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震災・死・教育
はまなす 第167号 2010,7  死ぬこと・生きること(その33)   水野吉治 2010/07/30

私「認知症やアルツハイマー患者を本当に理解しようとするならば、患者の心の中にまで入り込んで、患者と同じ症状を体験しないと理解したことにはならない」
A牧師「普通そんなことはできないだろう」
私「それをみごとにやってのけた例がある。ハーバード大学で神経科学の博士号を取ったリサ・ジェノヴァという女性が、『静かなアリス』(講談社)という物語を書いた」
A牧師「小説か」
私「とても小説とは思えないほどなまなましい。主人公はアリスというハーバード大学の認知心理学の教授で世界的に有名な女性研究者という設定だ。50歳のとき若年性アルツハイマー病と診断される。そして今自分に分かっていることも近い将来分からなくなるという不安に取りつかれる」
A牧師「そういう不安は、味わっている本人でなければ理解できないことだな」
私「本人にとっていちばん恐ろしいことは、記憶がなくなって行き、自分が誰だか分からなくなって行くということだ」
A牧師「じゃあ、この小説に救いはないのか」
私「ちゃんとある。題名の中にある」
A牧師「『静かなアリス』という題名のどこが救いなんだ」
私「『静かなアリス』という題名は、Still Alice を訳したものだ」
A牧師「それがどうして救いなんだ」
私「Still Alice は『静かなアリス』ではなくて、『それでもやはりアリス』と訳すべきだと思う」
A牧師「どうしてだ」
私「『アリスは、どんなに壊れてもアリスだ』というメッセージが込められているんだ」
A牧師「アリスは、アリス以外のものになりようがないということだな」
私「壊れたアリスの破片をかき集めて復元できたとしても、それは本当のアリスではない。アリスは、断片のアリスの総体以上のものだ。いくら部品をつなぎ合わせてもアリスの『いのち』にはならない」
A牧師「なるほど」
私「認知症やアルツハイマー患者の個々の行動や言葉を組み立てても、それだけでは認知症やアルツハイマー患者を理解したことにはならないんだ」
A牧師「じゃあどうすればいいんだ」
私「認知症やアルツハイマー患者とともに死ぬ以外にない。自殺や心中ではない。ともに死んで、ともに生きるんだ。それが復活ということだろう?」

はまなす 第166号 2010,6 死ぬこと・生きること(その32) 水野吉治 2010/07/18

私「闘病という言葉がどうも好きになれない」
A牧師「きみは結核で療養生活を送ったことがあるだろう?」
私「しかしあれを闘病などと思ったことはない。大体病気と闘って病気に打ち勝ったと思うのは、人間の幻想だ」
A牧師「抗生物質で結核菌を全滅させれば、勝ったのと違うか」
私「医師は結核菌と闘っていると言えるのかもしれないが、患者はどうやって闘えばいいのか分からないだろう。結核菌なんて想像することはできても、実際は見えないんだから」
A牧師「結核菌の方は、抗生物質に対する耐性で自分を守って、自分を殺そうとする薬がやってきてもビクともしないほど守りを固めているらしいな」
私「そんな強敵を相手に闘って、勝ったとか負けたとか言っても、しょせん人間の一人相撲(ひとりずもう)だ。体の痛みや死の不安に耐(た)えていただけさ。痛みや不安は耐(た)えるしか仕方がないものだ」
A牧師「だから闘病なんて無意味だと言いたいのか」
私「病気と闘うというのは、何か大きな勘違(かんちが)いをしているんじゃないのか。老(お)いと闘うとか、死と闘うとかいうのも大きな勘違(かんちが)いだと思うんだ。それは人生と闘うというのと同じことだ。自分の立っている地面を相手に闘っているようなものじゃないのか」
A牧師「闘っていると思い込んでいるだけか」
私「闘っているという幻想から覚めてみれば、自分の一人相撲(ひとりずもう)なんだ。見渡す限り自分ばかりなんだ。勝ちも負けもない」
A牧師「じゃあ病気や老(お)いや死に対しては闘うんじゃなくて、耐(た)えるしかないのか」
私「病気や老(お)いや死が何かを告げようとしている。そのメッセージを聞きとらなければならない」
A牧師「そのメッセージを取り次ぐのが宗教家の仕事だな」
私「なぜ自分は苦しまなければならないのか。人間はその意味を知りたいんだ」
A牧師「その答えはそうかんたんに見つかるものではない」
私「その答えは自分の範囲をいくら探しても見つかるはずがない」
A牧師「自分を超(こ)えたところに答えがあるんだな」
私「問題はどうやって自分を超(こ)えられるかということだ」
A牧師「宗教的に言えば、祈りによるしかない」
私「祈れたらその瞬間に、すでに答えが与えられている」
A牧師「祈りは問いであると同時に答えでもあるわけだ」

はまなす 第165号 2010,5 死ぬこと・生きること(その31) 2010/07/18

水野吉治
私「地球上でいちばん悪質な『害獣(がいじゅう)』は何だと思う?」
A牧師「分からない。イノシシだろうか」
私「じゃあ、いちばん人間の役に立っている動物は?」
A牧師「牛、馬、犬か?」
私「いちばん人間がいじめている動物は?」
A牧師「無数にある。殺したり、おもちゃにしたりして」
私「そこで最初の問題に返るんだが、『害獣(がいじゅう)』とか『猛獣(もうじゅう)』と言われる動物も、人間が脅(おびや)かさない限り、何もしない。つまり『害獣(がいじゅう)』や『猛獣(もうじゅう)』を作っているのは人間なんだ」
A牧師「じゃあ地球上に『害獣(がいじゅう)』や『猛獣(もうじゅう)』はいないのか」
私「それがいっぱいいるんだ」
A牧師「それは何だ」
私「人間さ。人間は、自分の欲望を満たすために、動物たちが平和に暮らしている領域を荒らして、殺戮(さつりく)し、病気をうつし、散々な目にあわせている」
A牧師「要するに人間は、動物の利益を侵害するものだから『害獣(がいじゅう)』と言うわけだ」
私「しかも自分たちが『害獣(がいじゅう)』だという意識は全くない。」
A牧師「そればかりか人類のためにいいことをしているとか、動物を可愛がっているとか思いこんでいる」
私「人間にとって都合が悪くなれば『殺処分(さつしょぶん)』、牛や豚を食べる場合は『屠殺(とさつ)』だ。勝手なものさ」
A牧師「人間以外は全部『資源』なんだ」
私「『動物愛護』と言っても、動物を本当に愛しているんじゃない。ところで、金子みすずという詩人を知っているだろう?」
A牧師「『大漁(たいりょう)』と言う詩を書いた人だな」
私「浜で、『イワシがたくさん獲(と)れた』と言って漁師(りょうし)が喜んでいるとき、海の底では何万というイワシたちが葬式をしているだろうという詩だ」
A牧師「金子みすずの『鯨法会(くじらほうえ)』と言う詩は、人間に親を殺されたクジラの子が、親を恋(こい)しがって泣いているという詩だ」
私「何一つ悪いこともしないで平和に暮らしている動物を、われわれは殺して食べたりしているんだ」
A牧師「そして『自分は直接動物を殺してはいない』と責任逃(のが)れをしている」
私「食卓に運ばれてくる肉などは、きれいに処理されていて、殺戮(さつりく)の跡形(あとかた)もない」
A牧師「想像力の貧しい人間が肉を食べるときは、殺される動物の苦しみには無関心だ」

はまなす 第164号 2010,4 死ぬこと・生きること(その30)   水野吉治 2010/05/20

私「若井晋(すすむ)という東大医学部教授で神経外科医だった医師が54歳のとき、急に漢字が書けなくなる。アルツハイマー病の始まりだった」
A牧師「漢字が書けないって誰にでもあることじゃないのか」
私「若井さんは、駅の券売機(けんばいき)や銀行のATM(エイティーエム)などの操作ができなくなった。電話番号のダイヤルも極端に遅くなった。57歳ですでに自分の名前のサインができなくなっていた」
A牧師「そこまで行くと深刻だ」
私「59歳のとき、若年性(じゃくねんせい)アルツハイマーと診断され、東大を退官した」
A牧師「地位や肩書(かたがき)を失う苦しみは大きかっただろう」
私「地位や肩書(かたがき)は世間の約束事(やくそくごと)だから、本当の実在ではない。実在していたものが失われたのではなくて、最初から無かったんだ」
A牧師「無いものを、有ると思って、つかんでいたが、気がついたら最初から無かったというわけだ」
私「だから苦しむ必要はなかった」
A牧師「自分がアルツハイマーだということを、いまさらあらためて認めるとか受け入れるとかいうことをする必要もない」
私「認めても認めなくても、アルツハイマーであることに変わりはない」
A牧師「信じても信じなくても、キリストにおいて救われているということと同じだな」
私「そうだ。信じて、それから救われるのではなく、信じた瞬間に救われている。実は信じる前から救われているんだ」
A牧師「永遠に救われているということは、そういうことだ」
私「前後関係や時間というものも、世間の約束事(やくそくごと)だから本当の実在ではない」
A牧師「じゃあ本当の実在って何だ」
私「宗教的にいえば、天地創造以前ということだ」
A牧師「天地創造以前なら、何も無いということか」
私「『有る』と『無い』とに分かれる以前だ」
A牧師「言いかえれば『信じる』と『信じない』とに分かれる以前、『認める』と『認めない』とに分かれる以前というわけだ」
私「そうだ。世間の約束事以前だから、『有る』と『無い』とを超えている」
A牧師「アルツハイマーの世界は、救いを象徴している世界だな」
私「アルツハイマー患者を、無理やり健常者の世界に合わせようとしてはいけない」
A牧師「アルツハイマーから発せられているメッセージを聞きとらなければいけないんだ」
私「その通り。患者と周囲の人はアルツハイマーから学びとらなければならない」

はまなす 第163号 2010,3 死ぬこと・生きること(その29) 水野吉治 2010/05/19

私「幼児が、実の親から虐待を受けて死亡するという例が後を絶たない」
A牧師「わが子を殺してしまうなんて、実の親にできることだろうか」
私「その背景として、さまざまのことが挙げられているようだが、すべて評論家のもっともらしい解説にすぎない」
A牧師「評論家というのは、しょせん傍観者だからなあ」
私「評論家は安全地帯から解説を加えるだけで、決して虐待の現場に近づこうとしない」
A牧師「そういう態度をイエス・キリストが批判して、次のような話をしている。
追いはぎに襲われて半殺しにされた人のそばを、宗教の専門家が通りかかったが、関わり合いになりたくないので、見て見ぬふりをして行ってしまった。そのあと通りかかった一人の通行人が、近寄って傷の手当てをし、宿屋に連れて行って介抱した。そして一文無しになっていた怪我人に当座の金まで与えた、と言うんだ」
私「現在の牧師や坊主にとって、耳の痛い話じゃないか」
A牧師「宗教家には宗教家の務めがあるから、虐待だけにかまってはいられない。まあ、支援センターや児童相談所とか警察に通報するぐらいはしなければならないだろう」
私「宗教家の務めとは何だ」
A牧師「まず伝道だろうな」
私「説教さえしていればそれが伝道になるのか」
A牧師「それは本当の伝道ではないということをキリストが言われたんだ」
私「じゃあ、困っている人のそばに行って助けてあげることが伝道なんだな」
A牧師「その通り」
私「それを実行している牧師や坊主はどれくらいいる?」
A牧師「残念ながら少数だ」
私「ほとんどの役人も、市民から虐待を通報されても、簡単には動かない。役所では、『遅れず、休まず、仕事せず』という役人根性を忠実に守っている」
A牧師「余分な仕事を背負いたくないという気持ちは分かる」
私「じゃあ、牧師も、役人とそう変わらないわけだ。しかし、追いはぎに襲われた人を助けた通行人の話のあとで、キリストは、『行って、あなたも同じようにしなさい』と言ったんじゃないのか」
A牧師「そこがつらいところなんだ」
私「なかなか正直だな。それでこそ牧師と言える」
A牧師「やっとほめてくれたか」
私「まだ無罪放免ではないぞ」

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