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震災・死・教育
はまなす 第142号 2008/08/15

死ぬこと・生きること(その8)

     水野吉治

私「アーミッシュって知ってるだろう?」
A牧師「自動車、電気、コンピュータを持たないキリスト教コミュニティだな」
私「そのコミュニティで、2006年10月2日の午前10時半、世界を驚かす事件が起きた」
A牧師「新聞で読んだ気がする」

私「ペンシルベニア州のアーミッシュの小学校に、銃を持った32歳の男が押し入って女子児童5人を射殺し、他5人に重傷を負わせた。
その9年前、この男の長女が生後20分で死んでしまったことに対して、だれかに悲しみと怒りをぶっつけたいと思っていたらしい。
それで、クリスチャンの女の子を殺して、神に対して仕返しをしようとしたという」

A牧師「新聞記事では、アーミッシュの13歳の女の子が『私を最初に撃って』と進み出て、真っ先に殺された、と書いてあった」
私「アーミッシュの学校に掲示してある『JOY(ジョイ)』を実行したわけだ」
A牧師「というと?」
私「J(ジーザス)はイエス・キリスト、O(アザーズ)は他の人、Y(ユアセルフ)は自分のことで、この順番を守れというんだ」
A牧師「自分をあとまわしにしてキリストと他の人のことを大切にしなさいということか」

私「犯人が現場で自分の頭を撃って死んだその数週間後、子どもを殺されたアーミッシュの親たちが、犯人の家族を訪問した。
抗議のためではなかった。
アーミッシュと犯人の家族とは輪になってすわり、まず犯人の妻が立ち上がって謝罪しようとしたが、泣きじゃくるばかりで言葉にならない。
アーミッシュの親は、恨みも憎しみもないと言って犯人の妻を抱きしめて泣いた。
他の者も話しては泣き、話しては泣き、犯人の家族もアーミッシュも全員が抱き合って泣きながら、こころ震える赦しと和解の瞬間を体験したというんだ。
ちなみに犯人もその家族もアーミッシュではない」

A牧師「日本でも同じような事件がよく起こるが、被害者側の反応はアーミッシュと正反対だ」

私「それを代表しているのが法務大臣鳩山邦夫だ。
今回の宮崎勤(つとむ)、陸田(むつだ)真志(しんじ)、山崎義雄の3名を含めてこれまでに13名もの死刑執行を命令している。
秋葉原の無差別殺傷事件に対する世論を出(だ)しにして、被害者感情や凶悪犯罪の抑止力を大義名分に利用している」

A牧師「被害者の報復感情をあおるわけだ」
私「『キリストを十字架につけろ』と叫んだユダヤ人の群集心理と同じだ」
A牧師「法務大臣が無責任な衆愚の一人になっている」
私「死刑執行を命令した法務大臣は、執行の瞬間を自分の目で見届けるべきだと思う」

はまなす第141号 2008/06/23

死ぬこと・生きること(その7)

      水野吉治

A牧師「体の方はどうだ?」
私「有り難う。まあ普通に生活できている」
A牧師「大分痛かったようだな」
私「体中の関節が痛んだが、クリニックと接骨院に通って随分よくなった」
A牧師「どんな風に痛むんだ?」
私「それをいくら詳しく話しても、おそらく誰にも分かってもらえないだろう」
A牧師「痛みとはそういうものなんだろうなあ」
私「そうなんだ。でも、分かってもらえる部分はある」
A牧師「それは?」
私「〈痛みの持続〉ということだ。痛みの起こり方だ」
A牧師「痛みが持続するというのは、確かに分かる」
私「患者が一番苦しむのは、その〈痛みの持続〉なんだ」
A牧師「そうだろうなあ」
私「患者として気がついたことが一つある」
A牧師「それを聞きたい」
私「〈持続〉ということは、〈意識〉に関係があるんだ」
A牧師「麻酔というのは、その〈意識〉を局部的か全身的に麻痺させることなんだろう?」
私「そうなんだが、僕の気づいたのは、患者が〈この痛みはどのくらい続くのか〉と思うことで、痛みを倍増させてしまうことなんだ」
A牧師「なるほど」
私「どんなひどい痛みでも、実際は〈持続〉していなんじゃないだろうか」
A牧師「痛みの〈途切れ〉があるということか」
私「そう。猫でも犬でも、人間ほど痛みに苦しまないんじゃないだろうか」
A牧師「そうかもしれない」
私「人間は、痛みの〈途切れ〉があっても、そこを〈記憶〉で繋いでしまうと思う」
A牧師「〈記憶〉だけじゃなくて、〈この痛みはいつまで続くんだろうか〉という不安にさいなまれるんだなあ」
私「〈痛みの時間〉を作ってしまうんだ」
A牧師「〈点的な痛み〉を〈線的な痛み〉に変えてしまうというわけか」
私「そのとおり。だから問題は、どうすれば〈点的な痛み〉を〈線的な痛み〉に変えてしまわないようにできるかということなんだ」

はまなす 第140号 2008/05/12

死ぬこと・生きること(その6)
                    水野吉治

私「『千の風になって』という歌を知っているか」
A牧師「知っている」
私「あれをどう思う?」
A牧師「どう思う、って?」
私「キリスト教の立場から、何も問題にならないか?」
A牧師「クリスチャンの中にも、あの歌に慰められたと言う人がいるが」
私「聖書のキリストの復活の記事に『空虚な墓』というのがあるな。あれは復活が、ただの『存在』ではないという意味だろう?」
A牧師「『キリストは復活してここにはおられない』と天使が言った記事だな」
私「『私は、千の風になって、ここにはいません』というのと同じことだろうか」
A牧師「いや、ちがうと思う。『千の風』になったら、ただの『存在』になってしまう」
私「お母さんを亡くした子どもに、『お母さんはお星様になった』と言って聞かせれば、やっぱり『存在』しているという意味になるし、おとなにだって、『天国で、死んだ人にまた会える』と言うんじゃないのか」
A牧師「『天国で会える』としか言いようがないからな」
私「でも、キリストは、天国じゃなくて『この世で』現れ、霊魂じゃなくて『生身(なまみ)の体で』、弟子たちの前に姿を現したんだろう?」
A牧師「キリストはそうだけど、普通の人間が死んだあと出てきたら、幽霊だと思われるだろうな」
私「普通の人間でも、復活では『復活の体』が与えられるんじゃないのか」
A牧師「その通りだ」
私「じゃあ復活の体は『存在』しているんだな」
A牧師「ちょっと待て。『存在』はしているけど、この世の『存在』とは違う」
私「それって、幽霊じゃないのか」
A牧師「いや、『生身の体で』ということだ」
私「つまり、弟子たちは復活を『ありありと』体験したということか」
A牧師「それを詩的に表現すると、『千の風』とか『お星様』ということになるんだ」
私「この世の『存在』とは違うということを表現しようとすると、詩になってしまうということか」
A牧師「そうだ」
私「しかし、やっぱり『千の風』はいただけないなあ」

はまなす 第139号 死ぬこと・生きること(その5) 2008/04/22

私「君は、キリストの死を自殺だと思うか」
A牧師「うーん。『自殺的』ではあるが、はっきり自殺とは言い切れないなあ」
私「どうして?」
A牧師「キリストは、十字架にかけられる前に、できればそれを避けたいと、神に祈っているんだ」
私「そして、結局は、自分の意志で避けなかったんだろう? それとも神に強制されたのか?」
A牧師「強制されたわけじゃないけれど、十字架を前にして、血の汗を流すほど苦しんでいる」
私「死刑囚として死んだわけだな」
A牧師「そうだ」
私「罪名は何だ?」
A牧師「ローマ帝国に対する反逆というところだろうな」
私「治安維持法違反か」
A牧師「だけど教会の解釈は違う」
私「全人類の罪を引き受けて、犠牲になったと言うんだろう?」
A牧師「だから、自殺か他殺かという分け方には、あてはまらないんだ」
私「ちょっと話題を変えるが」
A牧師「ほら来た」
私「人体は8兆個の細胞から成っているという。血球を含めると30兆個もあるらしい」
A牧師「それで?」
私「その細胞の一つ一つが『死にたくない!』と叫んでいるんだ」
A牧師「何が言いたいんだ」
私「自殺であろうが、他殺であろうが、それは細胞の叫びを無視して殺すことなんだ」
A牧師「ふん。だから?」
私「キリストは、その細胞の叫びに耳を傾けただろうか」
A牧師「わからない」
私「細胞の叫びは、神の声かもしれない」
A牧師「神が『死にたくない!』と叫んでいると言うのか」
私「『生きろ。生き続けろ』というのが神の意志じゃないのか」
A牧師「考えてみよう」

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