言ったりしますね。
「全体はるかに塵埃を出ず。」
本当に唯一のものって、円通自在というものは、この現象世界には無関係のもの、現象を生んだ本源ですから、「誰か払拭の手段を信ぜん。」
別に生命が汚れたからといって、拭かなくちゃならない、きれいにしなくちゃならない、そういうものではない、っていうことです。

 六祖の時のお話ですが、五祖のお弟子の神秀が書いた詩は、「心は明鏡台の如し、時時に勤めて拂拭し、塵埃を有らしめること莫れ」と言って、「明らかな鏡 というものは、埃が積もったらときどき拭かなくちゃならない」と言ったらみんな感心しちゃったんです。
「さすがに神秀上座ほどある」って。

 そしたら今度は、それを見て、後に六祖になった慧能は、米搗きをしていたかたですが、「明鏡台なし」、「とにかく拭く必要はない」って。
「もともと本来、明鏡は明鏡だったから、そういう手段っていうものはない」っていうことを言われたという話があります。
本当にそうなんです。

 「大都、当処を離れず、豈修行 の脚頭を用うる者ならんや。」
どこに修行の場所があるんではない。
今、ここ、というところを離れて、修行の場はないわけです。
どこに行かなくちゃならないとか、修行して全国歩き回ったとか、どこの国まで行ったとか、ってそんなことしてる間に命が果ててしまったら大事(おおごと)ですから。
今、ここで、生活しているその一挙手一投足に、修行っていうものに、全身全霊を打ち込んで、やらなければならない。
それが本当の修行だ、って。そういうこと。

 「然れども、毫釐も差あれば、天地懸に隔 り、違順纔に起れば、紛然として心を失す。」
そういうけれども、本当に一厘一毛ほどの違いがあっても、本当に髪の毛一筋入るほどの隙間が、違いがあっても、もうそれは天と地との隔たりになって、取り返しのつかないことになる、って。

 「違順纔に起れば、紛然として心を失す。」
違順 ですから、違いと、一つに同じることができるものと、相対語になっていますね。
「毫釐も差あれば」っていうのは、相対的な見(けん)を、髪の毛一筋ほどの隙間にでも持つことがあったら、もうそこでダメになってしまう、って。
本当に、唯一の本道というものと惑わしというものが、針の先ほどの違いがあるっていう、そこが危ないことだ、って。

 「直饒い、会に誇り、悟に豊かにして、瞥地の智通を獲、道を得、心を明めて、衝天の志気を挙し、入頭の辺量に逍遥すと雖も、幾んど出身の活路を虧闕す。」
 ここのところは次回に改めて学ぶことにいたしましょう。

○  ○  ○  ○

身心一如なるが故に知行合一たるべし  池部康白

 仏教にも
「行ずれば、証其の中にあり。
未だ嘗て行ぜずして証を得る者を聞かず。
たとい行に頓漸の異あるも、必ず行を待って超証するものなり。」
と云ってあるが、禅定とて、静坐工夫だけで動的な工夫が無ければ、正定とは云えない。

 それも、一口に戒・定・慧と言われておるが、本当の正定は、陽明学の所謂格物致知で、日常生活中の戒に相当する誠意工夫、即ち意念の妄動を省察する意行が最も大事であると云うことがわかるのである。
つまり良心の咎めを都合よく理窟をつけても、正しい定心にはなれないと云うことである。

 この良心の声は、内奥の深処に神格の流れ、即ち神の声として聴くべく観るべく省察すべきものであるから、誠心誠意よほど大切に注意して取り扱う習慣をつけて置かないと遂に知ることは出来ないもので、勿論物に憑かれて物欲の世界にいる餓鬼のような者に知れないのは当然である。
種性邪ならば錯って知解す。
表面だけとり繕うてごまかすような習性の者に、どうして聖なる神の御声が聴こえよう。
見えもせぬのに見えると云い、聞こえもせぬのに聞こえたと云う、他を欺き自らを欺く魔道のたぐい、類念の波動に過ぎないのである。

 物質界を脱したものでないと、自分が自分の主人公となることは出来ない。
慾界、色界、無色界は精神界であって、既に世界を異にしているのに、其処に執するも亦自分の迷いである。


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