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如是
一九七六年(昭和51年)法話 夢窓国師二十三問答(1)  池部素子 2010/04/18

 朝起きて歩くのは、運動のため、健康のためと思って、一所懸命(いっしょうけんめい)走りながら、「健康のためだ、健康のためだ」と思って走ってたらしんどいですわね。走るのは、ある時は苦痛かも知れない。それだけど、「ただ走る」っていうんでしたら、なんともないですわね。子どもなんか、ただ走るでしょうからくたびれないんです。
 「ただする」っていうことは、ほんと手垢(てあか)の付かないことだからね。尊(とうと)いことです。そういう習慣を付けて行くようにして行くといいです。注文があるから、ただできない。文句が出てくる。
 夢窓国師(むそうこくし)「二十三問答」のいちばん始めに、「道心(どうしん)をおこすべき事。」として、「問(と)うて曰(いわ)く、道心(どうしん)をおこすとは如何(いか)なることぞや。」とあります。
 どういうことが道心をおこすということでしょうか、と。
 その答(こたえ)に、「道心は浅いとか深いとかいろいろあるけれど、まあざっと心得(こころえ)なくちゃならないことは、この人世(じんせい)の無常(むじょう)だっていうことをよくわきまえて、名利(みょうり)をすてる心である」と。
 「あさあさと御心得候(おんこころえそうら)わんずるは、世の中の常(つね)なき理(ことわり)を知りて、名利(みょうり)をすつる心也(こころなり)。」と言うてあります。
 「きのうを過ぎし心、ならびにきょうの命(いのち)をもたのまず、入息出息(にょっそくしゅっそく)を待たず、老(お)いたる若きさだめず、有(あ)るはなく、なきはかずそうありさま、さかりなる花のちり、木の葉のおつるにいたるまで、あだなること水の泡(あわ)まぼろしに異(こと)ならず、少しのこる水に魚(うお)のある如(ごと)く、この日すぐれば、命(いのち)も又(また)したがいてつづまるなり。親子夫婦も一つのいききれてのちは、したがいとものうことなし。位(くらい)の高きも宝(たから)の多(おお)きも用(よう)にたつことなく、あしたには紅(くれない)のかおばせありてほこるといえども、夕(ゆう)べには白き骨となる。浮世(うきよ)のよろずの心にまかせぬを、いよいよ佛(ほとけ)の道に入(い)りたると思いとりて、御法(みのり)を信ずるを道心(どうしん)おこすと申(もう)し候(そうろう)。」と言うてあります。ほんとに無常(むじょう)であると。
 親鸞聖人(しんらんしょうにん)の教えを広められた蓮如上人(れんにょしょうにん)の「朝(あした)には紅顔(こうがん)ありて、夕べには白骨となれる身なり。」と御文章(ごぶんしょう)にもある。本当にこの人世(じんせい)っていうのは無常(むじょう)です。
 水野さんのお父さんも亡(な)くなられた。亡くなるっていうことはご自分では、そういう気がなさってたかも知れないけれど、お父さんもそういうことは振り払ってしまいたかったでしょう。「早く暖かくなって元気になって歩かなくちゃいけません。このごろ足が弱りました」って、慧子(さとこ)さんにいつかおっしゃってたそうです。寒いころでした。水野さんに何かの用でお電話したら、お父さんがお出になって、そんなにおっしゃってたそうです。
 ほんとに人間はもう最後の土壇場(どたんば)までは、やっぱり人世(じんせい)っていうものに執着(しゅうじゃく)していますから、もう元気なときから道心というものに、はっきり方向づけて決(き)めとかなくちゃいけない。

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天定(てんさだ)まって人に勝つ 「因果(いんが) の理法(りほう)」  池部康白

 陽明(ようめい)先生の言(げん)に「夫(そ)れ聖人(せいじん)の心は天地万物(ばんぶつ)を以(もっ)て一体(いったい)となす―以(もっ)て其(そ)の万物一体の念を遂(と)げんことを欲(ほっ)せざるなし」とある。つまり、一如(いちにょ)が実相(じっそう)であるから、有我(うが)の利己的物慾を離れた心で、一切(いっさい)に対して親愛の念を持った生活に於(お)いてのみ、神は喜んで自分を表現しようとなさるのだという意味がある。
 本来人間は神の最(もっと)も精巧なる現(あらわ)れで、霊的に意識ある顕現(けんげん)である。従(したが)って、人間には一切の現象を支配する力が与えられて、法則と同時に智慧(ちえ)をもって創造する権威をも与えて置(お)かれたのである。だから人間は自分の自由意志で如何(いか)に生(い)くべきかを省察(しょうさつ)して選択せねばならない。
 霊に生(い)くべきか肉慾に生くべきか、その価値判断は自覚の程度によって定(さだ)まる。若(も)し本当に一如(いちにょ)の実在(じつざい)を大悟(だいご)して体感得道(たいかんとくどう)したら、人に深切(しんせつ)をつくし、一如(いちにょ)に布施(ふせ)するのが最善の道である。またそれが純粋な無我行(むがぎょう)ならば、其(そ)の事(こと)自体(じたい)が神に通ずる祈りともなり、無我愛は神に献げたことにもなるのである。道元禅師(どうげんぜんじ)の所謂(いわゆる)身心脱落(しんじんだつらく)の境涯(きょうがい)こそ正(まさ)に真(しん)の得道(とくどう)である。
 然(しか)し世俗(せぞく)は昔(むかし)も今も変わりは無いようであるが、目前(もくぜん)の人慾(じんよく)にのみ囚(とら)われて、個我保全(こがほぜん)にのみ汲々(きゅうきゅう)として、心体(しんたい)の同然(どうぜん)に復(か)えることなど考える者は全(まった)く稀有(けう)の事(こと)である。
 而(しか)も、心の法則、即(すなわ)ち因果(いんが)の理法(りほう)さえも知らず、我慾(がよく)によって一時的には自分の都合(つごう)の良いように自然力をかき乱(みだ)して得意(とくい)がっている者も、「天定(てんさだ)まって人に勝つ」。やがて、もと通(どお)りの力の平衡(へいこう)をとりもどすからあわれである。

一九七六年(昭和51年)法話 大智禅師仮名法語(11) 池部素子 2010/04/16

 「難(むずか)しいんだなあ」と思うけれど、別にわかって坐(すわ)って見たら難(むずか)しいことはない。妄想(もうぞう)をやめたらよろしいんでしょ。妄想をやめて坐(すわ)ってたらよろしいんです。
 それだけど、妄想をやめて坐(すわ)ってたら、ぼつぼつ眠(ねむ)くなってきた。どうにもならない。手をひねってみても、足をひねってみても、眠たい眠たい、で一時間暮(く)れた、って。それじゃ妄想(もうぞう)の連続ですから、その眠気(ねむけ)を克服して行かなくちゃならない。坐ってる間は、いつもハッキリ覚(さ)めてなくちゃいけないんです。でも、眠いっていうのは、自分の無明(むみょう)の闇(やみ)がまだ覚(さ)めないから、起きて来るんだから、何とか克服して、いつでも坐った始めに、ハッキリ五月の空のように晴(は)れ晴(ば)れと、どこまでも限りなく、自分は覚めてなくちゃいけない。そういう姿勢で坐らなければいけない。そして、何も思わない。妄想しない。
 妄想しないと言っても、今どこか下の方で材木をギーギーいわせて電気カンナか何かかけてる、やかましいなあ、って。それが耳に入って来る。この前の時は、食用蛙(しょくようがえる) か蝦蟇蛙(がまがえる)が三匹か四匹か数えてわかる、って。「あっちで鳴いてる、こっちで鳴いてる。やかましくて坐禅の間じゅうやかましかった」っておっしゃってたけれど。ほんとやかましいです。それが聞こえないのがいいんだったら、「坐禅するときは耳に栓(せん)をするべし」とでも言われるでしょうけれど、そんなこと言ってないですわね。聞こえてこなかったらツンボです。聞こえて当(あ)たり前なんです。
 「それじゃどうしたらいいか」って。握(にぎ)らないことです。耳に入ってくるから、それが生きてる証拠なんだから有(あ)り難(がた)い。聞こえるのは有り難いんです。有り難いけれど、「ああ有り難い。聞こえてくる。いくつ鳴いてる。あ、また一つ増えたな」では、妄想を追ってることなんです。聞こえるけど、相手にしないということ。それが、この現象の一切(いっさい)を握(にぎ)らないで生活できるようになる。坐禅はそれを身につける姿勢です。
 一切を握らなくなる。ただ、中からの催(もよお)しのままに、ひとりでに、良いふうに思いつかされ、言わされ、行(ぎょう)じさせられてくるようになって行きますから。自然とそういう気がしてくる。
 気がしてくるというのは、だれでもそういうことは、経験としてありますね。ひょっと、こう何か話してるときでも、「あ、あのこと」と思って、大変良いことを思う。そのとき、ちょっと書き留(と)めておくか、あるいは言うかすればよかったんだけど、話してるから忘れてしまう。後日(ごじつ)になって、「ああ、あの時ああしとけばよかった」なんて思うことがよくありますね。そういうふうに、話していない時でも、道歩いてても、ひょっと思ったりいろいろしますね。「ひょっと」っていう、そういうところに、あぶくのようにポカッと出てくるのが大変良いことがある。それは必ず無心の時です。それで朝の散歩が良いなんていうのは、起きて、ちゃんと顔洗ってから、無心で散歩しましょ? 無心が良い、っていうわけです。そうするとその時に潜在意識から良いものが出てくる。まだ雑念が入って行かないから。

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異状現象(いじょうげんしょう)は魔道(まどう)に多い。「人は心霊(しんれい)だ」
池部康白

 万物(ばんぶつ)の霊長(れいちょう)としての人間の権威は、生活の種々様々(しゅじゅさまざま)な体験によって獲得(かくとく)した真智(しんち)により、意識的に肉体の人慾(じんよく)・我意(がい)を統制し、霊としての自覚に進歩向上せねば価値が無いように出来ている。
 従って、体験の意義も知らず、悟(さと)らず、つまり、内在本心(ないざいほんしん)なる観世音(かんぜおん)の説法(せっぽう)・教訓を反省することも無ければ、幾度(いくど)でも生まれかわりを繰り返す以外に、佛の智慧(ちえ)を得(う)る方法は無いのである。低劣(ていれつ)な人格は霊の程度である、と知った。
 憑霊(ひょうれい)をもって病気を直したり、透視(とうし)・千里眼(せんりがん)によって予告したり、予言したりするのを、聖なる霊覚ででもあるように思っているのは、世俗に尊(とうと)ばれるからという人慾(じんよく)・名利(みょうり)に憑(つ)かれている邪道(じゃどう)である。未(ま)だ物慾(ぶつよく)に昏蔽(こんぺい)せられて、純(じゅん)ならざる者である。
 キリストは云(い)われた、「吾(われ)みずから何事も為(な)し能(あた)わず。天なる父、吾(われ)に在(いま)して、御業(みわざ)をなさしめ給(たも)うなり」と。
 此処(ここ)には完全なる「我意(がい)」の粉砕(ふんさい)があって、しかる後(のち)にはじめて神意(しんい)を伝え、各人に宿る神性(しんせい)・佛性(ぶっしょう)を自覚せしむる大業(たいぎょう)−最(もっと)も偉大なるわざが成就(じょうじゅ)されるのである。
 陽明(ようめい)先生も、「斯人(このひと)、禽獣(きんじゅう)・夷狄(いてき)に沈みて、而(しか)して猶(なお)自(みずか)ら以(もっ)て聖人の学(がく)となさんとす」と云(い)っておられる。
 案(あん)ずるに、憑霊(ひょうれい)は遂(つい)に禽獣(きんじゅう)の類(たぐい)たるを知る。其(そ)の人格の卑賎(ひせん)・粗野(そや)にして、且(か)つ我欲(がよく)にほこり、傲慢(ごうまん)なるを観察すれば、所詮(しょせん)、聞法(もんぽう)暫時(ざんじ)明(あきら)らかなりと雖(いえど)も、ついに我慾(がよく)不解(ふげ)、今生(こんじょう)に救いなき者たらん。


一九七六年(昭和51年)法話 大智禅師仮名法語 (十) 池部素子 2010/04/16

 「人間の欲というのは、はかないものだ」っていう無常心(むじょうしん)が起きてきたときには、もう一つ上のものに、人間は取り付きたくなってくる。そのときに、自然と、こういった道から招(まね)かれるわけです。
 中の、私を生かしてらっしゃる、宇宙いっぱいの光と同質同根(どうしつどうこん)のもの、それがここに宿っている。それが宿っているというより、それが一個の体(たい)を持ったわけです。その生命がここに体(たい)というものを持った。それが心なんです。
 この宇宙いっぱいイケイケのものは、心なんだから。大心(だいしん)・大きな心と言うてあります。
 その大心(だいしん)がここに生きて働いていてくださる。その大心と、この中にある心。
 「ここにあるから『小心(しょうしん)』て言うた方がいいんじゃないか」ってそんな遠慮することはいらない。坐禅から、「本当に、ああ、そうだ」って頷(うなず)きができたら、「なるほど、これは大心(だいしん)だ」ってことがわかります。「有()り難(がた)い」ということが。「ああ、これが大心なんだ。自分はえらくなった。宇宙いっぱいなんだ」なんて、そういうことは思わないです。
 ほんと、何とも言われない、なみだが出るような、有り難い感じがして、「実(げ)にも大心なるかな。これを、この身のある有り難さで知らされた」っていう、そういう感じがしてきて、何とも言われない。そして、それを生きないではいられないような感じが、あらゆる出合いに湧(わ)いてくるわけです。何に出合っても。
 そして、「相手のために、相手の成道(じょうどう)のために、私が少しでも支(ささ)えになることができましたら。何かすることがありましたら」っていう、そういう生活の姿勢で人生が送れるようになってくる。
 「自分はりっぱな学者になったんだから、えらくなってみんなの上に立って、指導者にならなくちゃ」なんていった、そういうようなのは、まだちっぽけな、この世だけの沙汰(さた)だけれど。
 「ほんとにみんな一つだ」っていう意識が、そういう有り難いところに働くようになってくる。それだから、もうこの人世(じんせい)に無常(むじょう)を感じるようになると、道心(どうしん)というものが起きてくるわけです。「この全世界を平定(へいてい)したい」なんていうても、まだそれは欲心(よくしん)ですから。死んだら終(しま)いのものだから。死んでも終(しま)いにならないものが大切です。
 「そんなら、死んだ方がもう早く片(かた)が付いていいだろう」ってなもんですけれど、そうではない。「死んだら片が付くだろう」っていうのは、「生き死に」っていうことを認めての所作(しょさ)だから、ダメなんです。死んだら地獄へ行かんならん。自分で自分を殺しても「人殺し」ですから。「地獄の罪に問(と)われる」と言うてありますから。
 それだから、ほんと、抜き差(さ)しならない、ギリギリの問題です。この時空(じくう)世界の相対を、一切(いっさい)、微塵(みじん)も残さないで超脱(ちょうだつ)しなくちゃいけない。

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心は佛子(ぶっし)で観世音(かんぜおん) は法則である
池部康白

 理(ことば) (法則)は神だというが、人間の本心は神であるから、即(すなわ)ち心は理(ことば)であると云(い)うので、自分の心が法則そのものである。
 世の中で成功している人は、必ずこの法則に従って与えて与えられた者に相違ないのである。それは、所謂(いわゆる)世の信心が有るとか無いとか、又、道徳家だとか不道徳だとかの善悪の問題とは別であって、その人の心の法則と天理(てんり)とが合致(がっち)した結果に違(ちが)いないのである。
 これは、物心(ぶっしん)の道理(どうり)一如(いちにょ)からそう成(な)るので、陽明(ようめい)先生も「夫(そ)れ物理(ぶつり)は吾(わ)が心に外(ほか)ならず、吾(わ)が心を外(ほか)にして物理を求むれば、物理無し」と云(い)っておられるが、此(こ)の道理(どうり)から考察すれば、一切(いっさい)は唯心所現(ゆいしんしょげん)である。
 従って、自分は神の子である、天子(てんし)であると、心にハッキリ自覚した常念(じょうねん)を受持(じゅじ)しておれば、心に信じている姿が「類(るい)をもって集まる」と云(い)う心の法則にしたがって、神性(しんせい)が開顕(かいけん)するのも亦(また)道理(どうり)である。
 この肉体にあらざる主人公「人間そのもの」にとっては、食慾も性慾も、すべての人(じんよく)は必要ではなく、寧(むし)ろ邪魔(じゃま)になるものであるから、「人慾を去って天理存(そん)す」とも云(い)うので、自分の本心そのものが法則であるから、自分のこころが他(た)に対して怒りや憎しみをもつことは、一如(いちにょ)なる真理と自分とを隔(へだ)てる最(もっと)も大きな障(さわ)りともなるのである。故(ゆえ)に、人の悪(あく)は忘れ去るのが自分のためになる。
 人間生活の体験は、如何(いか)なるものでも教訓が示されていないものは無いが、それを省察(しょうさつ)することも出来(でき)ない者は、幾度(いくど)でも転生(てんしょう)して同じ体験をするほか仕方(しかた)ないのである。

一九七六年(昭和五十一年)法話 大智禅師仮名法語(九) 池部素子 2010/04/15

 今朝(けさ)富美(ふみ)さんに乗せていただいて車でここへ寄せていただく道道(みちみち)、感じたこと。
 前の月の接心(せっしん)の時寄せていただいて、それからどこへも出てない。本当に一年に十遍(ぺん)出るでしょうか出ないでしょうかね、それくらいより出かけないから、まあ、今朝はものすごい美しい新緑(しんりょく)をひしひしと感じました。「まあ、きれいね」って言って。
 何とも言われない、その緑の色がまた千差万別(せんさばんべつ)で、その綾(あや)の美しいこと。本当に、そういうものを予期しないでパッと見たときの美しさ。そういったものはそこに何も混(ま)ざり気(け)がないから。こっちで要求するものもなし、向こうは見せかけもなし、そういう出合いが、りっぱな絵画とか、彫 刻とか、芸術品なんかとの出合いにも感じるわけです。
 その作者っていうのが、ただ無心でそういうものを描(か)きたいから描いたというだけの話。「これを描いて金儲(かねもう)けをしてやろう」とか、「ひとつ有名になってやろう」なんて思っては描かないから。そういう気で描いた人の絵は、たとえ、今有名人と言われている明治大正の人の絵でも、みんな品(ひん)がないです。
 鉄斎(てっさい)さんの絵なんていうと、ほんと、ただ墨(すみ)をぶつけたように描いてあっても、見た瞬間にハッと思って、こちらが立ちすくむほど打たれる真実なものがありますけれど、鉄斎さんの絵が有名だからって、あの方の絵を真似(まね)て描いた絵描(えか)きさんがあります。その人の絵を見ると、何だか衒(てら)っているような「金臭(かねくさ)い」感じがする。品(ひん)というものがないです。
 そこに、人間は求めるものがあると、品がないわけです。自然と、生命さながらのものが出てきた、それが品ですから。品は付けられるものでない。内からのものだから。それで、人間にしろ芸術品にしろ、いいものは、生命そのものの言われないいいものが、そこに湧(わ)き出している姿だから。それでお互いが、それとそれの通(かよ)い合いということになってきて、能(え)も言われないという、そういうものなんです。
 この夢窓国師(みそうこくし)の道(どう)に対して言われてくる、心っていう、そこから始めて書いていらっしゃる。これは「問答」ですから、聞いて答えていらっしゃる、そういう体裁(ていさい)にして、言われてあります。

 この鎌倉時代には、学問ていうのは、所謂(いわゆる)武士とか僧侶(そうりょ)とかそういった、ある特殊階級の人だけのものだったから、一般にはみんな無知でした。そういう階級にあっても、女の人なんかは、ただ「手を習(なら)い給(たま)え」とか、それから「恥ずかしくないように歌を詠(よ)め」とか言われて、限った学問よりさせられていなかった。で、そういう人のために仮名(かな)で書いてあるから、それで「仮名法語」というのができたわけです。
 ここには「二十三の問答」で、いちばんはじめに、やっぱり「無上菩提心(むじょうぼだいしん)を発(おこ)せ」ということが言われてあります。

○  ○  ○  ○

熱情至誠(ねつじょうしせい)に神は応現(おうげん)し給(たも)う
    「自主」
池部康白

 環境や境遇と自分を関係づけるものは、自分の思いと感じだけである。だから、それに囚(とら)われている間は、神を放(はな)れ、実相(じっそう)を忘れているのである。
 それだから、また人間はいろんな物事に怯(おび)え、おそれる。貧乏、病気、災難、失敗、死などなど。これらは皆(みな)我意我慾(がいがよく)から起こる妄想(もうぞう)でしかない。従って、この我慾(がよく)を捨離(しゃり)しないままでは、本具(ほんぐ)の生命力(本心霊明(ほんしんれいみょう))が自由自在に活動しては呉(く)れない。
 この生ける本心こそ神霊、佛性(ぶっしょう)であって、全智全能の如来(にょらい)さまであり、天の父なる神である。故(ゆえ)にこの主人公本心に一切(いっさい)委(まか)せて捨て身でゆけば、その無我(むが)の働きが人間を仕合(しあ)わせにするのである。
 本来すべては神のもので、我(われ)も無く、我(わ)がものも無い。この生きた神を信心するのが真人(しんじん)である。
 其(そ)の他(ほか)の何物をも信ぜず、自分も無く、天も無く、地も無く、世間の所謂(いわゆる)神も道も何も無い、ただ、ここに生きていますいのちを信じて拝むのである。
 しかし人間は肉体を自分だと思って、肉体の慾だけに奉仕してきた習慣から、たやすくは悟(さと)れもせず、業障(ごっしょう)で清浄心(しょうじょうしん)も見えないために信ずることも出来にくい。従って、相変(あいか)わらず完全は不完全なまま業障(ごっしょう)は増(ま)すばかりで、輪廻転生(りんねてんしょう)何時(いつ)はてるとも知れないのである。
 故(ゆえ)に求道(ぐどう)には必ず熱情を要する。熱情こそ天地を動かすほどの誠意であって、熱血沸(わ)きあがる至誠(しせい)にのみ奇蹟(きせき)を生(しょう)ずるのである。熱心、熱情の上に、神は顕現(けんげん)し給(たも)うのである。


一九七六年(昭和51年)法話 大智禅師仮名法語 (8) 池部素子 2010/03/23

 そういうふうに前の経験が今度の出合いで、またそこに結果としてそれを求めていっそう欲が深くなって行く。そして、この人世(じんせい)というものが限りなく展転(てんでん)して、「展転相続(てんでんそうぞく)」と言いますが、ちょうど人間の相続といっしょ。親から子、子から孫へ、欲から欲にだんだんふくらんで行く。
 そして地獄の底まで堕(お)ち、餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)に生まれ、限りない経験を経(へ)て、そしてもう人世(じんせい)も飽(あ)き飽(あ)きしたというところまで、限りなくふくらんで行くわけです。
 それを貯(た)めておくのが潜在(せんざい)意識。その潜在意識は人間の生き死にに関係ない。この身心を生んで行く種になるものですから。根本意識です。
 唯一(ゆいいつ)のものがこの現象の光そのものです。宇宙一(ひと)続きになってあるものです。毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)、光明遍照(こうみょうへんじょう)と言ってある。そういう光です。
 ちょうどたとえて言うたら、毘盧遮那(びるしゃな)、それは太陽の義(ぎ)であると言うてある。たとえて言うたら、この地上では太陽のことだ、って。太陽が一切(いっさい)を明るく照らして、在(あ)らしめている。光と影の美しさ、ってありますね。
 このごろは緑のどんどん育って行く中に、上から太陽が照り、青空があり、そして下には大地に美しい影が投(とう)じられている。影さえも美しいでしょ。
 その影に、人間の作った妄想(もうぞう)・雑念(ざつねん)というものが入ってないから美しいのです。生命そのものが生んだもの。草木(くさき)には、好きだ、きらいだ、というような念(ねん)はありませんわね。
 「こんなところに種を落としてくれたもんだから、私は一本の小さなスミレに生まれてきたけれど、他の草たちの茂ってる下の方で、日陰(ひかげ)の一生を終わらなくちゃならない」って、なみだこぼしてるスミレの花もないし、また日向(ひなた)でもって、のさばって大きくなって、あとはみんなその陰(かげ)になっていてもおかまいなし、って。それは人間の見ることです。
 まあ、たとえたら、そこに一本の大きなりっぱに茂ったナスビがあるとしますわね。でもナスビは別に、その下の方でチョロチョロと生えてる草に、いばってもいなければ、草は文句も言うていない。みんな置かれた場所で精一杯(せいいっぱい)咲いているだけの話。水くれなかったら、仕方がない、黙って枯れて行くだけの話。念(ねん)というものを持たないから、言い張(は)る我(が)というものがないでしょ。我(が)というものがない世界だから、本当にこのごろの五月っていうのは、光と影の綾(あや)でも美しい。

○  ○  ○  ○

個(こ)の清浄心(しょうじょうしん)と宇宙真心(うちゅうしんしん)と符合(ふごう)す(その2)

            池部康白

 禅定(ぜんじょう)に於(お)いては、意根(いこん)を坐断(ざだん)して知解(ちげ)の路(みち)に向かわざらしめる。
 真実五蘊(ごうん)の繋縛(けばく)を離れたら、忽然(こつねん)として見神(けんしん)するだろう。
 而(しか)も多数の行者(ぎょうじゃ)は、唯(ただ)暫(しばら)くの間も吾我(ごが)を忘れず、なお無常(むじょう)をさえ観(かん)ぜず、却(かえ)って名利(みょうり)のために得道(とうどう)しようと行(ぎょう)ずる。何の益(えき)があろう。個別(こべつ)の見(けん)を以(もっ)て、我(が)は(な)無いという真理に気も付かず過(す)ごせば、また輪廻流転(りんねるてん)をくり返すのみである。
 陽明(ようめい)先生も云(い)う、「人生の大病(たいびょう)、只是一(ただこれひとつ)の傲(ごう)の字(じ)」と。
傲慢(ごうまん)とか倨傲(きょごう)とかいう慢心(まんしん)のたかぶるこころは、差別相(しゃべつそう)を解脱(げだつ)できない我意妄念(がいもうねん)にほかならない。有我染著(うがぜんじゃく)の憑依(ひょうい)と何の異(こと)なるところもない。友としては不信の人である。
 故(ゆえ)に先生亦(また)曰(いわ)く、「只是一(ただこれひとつ)の無我(むが)のみ。胸中(きょうちゅう)切(せつ)に有(あ)るべからず。有(あ)れば即(すなわ) ち傲(ごう)なり。古先聖人(こせんせいじん)あまたの好處(こうしょ)もまた、只是(ただこれ)我無(われな)きのみ。我無(われな)ければ自(おの)ずからよくへりくだる。へりくだるは衆善(しゅぜん)の基(もと)。傲(ごう)は衆悪(しゅあく)の魁(かい)なり」と。
 それ故(ゆえ)に、われ道中(どうちゅう)にありて親近(しんごん)すべからず、と注意しつつあり。世俗(せぞく)に騒(さわ)ぐ金財(きんざい)の如(ごと)きも、他(た)の為(ため)になることを余計(よけい)にすればするほど、一層(いっそう)多く廻(まわ)って来るものなり。
 内観(ないかん)に徹(てっ)すれば、見よ、困ったとか情けないとか、怯(おび)えおそれる念(ねん)も人慾我意(じんよくがい)で、元(もと)を調べると慾(よく)がさせる仕業(しわざ)である。結局我(が)の思いだけのことであるから、我欲(がよく)の自分本位(じぶんほんい)な奴(やつ)を捨(す)て切ってみると、本来の自分とは無関係で、只(ただ)感じただけのものと分(わ)かる。
 従って、所詮(しょせん)は我(が)に死ぬる道をぬきにしては助からぬのが人間である、と知った。

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