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震災・死・教育
はまなす第147号 死ぬこと・生きること(その13) 水野吉治 2008/12/01

私「Tさんと話していた時、奇妙なことが起こった」
A牧師「何が起こったんだ」
私「記憶の中のTさんに関する大切な部分がそっくり無くなっていたんだ」
A牧師「認知症状か」
私「今やっている聖書を読む会にTさんを誘おうと思って、会の日時や、やっている内容を、事細(ことこま)かに説明し出した。すると傍(かたわ)らにいた家内が『ちょっと! Tさんは、その会を立ち上げる時から、ずっと中心になってくださっていたのよ!』と言ったので、はっと気がついたんだ。聖書を読む会がTさんたちのお世話で始まって4年以上になるのに、その記憶が瞬間的に消えていたんだ」
A牧師「一過性脳虚血(いっかせいのうきょけつ)というところかなあ」
私「10年ほど前にもそういう症状が出たことがある。大きな発作の前触れだと言われた」
A牧師「そりゃ気をつけなけりゃ。Tさんだということは、その時認識できていたのか」
私「Tさんは分かっていた。Tさんと聖書を読む会とが結びついていなかったんだ」
A牧師「人物と、その人物にかかわる事柄とのつながりが、記憶の中で切れた状態だなあ」
私「Tさんについての記憶も正確だったし、聖書を読む会についての記憶もまず正確だった。Tさんの聖書を読む会に対するかかわりだけが間違っていた」
A牧師「ジグソーパズルのピースが一つ間違って入った形だな。一つ一つのピースは認識できていても、他のピースとの関係づけができないんだ」
私「その関係づけに必要なジグソーパズルの設計図が、壊(こわ)れていたんだろうなあ」
A牧師「壊れていた設計図は奥さんの一声(ひとこえ)ですぐ回復したんだから、そんなに重症ではない」
私「ふだんは設計図なんて全く意識せずにしゃべっているけど、そもそも誰が設計図を作ったんだろう」
A牧師「そりゃ神様さ」
私「ほら来た。でも、簡単に壊れるような設計図なんて不完全じゃないか」
A牧師「壊れてもすぐ回復するんだからいいんじゃない?」
私「最初から壊れないように作れなかったのか」
A牧師「それは神様にきいてくれ」
私「また逃げる」
A牧師「じゃあ宿題ということにしておこう」
私「答えを楽しみにしてるからな」

はまなす第146号 死ぬこと・生きること(その12) 水野吉治 2008/12/01

私「今日は『神話遊び』をしてみよう」
A牧師「『神話遊び』って何だ」
私「君が死んだとする」
A牧師「もう殺すのか」
私「そして死んだ君は復活する」
A牧師「聖書によれば、そうだ」
私「復活しても、そのいのちは以前のいのちではないんだろう?」
A牧師「まったく新しいいのちだ」
私「さあ、ここからが『神話遊び』だ。復活した君には肉体があるのか?」
A牧師「普通の肉体ではなく、まったく新しい『復活のからだ』だ」
私「君の奥さんが死んだとする」
A牧師「家内まで殺すのか」
私「奥さんも『復活のからだ』になっているとすると、君は奥さんを識別することができるのか」
A牧師「できるさ。からだであろうと、霊であろうと、家内なら、はっきりわかる」
私「そうすると、君の『復活のからだ』には生前の記憶が残っており、奥さんの『復活のからだ』には生前の特徴が残っているわけだ」
A牧師「そういうことになる」
私「君が死んだときには生前の記憶はどこに保存されているんだ?」
A牧師「『復活のからだ』の中に保存されていると思う」
私「じゃあ、『復活のからだ』は生前のからだと連続しているのか?」
A牧師「いや、『復活のからだ』はまったく新しいからだだ」
私「まったく新しいということは、記憶もリセットされて無くなっているんじゃないのか」
A牧師「記憶は無くならないと思う」
私「じゃあ記憶という点では『復活のからだ』は生前のからだと連続しているわけだから、『まったく新しいからだ』とは言えなくなる。奥さんの『復活のからだ』に生前の特徴が残っているとすれば、やはり『まったく新しいからだ』ではない」
A牧師「ということは?」
私「君たちは『復活のからだ』ではないから、また死ななければならない」
A牧師「『復活のからだ』なら永遠に生きるからな」
私「『神話遊び』はここまでだ」

はまなす 第145号 2008/10/02

死ぬこと・生きること(その11)

水野吉治

私「人間ってほんとにバカだな」
A牧師「君はバカじゃないのか」
私「もちろん人間の中には、ぼくも入っている」
A牧師「どんなところがバカなんだ」
私「頭のてっぺんから足の先までバカなのさ」
A牧師「たとえば?」
私「『人間はみんな死ぬ。しかもいつ死ぬかわからない』と言いながら、自分は1秒先には絶対生きていると思い込んでいる。そこが天下一品、これ以上のバカはないという、キワメツケのバカであるユエンのユエンたるバカなんだ。つねに『自分は1秒先には絶対生きている』と思いながら一生を過ごしてゆく、死ぬ瞬間までそう思いながら死んでゆく、あわれなバカさ」
A牧師「恐ろしくゴテイネイなバカなんだな。それじゃ、どうすればそのバカが治(なお)るんだ」
私「『バカにつける薬はない』『バカは死ななきゃ治らない』って言うじゃないか。だから絶対治らない」
A牧師「身(み)も蓋(ふた)もない話だな」
私「ところが、『自分がバカだ』ということを知っているか知らないかで、天地の差が出てくる」
A牧師「どういう差が出てくるんだ」
私「『人間はみんな死ぬ。しかもいつ死ぬかわからない』と言いながら、自分は1秒先には絶対生きていると『思い込んでいる』、その『思い込んでいる』ということに気がつくか、気がつかないかという差だ」
A牧師「気がつけば、どうなんだ」
私「気がつくのは、何かが自分に働きかけて気がつくように仕向けてくれたわけだ」
A牧師「『気がつく』と言うのは、『自分に気がつく』のじゃなくて、その『自分に働きかけて気がつくように仕向けてくれた何か』に気がつく、ということなんだな」
私「その通り。そして、その『何か』が、実は『本当の自分』であり、『覚(さ)めた自分』なんだ」
A牧師「むずかしいな」
私「そのむずかしさは、『自分がバカだ』ということを知ることのむずかしさなのさ」
A牧師「なるほど。結局バカであることに変わりはないんだな」
私「この肉体が自分だと思っている間は、『死ななきゃ治らない』んだ」

はまなす 第144号 2008/10/02

死ぬこと・生きること(その10)
  水野吉治

「良寛という人を知っているだろう?」
A牧師「子どもたちと遊びながら飄飄(ひょうひょう)と生きた禅僧だな」
私「飄飄(ひょうひょう)と生きながら、いつも心配りを忘れなかった人だ」
A牧師「たとえば?」
私「『悲しんでいる人のそばで歌を歌ってはいけない』というようなことを言っている」
A牧師「なるほど。『試合に勝って大げさにガッツポーズをしたり、凱歌(がいか)を上げたりしてはいけない』ということだな」
私「『勝った者がいれば、必ず負けた者もいるのだから、負けた者の存在を忘れるな』ということだ」
A牧師「『負けた者がどんな思いをしているか。それを思いやれ』というわけか」
私「勝った者が、自分の喜びを見せつけるということは、負けた者の心の傷口に指を突っ込むような行為だと言うんだ」
A牧師「人が苦しむのを見て快感を覚える手合いもいるからなあ」
私「それがテロとか戦争には付き物だ。自分が憎んでいる相手が苦しめば喜ぶんだ」
A牧師「犯罪被害者やその家族が、犯人に対して残酷な刑罰を望むのも、一種のサディズムと言えるかも知れない」
私「相手が苦しめば、自分が楽になるというのは、アタマの中で作り上げたシーソーの幻想だ。その幻想に踊らされた結果が、報復の連鎖だ」
A牧師「幻想って?」
私「相手と競(せ)り合って必死に自分を守る、という努力をやめたら、たちまち下へ落ちてしまうという幻想だ」
A牧師「実際下へ落ちるんじゃないのか」
私「下へ落ちて、幻想から覚めてみれば、上も下もなかったということがわかるんだ」
A牧師「宇宙空間に出てみれば、どちらが上か下かわからないからなあ」
私「地球という基準を離れれば上も下もない」
A牧師「上も下も幻想ということになれば、右も左も、自分も相手も、なくなるのか」
私「自分がしがみついている基準を放せば、すべてが幻想だったとわかるんだ」
A牧師「どうやって放すんだ」
私「放す練習が坐禅なんだ」
A牧師「じゃあ坐禅しないと、どうやって放すのかがわからないのか」
私「理屈ではわかるかも知れないが、実際に放すとなると、たぶんできないだろうな」

はまなす 第143号 2008/08/15

死ぬこと・生きること(その9)

         水野吉治

私「たしか君は幼児洗礼だったな」
A牧師「そうだ」

私「気がついたら、いつの間にかクリスチャンになっていたわけだ。
何か違和感のようなものを感じなかったか」

A牧師「気がつけば、いつの間にか人間だったというのと同じことさ」
私「『気がつけば天皇家に生まれていた』、『気がつけば被差別部落に生まれていた』、というのと同じことか」
A牧師「『選んでなったのではない』という点では同じだな」

私「クリスチャンであるという理由で、国家権力その他による迫害で殺されるとすると、その『選んでなったのではない』ということを主張すれば、死をまぬかれるだろうか」
A牧師「それは通らないだろう。成人してから信仰告白式(堅信礼(けんしんれい))で自覚的にクリスチャンになっていれば」
私「信仰告白式を経(へ)ていない場合でも殺されるんだろう?」
A牧師「おそらく『踏み絵』でも踏んで棄教(ききょう)しない限りはな」

私「『選んでなったのではない』キリスト教を『棄教』するというのもおかしな話だ。
本人の承諾なしに親が決めたことに対して、本人が『責任』を負わなければならないというのはひどいと思うよ。
しかもその『責任』は『殺されるというリスク』を含んでいるんだからなあ。
『殺されるというリスク』は親が背負えばいいのと違うか?」

A牧師「幼児洗礼を子どもに受けさせようと思ったときに、そこまで考えている親はいないと思う」
私「『この子に幼児洗礼を受けさせたため、どんなリスクが生じたとしても、すべて親がかぶります』という誓約を、親にさせるべきじゃないのか」
A牧師「それがいちばんいいけど、親が死んでしまった場合にはどうなる?」

私「やっぱり子どもが死なねばならないことになる。
子どもがそれを受け入れる自覚を持っていればいいが、そうでなければ事故死同然だ。
むごいと思わないか」

A牧師「殺す側から言えば、たぶん家族・民族を殲滅(せんめつ)することが目的だから、子どもの自覚なんてどうでもいいんだ」
私「幼児洗礼を授ける側も、子どもの自覚なんてどうでもいいんだろう?」
A牧師「自覚が開けるまで祈って待つしかない」
私「じゃあ幼児洗礼を授けることも、それまで待てばいいじゃないか」
A牧師「それじゃあ『幼児洗礼』ではなく,普通の洗礼になってしまう」

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