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震災・死・教育
はまなす第152号 死ぬこと・生きること(その18) 水野吉治 2009,4 2009/07/03

私「君は教会で怒(おこ)ったことはないか」
A牧師「教会学校で生徒を怒ったことはある」
私「どんなことで怒ったんだ」
A牧師「生徒が授業中騒いだ時だ。めったに怒ったりしないんだが、あまりひどい時は厳しく叱る」
私「イエス・キリストも烈火(れっか)のごとく怒ったことがあるな」
A牧師「エルサレム神殿の境内(けいだい)で、商人たちが献(ささ)げ物の牛や羊や鳩を売ったり、両替(りょうが)えをしたりしているのを見て、狂ったように激怒(げきど)した」
私「縄(なわ)で鞭(むち)を作って動物を追い出し、両替え人(にん)の台を倒して金をまき散らしたんだな」
A牧師「その時イエスの言われた言葉が、『わたしの父の家を商売のいえとしてはならない』という言葉だ」
私「献げ物の牛や羊や鳩が祭司の手に渡ったあと、また神殿の裏口からコッソリ商人たちの手に戻されて、それをまた売るんだろう?」
A牧師「祭司と商人が結託(けったく)してぼろもうけをしている。それを『わたしの父の家を商売の家としている』と言われたんだ」
私「教会もうっかりすると同じことをしてしまうんじゃないのか」
A牧師「結婚式や葬式のことを言っているのか?」
私「結婚式や葬式が福音宣教の場だとか言って、結局は金(かね)目当(めあ)てのパフォーマンスになってしまうんじゃないのか」
A牧師「結婚式や葬式は教会が世俗と接する貴重な場であることも確かだ」
私「水車が水から離れても、水の中に沈んでしまっても、どちらになっても、水車としての働きができないけど、今は水車が水の中に沈んでしまっていることが多いんじゃないのか」
A牧師「世俗の中に沈んでしまった教会に対しては、パウロが『自分の体を打ちたたく』と言った態度を取らなければならない」
私「『教会はキリストの体』と言うからな。『縄(なわ)の鞭(むち)』で人々の覚醒(かくせい)を促(うなが)すんだ」
A牧師「それが『父の家』に対する愛だ」
私「その愛は怒(いか)りを伴(ともな)っている」
A牧師「愛と怒りは一つのものだ」
私「怒りのない愛は、愛の対象をスポイルすることになる」
A牧師「『縄(なわ)の鞭(むち)』は愛の鞭だな」

はまなす第151号 死ぬこと・生きること(その17) 水野吉治 2009,3 2009/04/03

私「『牧師は信徒のために死ぬことができるか』という問題だけれども」
A牧師「簡単には答えられないな」
私「新約聖書ヨハネによる福音書10章11節には『良い羊飼いは羊のために命を捨てる』とある。この『良い羊飼い』はキリストのことを指(さ)しているんだろう?」
A牧師「そうだ」
私「『羊』は信徒のことだな?」
A牧師「たしかにキリストは信徒のために死んだ。だからといって牧師が信徒のために死なねばならないということにはならない」
私「ヨハネによる福音書21章15〜19節では、キリストがペトロに向かって『私の羊を飼(か)いなさい』と言っているが、それは『羊のために命を捨てなさい』ということじゃないのか。ペトロはその後どうなった?」
A牧師「西暦64年ローマ皇帝ネロの迫害のときに殉教して死んでいる。キリストと同じように十字架にかけられる時、『自分は、キリストと同じ十字架にかけられる値打ちのない人間だ』と言って、逆(さか)さ十字架にかけられて死んだという話だ」
私「結局羊のために命を捨てたわけだ」
A牧師「牧師がみんなペトロになるわけではないし、必要もないのに殉教しなくてもいい。また牧師が自分の家族を犠牲に巻き込むようなことは許されない。牧師の子どもも、牧師の家庭を選んで生まれてきたのではない」
私「カトリックの神父が独身である理由がわかる。君は『家庭を取るか、信徒を取るか』という場面に立ったら、家庭を取るだろう?」
A牧師「結婚した以上家庭を守る責任があるからな」
私「じゃあ、牧師の道を選んだ責任はどうなるんだ。まさか生活のために牧師になったと言うんじゃないだろうな」
A牧師「キリストが私のために死んでくれたということは、私が生きるためなんだ。私が死ぬためではない」
私「君の頭の中には、『生きることは最大の善であり、死ぬことは最大の悪である』という思い込みがある。君だけではなく、人間はみんなそうだけど。でもキリストは、その思い込みが間違っていることを証明するために十字架にかかったんじゃないのか」
A牧師「キリストの復活は、生死を超えて生きることが最大の善だというメッセージだ」
私「生死を超えているんだったら、生にも死にもとらわれないということじゃないのか」
A牧師「その通りだ。問題は、それを生活の中でどう実践するかだ」

はまなす 第150号 死ぬこと・生きること(その16) 水野吉治 2009/03/20

私「企業秘密を明かしてほしいんだが」
A牧師「何だね」
私「インターネットで、教会で葬式をしたら費用がいくらかかるかを調べた」
A牧師「インターネット上に出ているんだったら別に企業秘密じゃないだろう」
私「インターネットで調べたある教会の場合は、会堂使用料二日分で十万円、牧師への謝礼五万円、オルガニストへの謝礼三万円、あとは葬儀業者への支払い九十二万円となっていた。そこで君の教会の場合を聞きたいところだが、君の立場が悪くなってはいけないので、平均どのくらいかを教えてほしいんだ」
A牧師「別にぼくの立場を心配してもらわなくてもいいけど、参考までに一般の教会の平均を言ってみようか」
私「頼む」
A牧師「会堂使用料が十万円、牧師への謝礼が十万円、オルガニストへの謝礼が二万円、まあ葬儀業者への支払いはピンからキリまであるけど百万円というところかな」
私「有り難う。それだけ聞かせてもらえれば十分だ。いや、これまで「葬式仏教」とか、さんざん仏教の悪口を言ってきたけど、キリスト教だって偉(えら)そうなことを言えた義理ではないことが分かった」
A牧師「仏教の葬儀費用は調べたのか」
私「僧侶への謝礼は、戒名(かいみょう)料、読経(どきょう)料(通夜、葬儀、初七日忌)、お車代、お膳(ぜん)料などで、合計五十万円から百万円までさまざまらしい。葬儀業者への謝礼はキリスト教の場合とあまり変わらないんじゃないのか」
A牧師「総計ではキリスト教の方が安く済(す)むわけだ」
私「葬儀業者はそれで生活しているわけだから仕方がないけれど、牧師が五万円から十万円もの謝礼を、当たり前のように受け取っているということが許せない気がする」
A牧師「どうして許せないんだ」
私「ある私立高校で校長が教員に向かって『生徒のために死ねる者だけがここに残ってくれ』と言ったところが、そこにいた百人の教師のうち七十人残ったというんだ。教会の牧師たちに向かって『信徒のために死ねる者だけが残ってくれ』と言ったとしたら、何人残るだろうか」
A牧師「最悪の場合はゼロだろうな」
私「やっぱりそうか」
A牧師「これは大きな問題だから、改めて話し合おう」

はまなす 第149号 死ぬこと・生きること(その15) 2009/01/27

水野吉治

私「長男と次男が来た時、ぼくは、長男を次男と間違えて、次男に話しかけるつもりの話題を長男に話していた。そばに次男がいたが、次男はきっと妙な気分だったろうと思う」
A牧師「またやったのか」
私「前の事件は、人に関する記憶の誤認だったが、今度は人そのものの誤認だ。しかも、すぐそばに次男がいるのに、間違いに気がつかなかった」
A牧師「前の事件というのは、主宰(しゅさい)している聖書研究会に誘おうとした相手が、実はその聖書研究会を立ち上げてくれた当の本人だった、ということだったな」
私「今度の場合は、話しかけた相手が、長男なのに次男だと思ってしまったんだ」
A牧師「どちらの場合も、間違いにすぐ気付いたんだから、一過性だな」
私「間違ったのは、長男に話しかけた時、次男の存在が視野に入っていなかったからだ」
A牧師「とすると前の場合は、話しかけた相手の、聖書研究会を立ち上げてくれたという過去が視野に入っていなかったということか」
私「前の場合は時間の認識が失われていたのに対して、今度の場合は空間の認識が失われていた、ということになる」
A牧師「空間も時間もこの世で生活してゆく上で、無くてはならないものだ」
私「無くてならないけれど、無くなったからといって、それで人間が死ぬわけではない」
A牧師「赤ん坊が生まれて、最初に認識するのは空間だというな」
私「そう。その次が時間だ」
A牧師「認知症というのは、赤ん坊に返ってゆく姿だとも聞いた」
私「大人(おとな)たちの約束事(やくそくごと)で時間と空間が出来上がっているだけだ。どちらも実在ではない」
A牧師「それを見破っているのが、赤ん坊と認知症患者だということになる」
私「ボケているのは大人たちで、ボケていないのは赤ん坊と認知症患者だというわけだ」
A牧師「ただ、厄介(やっかい)なのは、認知症患者は自分の認識が絶対間違っていないと思い込んでいることだ。それをボケというんだ」
私「ボケている時と、ボケていない時がある。それを『まだらボケ』というらしい」
A牧師「人がボケているかボケていないかを判断できるのは、ボケていない人間だけだな」
私「本当にボケていない人間なんているのか。『自分は絶対にボケていない』と言う人間こそ、救い難(がた)いボケじゃないのか」
A牧師「この世はその救い難(がた)いボケで成り立っている」
私「じゃあ、この世こそ救い難(がた)いということになる。それでいいのか」
A牧師「困ったなあ」

はまなす 第148号 死ぬこと・生きること(その14) 2009/01/27

水野吉治

私「大みそかの晩、お腹を減らした貧しい小さい女の子が、寒風が吹きすさぶ中で、一人でマッチを売っていた」
A牧師「アンデルセンの『マッチ売りの少女』か」
私「寒さのあまり、建物の壁の陰(かげ)で売り物のマッチを擦(す)ったら、暖かい部屋の中で御馳走を前にしている自分の姿が見えた」
A牧師「職も住まいも追い出された失業者が、寒空の下で描(えが)く幻想と同じだな」
私「マッチを次々擦っているうちに、死んだおばあちゃんの姿が見えた。その女の子を可愛がってくれたのはそのおばあちゃんだけだったんだ。女の子は、優(やさ)しいおばあちゃんの姿に『私をいっしょに連れて行って!』と必死に叫びながら、おばあちゃんの姿が消えてしまわないように、あるだけのマッチをみんな擦った。おばあちゃんは女の子をしっかり腕に抱きしめてくれた。そして、もう決して寒い思いをすることもなく、苦痛もなく、飢(う)えることもない天国に向かって、二人は夜空の上へ上へと昇って行った」
A牧師「『翌朝、少女は、壁にもたれて座ったままの姿で丸くなって凍死していた、口元に微笑(ほほえ)みを浮かべながら』というところで終るんだな」
私「160年前に発表された童話だが、今の日本でも起こりうることだ。いや、すでに起こっている」
A牧師「壁一つ隔(へだ)てて、ぬくぬくと暖衣(だんい)飽食(ほうしょく)している人間もおれば、寒さに震えながら仕事を求めて歩く餓死寸前の人間もいる」
私「君は壁のどちら側に属する人間だ?」
A牧師「少なくとも餓死寸前ではない」
私「日本の家庭から出る生ゴミのうち、約4割が食べ残しであり、そのうちの約1.5割が『手つかずの食品』だという統計が出ているらしい」
A牧師「そういえば、食品工場の裏手にある廃棄物の山は、まだ新しい食パンやおかずが、賞味期限切れなどの理由で捨てられたものばかりだと聞いた。スーパーやコンビニから出るゴミも、まだ食べられるものがほとんどだという話だ」
私「国連世界食糧計画によれば,世界には8億5千万人もの人が栄養不足と飢えに苦しみ,6秒に一人の割合で子供が飢えのために命を落としているという」
A牧師「『罰(ばち)あたりの日本人』という言葉が浮かんでくる」
私「聖書には、金持ちが『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄(たくわ)えができたから、食べたり飲んだりして楽しもう』というところがあるな」
A牧師「それに対して神が『バカ者よ、今夜お前の命は取り上げられる』と言われるんだ」

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