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如是
一九七九年(昭和五四年)法話(十一)生命が生命に伝える 池部素子 2008/11/30

 みんな人柄の雰囲気っていうのがありますね。本当に優しい雰囲気の人がある。それから、がさがさした人がある。怖い人がある。人によって、いろいろな雰囲気がありますね。それはみんなその人の、真理をどの程度現して生きているかっていうことが、人間、ちゃんと、もう看板上がっているわけなんです。
 それで、そういうところで、やっぱり真理を学び、生活している方。みなさんでも、ほんと、だんだんお付き合いさせていただくほど、お変わりになってきているのがわかります。
 親が、子どもなんか、小さい赤ちゃんに「いいお顔してごらん」て言いますわね。そうすると、目を細くしてニコーっとして、いいお顔して見せてくれますわね。大人のいいお顔っていうのは、真理がにじみでて来ている顔です。それの象徴が、子どもに「いいお顔してごらん」て言うことになる。
 じっと考えていると、この世のことは全部何もかも真理が語られているわけなんです。そこをだんだん気をつけて行くようになりますと、一切の出来事がこれ、真理を物語られているから。
 またいつか観音経のお話をいっしょに読ませていただきたいと思いますけど。観音経にはそういうことが書いてあります。真理は、生活にみんな出てくるものだ、って。この人世は一切がこれ観音様のお説法だ、って。
 だれかに道で出合ったとします。人間は、その時ただ出合った、で過ぎますわね。それだけど、そこを、どういう意味だろうか、って思ってみると何かあるはずです。みんな意味があるから。
 「そんなこというと一日中どんな意味だろうか、ってばっかり考えて暮らさんならんか」って。そんなもんではない。やっぱり何か心にとまってひょっと気になったようなことが、どういう意味だろうかと考えてみると「あ、そうそう。あのかたにあんなことを言おうと思ってたのを忘れていたっけ」なんて言って、あとから気が付くことありますわね。
 いろんな出来事で、みんないろんな意味がある。全部真理を語られている。この現象はこれ全部言葉なんです。言葉っていうのは、口から出るものがここを伝わって、そして耳に入るでしょ。そうすると、見えないこの空間に、伝えるものが何かあるわけですわね。これが真空だったら伝わらないでしょ。
 「そりゃ、空気があるもん」て思うか知れないけど、それだけではないですわね。その空気を吸うて生きて行けるっていうのが何か、っていうことを考えなきゃいけません。いろいろ考えたら、空気もそうお安い解釈はできないわけです。
 その空気をあらしめている本体は何だろうか。ここに生命がなかったら、空気というものも必要ないでしょう。人間が生きている、草木が生きている、一切がこれ生きているから、生命の力で支えられて、ここにこうしていられる。そしたら、それがなかったら、伝わらないわけ。生命が、生命に伝える道行きなんです。


○  ○  ○  ○


神こそ自分なるものの本体

池部康白

 一切如来神通の御力である。渾一の世界であるから、神力は人力と別にあるように思うていては、憑霊現象 以外に神力は現れもしなし、また○(判読不能・「戴」か?)けもしない。
 元々自分と云い、自分の力というものも、皆神の御力であることが常念不断の信仰となれば、自分の働きに神の働きが現象して来るのである。キリストが「神の国は汝らのうちにあり」と教えられたのは、この真理であって、神を離れて自分が拝むのだ、自分が信ずるのだ、というような信心では、行き詰まる時が来るのである。
 本来無我で、自分と云うものは別に有りはしない。陽明の有名な四句教にも「無善無悪は是心の体」とあるが、善悪も清濁も悉くを包んで、滔々として行われる生命の流れを観ることが出来るなら、一切如来神通の力と知って、これから一切他人の悪は言わぬと覚悟決心して、そのまま実行すれば、此の流れと信念の波長が合うためであろうか、ともかく屹度その者の運がよくなるのである。これは一如実相大調和と信ずる念の現象かとも考えられる。
 結局 内観して、自分の意を誠にするのが、悟りに到る最初で同時に最後でもある。
 始めは、意念の善悪を計る心が向上心と思われるが、後日精進の結果には、自分の計らいは絶対に無用となって、神、如来のお計らいを内観にとらえたら、やがて内観も消えて、行雲流水のように安らかな信心に、独立自主が生まれるのである。

一九七九年(昭和五四年)法話(十)慈悲心 池部素子 2008/11/30

 何でも生命というのは、生きてるものです。死んでないんです。永遠に生きているもの。生き通しのもの。生き通しだから新しいんです。真理は、年取るっていうことがない。それだから、七千年、八千年、もっと古いかもしれない。
 聖書なんかでも、旧約の初めを開けてみても、この天地がどうして創られたかっていうことが書いてある。七、八千年前にも、まことに新しい神の言だったでしょ。今見ても同じことです。また、仏典でもそう。ほんと新鮮な、いつ読んでも、「もうこれは三べん読んで堪能した。もう古くさい」っていうことはありません。三遍読んでも百遍読んでも、感銘がなければならない。
 そしてそれが自分の生活になって来ないと。それが生活になって来たとき初めて、その慈悲心ということで、「ああ、私はあの人にちょっと親切が足らなかった」なんて言って、よく後悔することがありますね。「もうちょっとあの時あんなに言って上げたらよかったかもしれない」なんて思いますわね。それだけど、本当に慈悲に徹底してくると、そういうところも、だんだん心が深くなってくるから。そうすると、楽になってくるわけです。初めは、慈悲っていう言葉を覚えたときには、それを使って生活の中で生かして行くのに、努力しなければなりません。
 親戚の叔母が生きていたとき、来て、言ってましたけど、お嫁さんていうのが、苦労無しに育ってきたお嬢さんだもんで、物の有難味っていうのを知らないんですって。昔の人は何でも有り難く思ってましたが、それ有難味を知らないもんだから、まあお茶碗でも粗末にするんですって。お勝手では、いつもガラガラガチャンていう音ばかりがするんですって。もう音のしない日がないくらいだって。何を気に入らないのかと思って、言うと、何にも気に入らないんじゃない。物を置くのに、あの頃はまだお釜さんでしたから、お釜の蓋はこうなってますわね。その上に洗い桶が、濯いで伏せる篭が乗せてあるんですって。そうすると、篭ですから、片一方へ寄ったらひっくり返りますわね。それお構いなしに、洗って、上げて、伏せて、やってるから、そのうちにガチャンとひっくり返って、全部がこなごなになったり。それから、一つ置くいうたら、お釜さんの蓋の上の横ちょのほうへ置くから、落ちてしまいましょ。
 そんなにして、まことに物に対しての慈悲心が足りないわけです。「それで、言うんですけど」って。「言うっていっても、そう三百六十五日言われないから、何遍か言うけど、もう何遍か言うてわからないんだったらしかたがないから、ほうってある」って。「そうすると同じことやってます」ってね。それでは、慈悲心って言葉知ってるだけで、行いにならないでしょ。そうすると慈悲が生きてこない。
 お茶碗一つに対してでも、そんな思いやりのないことだったら、人間は「一事が万事」っていうことがありますから、そういうところでその人の人柄が、今度は見えてきましょう。

○  ○  ○  ○

おかげの此の身 「人意と根本の心霊」

池部康白

 人間としては、七情 の喜・怒・哀・懼・愛・悪・欲があるのが当たり前ではあるけれど、是は人意であるから、斯うした我慾をそのままに、念力を知れば、わが念力だと思う。この人の心境は、却って陰転しはじむると云われている。
 それ故、求道上 気をつけねばならぬことは、自分の感情・思想・言語・行動のすべてを、斯ういう我慾の卑しい本能を捨てて、内在の主人公たる神を愛し、人間に奉仕する誠意を持つべきである。
 人間が肉体だけの生活では、単に動物的であって、生存価値は極めて少ない。
 「真理は汝らを自由ならしめん」とキリストは云われたが、実際、真理なる生命を志す者にのみ、価値ある生活と、仕事の完成がある。
 偉大なる人格には、寛容なる精神と、而も厳粛に自分自身を胡麻化さない峻厳さがある。本当に真理がわかったら、自然と斯ういう風に生活も思想も、遂には感情も変わってくるもので、変わらないのは真実わかっておらぬからである。絶対唯一の実在である生命渾一の世界に気付くと、すべてに格段の差異が生じて、質的に違って来る。信心というのでも、神、佛如来を外に求めて、宮、寺に参拝し、其処を動かない拠り所 と思っていては助からなかったが、生命が信心という調子になって素直に流れている。
 信心は、生きた心が道に基づき、法則に順じて働きをして行く、その心持ちを名づけて信心と云う。従って、神は生き動き、自分の働きの中に感ぜられると、おかげが分かるのである。


1979年(昭和54年)法話(9) 2008/10/01

愛を生活する

         池部素子

 それでお経文(きょうもん)にも、「この経文の一字一句、たった一つの文字、一節の文句、それがわかったら、悟りが開ける」と書いてあるんです。
 七面山あたりに詣(まい)る方(かた)なんかの声を、あっちの家で聞いてたら、家の横を通って、上へ登りがけのときには、神信心をするような人は、上から神さんが見てはるような気がしてるんでしょ。
 神様の前へ行ったら、殊勝(しゅしょう)な声を出して、みんな作り声みたいな、ほんとに神様に気に入られたいようなものの言い方して拝んでるでしょ。ふだんみんなと話すのとは違った、やっぱりそういう声で、「南無妙法蓮華経(なんみょうほうれんげきょう)」って言ってお辞儀(じぎ)しながら、上がって行きはりますわ。何人いてもそんなにして「これからお詣りさせていただきます」というような調子で。すると、上から「おお、よう来た。なかなか殊勝(しゅしょう)なかっこうをして登って来るな」って言って、神さんが見てはるような気がしてるんでしょう。
 それから今度は拝んで下りて来るときは、もう手を振り、体をあっちに向けこっちに向けして、隣の人、後ろの人と、大きな声で、「だれそれさんは、なんとかのなんとかを、どうとかした」とか、いろんなそういったうわさ話だの悪口だの言いながら下りて来るんです。もうほんとに「南無妙法蓮華経なんていうのはくそ食らえ」っていったような態度。もう後ろ向いた時には忘れてしまって、前へ行った時だけです。それでは何にもならない。業(ごう)作りです。
 「一字一句をも解説(げせつ)し」っていうのはどういう意味でしょうか。もしそこに愛という言葉、慈悲という言葉があるとしますね。慈悲という言葉があったら、「お慈悲というのは、どういうことなんだろうか。」それをよくかみしめて、人に対して愛の心、慈悲の心を向けて生活する。それが出来るようになってこなければ。ただ、慈悲という言葉がそこにあって、「あ、お慈悲ってわかりました。」それでは真理にならない。そして自分の魂も飛躍しないですから。生活になってこなければ。
 この一個のおちゃわんを大切に取り扱う。これもおちゃわんへの慈悲心でしょ。「こんな土でこさえたもの、買うんだったら、十円玉一つあったら買えるんだ。割れたって、瀬戸もん屋へ行ったら、替(か)えはいくらでもある」なんて言うのでは、まことに無慈悲ですわね。慈悲という言葉を覚えたら、「自分がこれに縁があったら、自分が生きている間いつまでも、やっぱり大切に、これを使わせていただきたい」という、そういう愛念(あいねん)でもって扱って行かなければ。それで慈悲という言葉が生きてくるわけです。

○  ○  ○  ○

本心の霊明(れいみょう)を見んかな 今生(こんじょう)に
池部康白

 本心の光明上に、毫髪(ごうはつ)の人慾も無いならば、人間の良心はもともと天地の心で、霊智無量光佛(れいちむりょうこうぶつ)、即(すなわ)ち父なる神であるから、全智全能であり、完全無上の妙不可思議光(みょうふかしぎこう)の大智慧(だいちえ)である。
 陽明先生も、これを太陽にたとえて、「太陽は、未(いま)だ物を照らすに心なくして、而(しか)も自(みずか)ら物として照らさざることないように、良知なる人間の本心は、知ることなくして知らざることなし」と言っている。
 釈尊(しゃくそん)も、「佛の一切智は、量(はか)るべきこと難(かた)し」と云(い)っておられるが、自分なるものの本体実相は、この通り偉大なものである。
 その大智のうちから、漸(ようや)く法則の一端を道しるべとして、人生如何(いか)に活(い)くべきかを学んでいるのが自分である。これからは、此(こ)の法則によって、自分自身のためには興味と満足とをもたらし、又世間全般に対しては幸福と調和を与えるような仕事を、何か独特な方法でやりたいものである。
 聖人は云っている。誰にでも人間には神性・佛性(ぶっしょう)が宿っている。天才や真人(しんじん)・覚者(かくしゃ)は、この内在本心を開発しただけの人達である。何と真理は明白簡易なものではないかと。
 実際、宗教の定義はこの内在本心の声でわかるものだ。それは、自分自身に対する義務・負債と、生命(神・佛)及び人類同胞に対する関係を教えるもので、今日の寺や神社に宗教は無いものである。そんなものに要(よう)は無い。
 凝念(ぎょうねん)の力を実現して、神力を悟了(ごりょう)することが大切である。 而(しか)も今生(こんじょう)に。

1979年(昭和54年)法話(8) 2008/10/01

世法の中に仏法はない

         池部素子

 こないだもそういう子があって、私がジーッと観察してたら、親への反抗です。親は、勉強させて、自分たちよりりっぱな者にしようと思います。そしたら、兄弟があって、下の子のほうが機転が利いてるから、親にしたら、おっとりしてる上の子より、気の利いた下の子のほうがかしこいと思ってしまって、下ばっかりだいじにするから、上の子がその反抗で親の言うこと聞かなくなってくる。そして、「もう勉強みたいなめんどくさいものはいやだ」ってことになってくる。そして、することなすことが、親が気に入らない。けんかばかりしている。それでだんだん悪いことになってゆく。
 みんな、生まれてからの姿勢が、そういうふうになってゆくんです。それだから、いつでも人間は、相手のことを考えて物事を思ってやり、言うてやり、してやる。
 人間みんな思うでしょ。思いが根本にあって、そしてそれを言いますわね。形でやりますでしょ。「あ、ちょっとのどが渇いてきた」と思ったら、「お茶をいただこうか」と思いますわね。
 いろんな余談がたくさんになりますけど。
 この世は、人間のおもわくで生きるところではない。中からの、生まれたままの美しいもの、それが生活しているところ。それを、「世法の中には仏法はない」って言われたことがありますね。この人世生活の姿の中には、仏法というものはないわけです。人とのやりとりの話なんだから。そのやりとり世界では、そろばん勘定ばかりが働いていましょう。おじぎ一つにしたってそうですわね。物言いにしても、何でもが。
 それだから、世法そのものと仏法とは関係ないわけです。また、仏法の中には世法は織り込んではないんです。ただ仏法ぎりの仏法があるだけ。それがこの地上のあり方、行き方だって言うんです。
 それを、みんな、世法の中に仏法っていうものを聞いて、ちっとばかりアタマの知恵にして、それをチャンポンにして行く。それが宗教生活だと思っている。いろいろお説教を聞くとか、講演を聞くとか、いい話を聞く、読む。それは、この地上の生活をちょっとでもマシなものにするっていう、それだけのことで、やってるわけです。それだけど、本当はそうではない。ここは仏法だけが生きて行くところ。
 まあ、日本人ですから、仏法と言ったらいちばん親しいですわね。欧米の人だったら、キリスト教と言うかも知れない。みんな国々によって言い方が違いますけれど。中国では孔孟の教えと言うでしょうしね。いろいろそんなふうに違いがあるけれど、真理の勉強っていうのは、そういう意味でやっていかなければいけない。
 真理のお話を初めに聞きますわね。やっぱり、聞くというのは、この身と心とのうちの、この心でもって聞きますね。そして聞いただけでは、何にもならないんです。ただ脳味噌の肥やしになるだけ。ちっとばかり、その人の理屈がふえるだけです。そこでとめといたんじゃあ、今度は人を批判する「ものさし」になるだけ。それが行いになって初めて、真理っていうものは価値があるわけです。

○  ○  ○  ○

縁無き者は棄て去るも可なりと思う

池部康白

 人慾を去り得ない者の求道は利己的であるから、聞法に於いても、只気の利いた言葉だけを求めたがるものだということがわかった。これは、役に立たぬ幼稚な霊魂であって、迚(とて)も悟れない者である。
 而(しか)も、自高我慢の我意驕気(がいきょうき)と省察無き多慾と態色(たいしき)と淫志(いんし)。これら肉体的な思いは人慾であるから、色即是空の真諦(しんたい)でさえ本当には掴(つか)めていないものと思料(しりょう)せらるる。
 本来、真理は、この肉体的我執に打ち克って霊主身従ならしめ、行為の上に表現されて、はじめて生命ある真理となることが出来るのであるから、人慾未(いま)だ脱落し尽くさない者が、一時的に透見(とうけん)し得ても、全体に於いて融釈(ゆうしゃく)することが出来る筈(はず)もないのである。
 工夫は動静(どうじょう)一致して因縁の成熟(せいじゅく)を得るもので、只(ただ)見聞せざる禅定のみならば、空寂を守るばかり。是(これ)は死物である。
 又、読書聞法のみで、神と自分とは常に結ばれているということを言葉にする者も、究極に到れる者とは云(い)えない。何故なら、真に一体たらば、信念を信念とも感じないまでに自分が溶けて了(しま)うものだからである。如是(にょぜ)にして、相対の境地を超えて、自分のうちに天理を溶かし、一如(いちにょ)体現を感得出来るのである。
 天理晦(くら)まさず。作為(さい)して他を欺(あざむ)き、陰(かげ)に舌を出して笑うが如き、悪性(あくしょう)邪念の者は、到底(とうてい)その心に真理は止(とど)まるものでなく、忘失し去るので、斯(かか)る無縁の者に親近(しんごん)久しきは、賢者の行(ぎょう)とは云えない。咄(とつ)。


一九七九年(昭和五四年)法話(七) 2008/08/15

世の中のために
送り出されて来た子どもを
よくなって
  くれるように、
   自分が育てさせて
    いただく

         池部素子

 することをしなかったんだから、今度の世では、その償いのために出てこんならん。
人に、何がなかったか、って、愛がなかったわけです。

 子どもでも、自分が一所懸命育てて、
「世の中のために送り出されて来た子どもを、よくなってくれるように、自分が育てさせていただくんだ」
って思わなければ。
自分の子だと思って、みんな、好き候に育てようと思ってるけど、そうではない。
この人世のお役に立つために、自分という者を通して生ませられた、そういう生命の兄弟なんだから。

 そう思ったら、一所懸命せんならんのをしなかったから。
すると、今度の世では、貧乏人の所へ生まれてきて、そして、一ダースも子どもを生んで、一所懸命苦しんで育て、それでも、とにかく一人前に育てて、世の中へ出してやった。
そうすると、それで、もう前の世の帳消しがすんだわけです。

 でも、育ててゆく間に、ちょっと自分たちよりけっこうな人を見ると、しゃくにさわってくる。
「向こう様はあんなけっこうだのに、うちはどうしてこう貧乏なんだろう」
って、今度は旦那さんの働きがないのをうらむかも知れないし、いろんなことになって、そういう、かたっぽうでは、子どもを育てて上げるっていうことで、前の世の業が消えてるでしょ。
そこへ今度は、うらみとか、愚痴とか、そんなものを積むでしょう。
そうすると今度はまたその帳消しに出てこんならん。

 そんなにして、この人世っていうのは、出たり入ったりの永遠に絶えないところです。
こんなけっこうでもないところに。
前の世のことは何にもわからないでしょ。
なぜわからないかっていうことです。

 「どれが人間なんだ」って言うたら「これが人間なんだ」って言うでしょ。
身と心でしょ。
身がなくなったら、人間とは言われない。
また心が藻抜けてしまっても、人間でない。
その二つが合わさって人間の働きをしてる。
生まれてから発達した、赤ちゃんの呱呱の声を上げたそのときからが、人間の数に入ったわけでしょ。

 そこで、身っていうのは、もう十五、六もなってきたら、十五、六の肉体をちゃんとりっぱに成長してゆきますわね。
それだけど、精神年齢はいくつだろうかと見ていたら、五、六歳の子がありますよね。
体ばっかり十五、六になって、その所作を見てたら、バカみたいな、五、六歳ぐらいの子のすることよりできないのがあるでしょ。
そうすると「あの子はちょっと足らないんだ」って、低能児の教育されんならんようになってくる。
それだけど、そういう子でも、ジーッと観察してると、決してバカじゃないんです。
何がバカな所作をさせてるかっていうことです。

○  ○  ○  ○

我意我慾は
三界中の魔障

池部康白

 「おちぶれて
 そでになみだのかかるとき
人のこころのおくぞ知らるる」
という歌が、今朝フト思い浮かんだ。
近所に、両親も無く兄弟も無い一人ポッチの子があって、親戚もありながら、それはまことに哀れである。
我執我慾の恐ろしさ、人慾の浅ましさを染染と見せられたからである。

 覚者はすべて捨慾を説いておられるが、この人慾こそ三界中の魔障であることを、今更に痛感せしめられた。

 「観得て真なる時、すなわち戒慎恐懼是本体」
とは、本当に深く考えてみねばわからぬもので、これ如来の教導であろうと感謝します。

 吾が主、内在の良心は、佛性であり、神の子であり、父なる如来と一つにつながっている。
故に良心は、人の生死も、日常意念も何も彼もすべてを知っている。
而も全智全能、天地の神である。如是人心と天地とは一体であるから、天地と流れも同じである。
従って一如である。

 聖人孔子に、弟子の子路が死の問題を訊ねると、孔子は、
「只専念、人に仕えよ。
今人に仕える道理もわかっていないのに、どうして死を説いてわかるものか」
と云っておられる。

 常人の祷りは、多く我慾煩悩満足を祈願しているが、それも、覚者仏陀聖人たらんと志す人々は、この深い無明 の世界から解脱せんがためには、人慾の私情 私欲に打ち克って、天地の神仏の御心 を自分の心としたい誠意至純な願いのみに、たゆまず身を修め、誠意の功夫に祈りつづけておられた人たちだけであったのだ。


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